Après la pluie2014/09/01 01:13:16

子どもの頃、テレビは歌謡曲番組全盛だった。次から次へとアイドルが誕生し、次々と持ち歌が発表されて売り上げを競っていた。私は番組で歌われる歌はおよそ全部覚えていたが、とりわけほっそーいなよっとしたカラダに長い髪を揺らす男たちに目がなかった。フォーリーブスに始まって野口五郎やあいざき進也、沢田研二と興味の対象を広げながら(移したのでなく、広げたのである。たったひとりだけを愛するという状態を全然続けることができないのは幼時からの私の性〈サガ〉である)、今日の一番は誰にしよう、ゴローかな♪などというふうに、自分の妄想の中でのランキングを入れ替えて楽しんだ。ちなみに「今日の一番はゴロー」というのは、たとえば歌謡曲のヒットを競うベストテン番組で野口五郎がめでたく1位を取ったとかそういうことではない。それは、たとえば番組の中での表情とか、司会者の質問への受け答えとか、テレビの前の視聴者への語りかけぶりとか、そうした「彼」の立ち居振る舞いや仕草、声色、目の表情などを総合的に「評価」して(笑)、「今日の1番はゴローだったわ」と、ひとり悦に入るのである。ときたま、「1番」はコーちゃん(フォーリーブスの北公次)だったりジュリー(沢田研二)だったりしたが、ほとんど毎日野口五郎であった。というより、年々好きな歌手は増えていくけれど、野口五郎は平地にそびえる塔のように他の追随を許さないのであった。

野口五郎の持ち歌に「夕立のあとで」というのがあるが、ご存じだろうか。
ここ近年、よくある突然のどしゃぶりの雨があまりといえばあんまりな大雨であり、あまりにも豪雨であるために、ゆうだち、なんて風流な言葉で形容できる雨には、とんとお目にかからなくなってしまった。それでも私は、夏の午後、にわかに空が曇ってひと雨ざざああっと来た時には必ず野口五郎の「夕立のあとで」を思い出す。もちろん、ゴローちゃんの歌声で思い出すのだ。雨上がりのまちは瓦も街路樹も道も空気もきれいに洗われたように清澄だ。「夕立のあとで」はまさにそのとおりのことを歌っていて、ちょっぴり説明的ですらある。

野口五郎はたしか「私鉄沿線」という歌で大きな歌謡賞を獲ったので、昭和のアイドルについてよくご存じでないかたも「野口五郎/私鉄沿線」はセットでご記憶にあるのではないだろうか。でも、熱狂的ファンの立場から言わせてもらうと、駅とか改札とか部屋の掃除とかといった具象パーツが少々トキメキ感に欠け、よくできた歌だとわかっていても、けっきょく何が言いたいのかよくわからない「こころの叫び」とか「告白」とか「君が美しすぎて」とかの単なるそれらしいワードの羅列による抽象的ななんか青春やんこれ、みたいな歌のほうがわけもなく好きだったりするのである。ちなみに私が完全にイカレてしまったのは「甘い生活」で、この曲をきっかけにゴローちゃんはアイドル新御三家のひとりからメキメキと大人の歌手へと脱皮に脱皮を重ねていくわけだが、そのあとの幾つもの名曲に比べても、やっぱり「甘い生活」がいつまでもいつまでも好きだった。

「夕立のあとで」が発表されたとき、私はとてもがっかりしたのだった。その説明くささとメロディーラインがとても野口五郎を「老成」させて見せた。おっさんくさい。はっきりゆーとそういうことであった。なんかいやや、この歌。五郎が年寄りくさく見える。早く次の新曲出してくれ。そんなふうに思ったのをはっきり覚えている。それなのに、何十年も経った今、何かのはずみで古い歌を思い出す機会といえば、たったひとつ、夏の午後の雨降りなのである。夕立に遭うと必ず思い出すのだ、「夕立のあとで」を。面白いものである。大好きだった「こころの叫び」も「甘い生活」も、それほど「くっきりした」記憶を呼び起こすきっかけはない。野口五郎の持ち歌としてはそんなに好きでもなんでもなかったこの歌は、年を経るごとに、その歌詞の含む物語世界の大きさ、深さに自身が入り込んでいくような気にさせる。私は雨をきっかけに過去の恋愛を思い出すことはないが、夕立でこの歌を思い出したとき、否が応にも「少しは忘れかけてた」あんなことこんなことに引き戻されるのである。罪な歌である。

「雨あがる」というよい映画がある。この映画はフランスでたいへん好評を得たそうだ。かつて当時の相方の部屋でこのDVDを仏語字幕つきで観た。彼に限らず、日本の好きなフランス人は声を揃えてこの映画を大好きだという。仏語タイトルは「Après la pluie」(雨のあとで)。仏語タイトルを見たときも、私の思考回路は「夕立のあとで」を引き寄せた。「雨あがる」と「夕立のあとで」は描いている世界はまるで違うのだが、私の中では緊密にリンクしている(笑)。

雨は時に牙を剥き、そこかしこに残忍な爪痕を残すこともある。
生き延びている幸運を素直に喜び、生きていればめぐる季節と呼び覚まされる記憶を反芻しながら、毎日を大切に生きていきたいし、雨を嫌わず雨とともに在りたいと思うのである。


「夕立のあとで」

作詞:山上路夫
作曲:筒美京平
歌:野口五郎

夕立ちのあとの街は きれいに洗われたようで
緑の匂いが よみがえります
忘れようと 努めて少しは
忘れかけてた あなたの想い出が
急にあざやかに もどってきました

夕立ちの多い夏に 愛して別れた人です
風さえあの日と おんなじようです
通りすぎる 小さな軒先
風にゆられて 小さな風鈴が
遠い夢を呼び かすかに鳴りました

夕立ちのあとの街は なぜだかやさしげな姿
心にかなしく ひびいてきます
生きていれば 季節はめぐって
夏があなたの 想い出呼びさまし
過ぎたあの頃に もどってゆきます

忘れようと 努めて少しは
忘れかけてた あなたの想い出が
急にあざやかに もどってきました

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La myrtille2014/09/03 20:59:52

7月の真ん中2週間ほど、家を留守にしていた。
出発前にはまだ青かったブルーベリーが、帰宅するとすっかり美味しそうに色づいていた。
この写真は6月に撮ったものなので、出発前の7月初めはもう少し実が丸くなっていたんだけど。

お日さまのほうを向いていた実が、あたしも年をとったわといわんばかりに皆うつむいて(笑)。
ブルーベリーらしく、ええ色に熟れたもんじゃわい。
収穫している手は帰国中の娘。
したがって、写真は8月初めなのだ。7月下旬に帰宅してこれら実の数々を目にし、早く収穫したくてウズウズしていたのだが、娘が帰るのを待って一緒に収穫しようと思ったわけであった。

ほかの枝についていた実も……。

このように。

我が家にはネズミが棲んでいて、プランターに実るさまざまな実を次々にかじりにきてくれるので、娘が帰るまで食われないように覆いをしておいたんだけど、覆いの上から食われた形跡が……。ったくもう。


しかし、それでも、今回の収穫は50粒。昨年は7粒(笑)だったことを思えば飛躍的な進歩だ! 7倍以上も穫れたわけだから、来年は350〜400粒くらいいけるぞ!


今夏の収穫分50粒は、この春以降、母のためにこまめにつくっているおからマフィンのトッピングにつかった。こういってはなんだが、アンタ、もう最高に美味しかったわよ! 

収穫しながら娘がひとつ、ふたつ食べて美味しい〜と叫んでいたが、やはり加熱すると甘みが倍加する。来夏はブルーベリージャムをつくれますように。

Super Moon2014/09/09 20:42:13

9月9日は重陽の節句。それ何?というかたはご自身でお調べくだされ。まあ旧暦での話だからほんとのところは今日がそれだと言うのはちとしんどいと思うんだな。でもそんなことゆーてたら1月1日も3月3日も5月5日も7月7日もどれも本来は旧暦での節句やのにその日にお祝いやらお祭りやらしてるしな。ま、ええねんな。

月もこのうえないほど綺麗やし。今夜8時頃の東の空。物干しから撮りましたの。
マンションと電線が忌々しいわ。この場所から、子どもの頃は大文字の送り火も眺めたザマスのよ。東山の稜線がなだらかで美しく、ときどきは早起きして、空と山を染める朝焼けを見に駆け上がったものですのよ。
あーあ。周りは小汚い四角いビルばかりになりまして候。

ぼやくのはやめて、望遠でスーパームーンに肉迫っ。
すっきり晴れた夜空に月光。夜ってそれ以上何も要らないよね。夜は暗くていい。月や星の煌めきが冴える。月光を頼りに夜道を歩いたもんなんだよかつては。
ヘンゼルとグレーテルだって、月に光る小石を頼りに、森から家に帰ったんだ。


でも、昔はこうだった、だとか、もともとこういうもんだった、だとか、そんなことあまり言いたくないもんな。時間は必ず過ぎていて、ひとは誰でも同じように年をとり、世の中は変わる。変わっては、いきなりおとずれる揺り戻しに戸惑い、どう振る舞えばいいのか迷いやためらいを見せる。その都度人びとが知恵を絞って、その時点での最適の答えを出してきた。その時点での最適の答えが、振り返ってみればまったくよくなかったということは多々ある。気づけば軌道修正をするとか、同じ轍は踏まないとか、先人の死を無駄にしないとか、道の採りかたはいろいろさまざまだろうけど、つまりノスタルジーやそもそも論で「昔はよかった」を繰り返す愚とは、歴史に学ぶとか経験知とかって対極にあるはずやん。扱う対象の存在が大きければ大きいほど、積み重ねて結集されてきた叡智に負うところ大のはずやん。育児、教育、研究。経営、行政、政治。


右翼あほぼんはアベとかアソーだけやと思てたけど、じつはぎょうさんやはるねんて! びっくり。てか、ハーケンクロイツ掲げる日本人の団体があるなんて私は全然知らなかったんだけれども、そいつらとハイポーズで満面の笑みたたえた記念写真撮るってどんな現代の政治家なん。その噂の写真、何日か前にほかのブログ経由で見て吐きそうになったけど、外国メディアにも見つかっちまったぜ。恥!


内田樹@levinassien

ネオナチとの関連性が暴露された閣僚たちは自分たちの政治的ポーズが国際世論にどのようなリアクションをもたらすかについてはまったく何も考えていなかったようです。自分たちの言動を国際的な文脈において吟味する習慣のない人間はとりあえず「グローバル」なんとかについては語る資格ないです。

任命責任として、これから安倍政権は政府発表の文章中の「グローバル」をぜんぶ「ドメスティック」に書き換えることを要求します。いや、ぜひお願いしたい。「ドメスティック人材育成戦略」とか「経済の急激なドメスティック化」というような文章を読むと、妙に説得力ありますよ。

安倍側近のふたりとネオナチとのツーショットについてAERAのエッセイを書きました。「頼まれれば誰とでも写真を撮る」ので迷惑しているというのが事務所の釈明でした。いや、問題は「そういう人」から「一緒に写真に写りたい人」だと思われているという点にあるわけでしょ。

政治家の力というのは「正味のところどういう人物であるか」によってではなく、「どういう人だとまわりから思われているか」によって決定される。だから「李下に冠を正さず」という古諺があるわけです。公人がすももの木の下で冠をいじると、自動的に「すもも泥棒」だと思われる。

「私はすももなんか盗ってない」と言ってもダメなんです。古代から「政治家はどのような行為も『最悪の意味で解釈されるリスク』を勘定に入れて行動を律せよ」という教えがあって、そんなことは彼らだって中学生のときに国語の時間に習っているはずなんですから。

ある夕刊紙から「安保理の非常任理事国入りのためにバングラディシュに6000億円送って、立候補を見合わせてもらったのって、どうですか?」という電話コメントのお求めがあったので、「浅ましいことです」とお答えしました。なぜ日本が常任理事国になれないのか。

それは去年の広島講演でオリバー・ストーンが言ったように、「日本の政治家には世界に向けて発信するメッセージが何もない」からです。国際社会において日本以外のどの国も代替し得ない役割といったら、それは「平和憲法を護って、70年どことも戦争をしていない」という事実以外にない。

現に、平和憲法のおかげで「テロのリスクがほとんどない」からこそ、福島原発が「コントロールされていない」にもかかわらず、マドリード、イスタンブールより東京が五輪開催都市に選ばれたわけです。でも、そのことを日本政府は言わない。言いたくない。

でも、その「最大のメッセージ」を捨てて、アメリカの世界戦略に追随するだけなら、どんな国も「日本が国際社会の未来についてどんなヴィジョンを持っているのか知りたい、日本の指南力に期待しよう」なんて思いませんよ。

前に常任理事国枠を増やして日本も入れて欲しいと懇願したときに拒絶された理由を覚えているはずです。「アメリカの票が一つ増えるだけだから無意味」と言われたのです。これだけ国力があって、国内統治に成功していながら日本が選ばれないのは「世界に向けて語る言葉」がないからです。

「グローバル化する経済に最適化すること」を国是にするような国に「国際社会の行く道を照らし、領導してもらおう」と思う国なんかありません。「僕の理想は『みんながしていること』の真似することだよ!」という人をリーダーに頂く集団がないのといっしょです。


日本は国連安保理常任理事国になりたくてなりたくてしょうがないんだけど、どうしても日本を常任にしたくない国が常任にいる以上ぜったいなれない。悔しいけど数年間に一度非常任理事国の椅子が回ってきた時にアジア諸国をはじめとした加盟国全体のために働くのが使命だろう。数年前はそういう議論だったんだけど、いまは、たとえ現在の5大国=常任理事国が諸手を挙げて歓迎してくれたとしても、あたしゃ絶対この国を「非」があろうがなかろうが常任理事国にしたくないよね。恥ずかしくってアンタそんな、そんなていたらくで表へ出なさんな。お天道様に恥ずかしい! お月様にも恥ずかしい! 新内閣の顔触れどれひとつとして国際社会に「我が国の閣僚です」って見せたくない。史上最悪。


月が笑う

作詞:井上陽水
作曲:井上陽水
歌:井上陽水
 
いつもの夜が窓の色を
知らぬ間に変えて
我が家に来ました
薄着の君は頬杖して
夜をはおれたら
寒くはないのに
やさしいのは誰です?
夜よりやさしいのは?
さみしいのは誰です?
僕よりさみしいのは?
指輪の跡が白くなって
月日の流れの
速さにぬかれた
形を決めて夢を作る
転がる形に
出来ればいいのに
時計はいつも通り
ボーンボーンと
この部屋の為だけに
ボーンボーンと
話は尽きて月が笑う
君と僕以外
帰り道もない

L'Ecosse2014/09/29 11:47:25

先週からトンテンカンカンと工事をしている我が家である。そのためにほぼ物置エリアになっていた場所を空っぽにするため、今月、娘が発った11日の翌日からただひたすらモノを引っぱり出し、仕分けしては捨て、捨てては掃除し、を繰り返していたのである。おおかた捨てればいいものだったが、捨てられないものもある。親族の写真とか、ね。たとえば。還暦を迎えた従姉妹の結婚式の写真とか(笑)、うわー若いー可愛いー、と母と騒いで時間が過ぎたりも、する。

そしてこんなものも発見。5年前に消費期限を過ぎていたカンパン。
をををっ 災害の備えって何ですか?状態の我が家にも非常食なるものがあったのだ! そういえば私の父は熱心な消防団員だったので、消化器はもちろん常備していたし、非常時持ち出し袋(っていうんだっけ)みたいなもんもあった気がする。今回発見しなかったけど。あっそうか、きっと前に古いものを片づけた時に、汚い袋は捨てちゃって食糧だけは取っといたわけだ(笑)。だからカンパンの缶だけがぽつんと。

折しも世間ではスコットランドの独立をかけた国民投票の話題が沸騰しており、私は、20年以上前の夏、フランスの夏期講座で同じクラスになったエコスの女の子を思い出していた。スコットランドをフランス語でいうとエコスなの。授業の最初の日、机が隣り合わせだった私たちはどちらからともなく話しかけ、自己紹介をした。クラスではひとりずつ起立して順番に自己紹介していたが、それより早く私たちは互いの名前と国籍を確認し合った。
「私はチョーコ。ジャポネーズよ」
「私はエリス。エコセーズよ」
「エコセーズ?」
「そう、エコスから来たの。エコスってわかる?」
「ごめん、わからない。どこ?」
「Scotland」
「ああ!」

私は若い頃からケルト文化に興味があり、ウエールズの作家を愛読していた時期もあったので、UKが四つの国家の集合体で、イギリスという名称がイングランドを語源としているにすぎないことを基礎知識として知っていた。ただ、フランス語ではイングランドをアングレッテールというが他の国はどうなのか、その単語の知識がなかった。
エリスが毅然と「私はエコセーズ」と言ったことに、だから違和感は覚えなかった。彼らにとって、自分の出身はそういうふうに表現するものであるのだ。スコットランドはエコスというのね、ひとつ単語を覚えたわ。私がそういうとエリスはクラスの中の男の子ひとりを指して、「あの子はアングレ(イングランド人)よ」と言った。そのとおり、彼は自己紹介でJe suis anglais.と拙い仏語で言い、料理人を目指していますという意味のことを英仏語チャンポンで言ったので教師から「英語禁止!」とたしなめられていた。
「知ってる子なの?」
「授業の前に少し会話したの」
「それで、僕はアングレだって?」
「ううん、でもわかるわよ、ほら、英語がなまってるもん」
彼女の言葉に思わず笑った。スコットランド人からすれば、イングランド人の話す英語は「なまっている」のだ。

さぞかし、スコットランド人は独立意識が高いのだろう。ずっとそう思い続けていたので、いよいよ国民投票という段階にきて独立反対派が半数を占めるとの報道にたいへん意外な気がした。エリスは「Yes」に投票したのだろうか。

……というようなことをつらつら思い巡らしていた時に、このカンパンは見つかったのである。で、カンパンの缶をくるりとひとまわりしてびっくり。
な、なぜカンパンにエコセ(スコットランド人)が! しかもこのタイミングで!(いやこのタイミングはウチの事情だけれども)

で、ちょっくら調べてみると、何でもご存じのかたはいるものである。三立製菓の弁をどこかから拝借されたのか、次のような記載が見つかった。

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カンパンはもともと軍用の携行食として開発されたものです。
(起源は江戸時代らしいです)
その様な商品のためキャラクターは兵隊をモチーフとして誕生したそうです。
ただ、カンパンには兵隊さんそのものというわけではなく『武器を持たずに戦地へ赴き士気を高める軍楽隊であるスコットランドのバグパイパー』を採用しました。

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バグパイプは戦意高揚のための楽器だったのか……。

エリスと出会ったのは1991年の7月、グルノーブルだった。同じ年の10月、モンペリエに移った私は、とあるご縁で足の不自由な老婦人のお相手を週に一度つとめることになり、ある日、その婦人から映画鑑賞を誘われた。それはいつもの訪問日ではない、いわば臨時召集というか番外編だった。どちらかというとそういうのは勘弁してほしいな〜という気がしないではなかったのだが、つねづね映画が大好きだと老婦人にも言ってあったので、観賞後の昼食まで御馳走になれるとあっては断れるはずもないのであった。また、その映画というのは普通の映画館に行くんではなくて、上映後に監督の講演もついているという、事前申込みの必要なスペシャルな上映会であった。老婦人は二人分、申し込んでおいてくれたのだった。ますます断るわけにはいかないのであった。

その映画は、スコットランドのバグパイパーを追いかけたドキュメンタリーだった。監督はカナダ人で、ケベックの人だった。ご存じのとおり、ケベックはフランス語圏で、カナダからの独立が取り沙汰されて幾年月、である。『イエスタディ』という映画をご存じか。30年以上前のこの映画のヒロインはモントリオールの大学生で、その兄はケベック独立運動に身を投じ過激派活動をしていた……とこの素晴しい映画については話が混乱するので今は措くが、この『イエスタディ』を観た時からケベックの人というのは私の中で少々特別な存在だった。老婦人から「監督はケベコワ(ケベック人)なのよ」と聞かされ、最初は億劫に感じていた映画のお伴も、かなり楽しみになっていたのであった。

たぶん、そのケベック人監督は、カナダにおけるケベック人として、グレートブリテンにおけるスコットランドにシンパシーを感じていたのだろう。
たぶん、映画は美しいスコットランドの風景と、ときに勇壮ときにもの悲しいバグパイプの音色を背景に、民族の誇りや文化継承の重要さを語る内容だったのだろう。
たぶん、たぶん、と連発するのは、はっきりゆって、映画も講演もチンプンカンプンで全然理解できなかったからなのだ。
映画の中で話される言語は主に英語で、それに仏語字幕がついたが、単語を追うのが精一杯。さらに、上映後の講演は当然フランス語で行われたのだが、ケベック人の監督さんのフランス語は私のような学習者レベルではとても理解できなかった。老婦人が気を遣って「彼のいうことわかる?」と何度か尋ねてくれたが、そのたびに私はノンと言わなければならなかった。だからって老婦人は通訳してくれるわけではなく(だって彼女にとっては若干訛りのキツいフランス語というだけだから、このジャポネーズのわからないポイントはとうてい理解できなかったと思われる)、どうやらケベック人監督はとても面白可笑しく話していたらしく、会場は和やかな笑いに包まれ、ときに爆笑を呼んでいたが、終始ちんぷんかんぷんなままの私は思考も聴覚も視覚もその目的を失い、闇の中に宙ぶらりんにされていた。あの時の、大きな会場のなか、周りに誰ひとり敵はいないのにその誰とも理解し合えない、共有するものがないという孤独は、あとにもさきにも味わったことのない稀有な感覚だった。
もう少しフランス語が上達したらケベック訛りも聴き取れるわよ、なんて慰めとも励ましともつかない言葉を老婦人の口から聞きながら、変なところで負けず嫌いの私は映画のパンフレットを購入した。あまり写真はなく、監督の思いが膨大な文章に込められ書き連ねられた一冊だった。いつかこれを読んで今日のわからなかった映画をわかってやるぞ、などと思ったのだろう。表紙には、スコットランドの原野をバグパイプを吹きながら歩くチェックのスカートを履いたエコセの凛々しい姿の写真が使われていた。今こそ、あのパンフレットを読むべしではないか。スコットランドの国民投票の報道を目にしながらそんなふうに思ったけれども当のパンフレットはどこへいったやら、見当たらない。代わりに出てきたのがカンパンの缶だった。