すべての女性たちに安全で安心できる職場環境と報酬と保障がもたらされんことを2018/06/25 01:07:17

『シングル女性の貧困
——非正規職女性の仕事・暮らしと社会的支援』
小杉礼子、鈴木晶子、野依智子、(公財)横浜市男女共同参画推進協会 編著
明石書店(2017年9月)

ある分野、領域の調査結果と分析をまとめた本というのは文中に数値が多く、著者編者はわかりやすかろうと掲載しているのだろうがお世辞にもわかりやすいとはいえない表やグラフが誌面を大きく占め、そのために、タイトルに心惹かれても、ぱらぱらとめくってあ、ダメだ読めそうにないとまた書架に戻す、ということに、わたしの場合はなりがちである。ほかのみなさんはけっしてこんなふうではないのだろう。だからこの手の本はつねに存在するのだ。日頃の仕事で数字ばかり追っている人や、四角四面なお役所文書ばかりを相手にしているような人であれば、むしろ読みやすいと思うのかもしれない。

わたしがこの本をなんとかかんとか読了できたのは、「第1部 非正規職シングル女性のライフヒストリー」と題して、5人の女性へのインタビューをまとめた章があったからである。
ここには、女性たちの切実な暮らしぶりが浮き彫りにされていた。具体的で、可能な範囲で家族、私生活についても語られており、現在正規職に就けずにいること、シングルでいることが、けっして昨日今日の問題ではないことがよくわかる。
そうなのだ。これは女性だけでなく男性にもあてはまると思うけれども、何十年も経って、ひとは自分の生きざまが幼少時の「あのこと」「このこと」に根ざし左右されていることにいきなり気づく。しかし過ぎた時間は取り戻せない。幼い自分も思春期の自分も若い自分も、そしていまの自分も全部受け容れて、前を向いて生きるしかないのだ。
生きるしかない、というわけで、5人の女性たちは非正規職に甘んじながらも、「もうあと少しの」安心や安全、将来の保障を求める。まったく、そこはわたしも声を大にして言いたいところだ。

5人のライフストーリー(取材は2016年に行われた)から印象に残ったところなどを挙げる。
まず、5人は全員40代。バブルが終焉し就職氷河期を体験した世代である。
そして、経済的な豊さはかなりいろいろだが、いわゆる富裕層にあたる人はいない。両親が離婚した人、学費がなく大学進学は諦めた人、稼いで家計も助けてきた人。
さらに、全員が、派遣労働を経験している。

働く母に代わって子どもの時から家事を切り盛りしていたという女性は、幼い頃から父が酒に溺れ母を殴るのを見てきた。兄は引きこもっていて何もしなかった。女性は貸与奨学金を得て短大を卒業し、ある企業に正社員として就職。この頃両親の離婚が成立。奨学金の返済等に充てると手取り給与は雀の涙だったが、自分でなんとかやりくりできることに自信ももち始めていた。ただ、所帯をもった(家にいた時は何もしなかった)兄には、母は月々経済的援助をしていたことが少し悲しい。
最初に就職した会社に10年、リストラが激しくなり会社の業績悪化を感じて解雇される前に、と思って退職。その後派遣に登録、簿記やパソコンのスキルを磨き、時給は1450円。当時としては悪くなかったが、2004年頃から派遣という働きかたが変わってきたと感じた。
(2003年に派遣法改正がなされ、2004年から製造業にも派遣労働が解禁された)

わたしも派遣会社に登録したことはある。90年代の前半だ。当時ろくにPCも触れなかったわたしは、派遣会社のオフィスでの、登録の際の情報入力すらまともにできなかったし、スキルをテストするためにいろいろなツールを試されたが、もう惨憺たる結果だった。それでも登録できたのは、フランス語ができるというその一点だけで、そういう「スキル」はその派遣会社にあってはまことに珍しかったからにすぎない。しかしそのときわたしは、なるほどこういうものをたたたたたっと扱える人が颯爽と派遣されるわけだ、そして経理や情報管理の部門などで文字どおり「仕事だけして」、その企業の効率化に貢献するわけだ、と非常に納得したものである。とても真似できないと思ったし、真似するために身銭切ってスキルアップや資格取得に励もうとも思わなかった。

この女性が感じたように、2004年から派遣に対する風向きが変わる。誰でもできる仕事が待っている、登録の際にスキルテストなんかないという状況になった。それは人より抜きん出たスキル、といったものが尊重されなくなったことも意味する。付加価値のある人材として重宝されていたはずが、そうした捉えかたをされなくなって時給も下がる。抜きん出ていたスキルがいまやたいてい誰でも身につけている程度のものとなるのに、そう時間はかからなかった。

この女性は、派遣された企業でいわゆる「派遣いじめ」に遭っている。パワハラもセクハラもあったことだろう。正社員は同じまたはそれ未満の仕事量や成果でも待遇は上。正規で入社した新人教育も派遣や契約社員の仕事、なのに困っている若手社員にアドバイスすると他の正社員から「何様のつもり?」などと言われたという。

モラルもなにもあったもんじゃないのね。
まったく、小さな世界で立場の弱い他者を小突いてふんぞり返って悦に入るやつの気が知れない。

この女性は、過労で病気になったこともあり、復帰後も心労が重なって、インタビュー時点では失業保険を受給していた。年端もいかない頃から父親の暴力を目の当たりにし、母を助けて家事労働にいそしみ、なのにお母さんは何もしないお兄ちゃんを大事にすると感じてきた。有形無形の暴力のなかで多くの仕事をひたすら自分の役割として受けとめてきたこの女性は、大人になって理不尽な職場にあっても反論どころかささやかな意見を述べることすらせずにやり過ごしてきたのだろう。心身を深く傷つけられ、その傷痕は絶えず疼いてきたはずだけれど、それを傷だと感じなくなるほど麻痺しているのではないか。わたしには、その疼きはとうてい想像できない。


もうひとり、図書館司書として四つの図書館で働いてきた女性の例。
図書館司書というのは非常に専門性の高い資格だと思っていたが、違うのか? とこの人の例を読んで思った。
彼女は、中学3年のときに父親が勤めを辞め(理由や事情は明らかにされていない)、自分は大学進学はできないと考えて、高校卒業後保育士資格を取れる教育訓練施設に進み、修了後は東京に出て保育士として働き始めた。しかし、そこで働く母親たちの余裕のないさまに直面し、自分の今後を自問。故郷に帰り、大卒資格を通信教育で取り、さらに図書館司書の資格を取る。当時は正規の図書館司書が当然のように存在していた。採用枠は少なく、就職は難しいと覚悟していたが、その後司書の非正規化が進み、臨時職員や嘱託員というかたちで、公的施設のライブラリー職員になる。時給は1000円に満たない。

《図書館司書の資格は、簡単に取得できるが、持っているだけでは専門性があるとはいえない。(中略)地域の図書館には地域の図書館司書として長期に働いて、積み上げる専門性がある。大学の図書館も同じだ。》(29ページ)

図書館員を、図書館カードと書籍に付いたバーコードをスキャンするだけの仕事だと、勘違いしている人が、この世の中には非常に多いと思う。よくないと思う。

彼女は、とりあえずいまは健康で、ひとりで暮らすぶんにはなんとかやりくりできている。しかし、親戚の冠婚葬祭などで何も心づけができないことに心を痛める。いまは健康といっても、老後に備えてなどいないし、いきなり病気になっても治療費はない。しかし、彼女はなんとか頑張ろうとしている。

《この仕事に意義を感じている司書が、全国で苦しみながらもがんばっている。私もこれからもがんばってしまうのだろう。失職するまでは。》(同)

同じ仕事を地道に積み重ねてこそ備わる専門性というものがある。なにも難しい大学、大学院を出たから専門家になるわけじゃないのだ。ネームヴァリューのある大学を出て付された学位や、難関を突破して合格し取得した資格はもちろん価値のあるものである。しかし、そうした「手続き」なしに、ひたすら取り組み続けた蓄積で得られた専門性も、見た目にわかりやすい資格以上に、敬意を表されるべきものである。
本邦は、賞とかメダルとかの獲得者や勝者ばかりを褒め讃えまつりあげる傾向がある。地道な努力に光を当て評価するということには興味がない。こういう国は、滅びる。

また、誰もが専門性をもてるわけでもない。専門性のないことを恥じる必要もない。
わたし自身は、見事に専門性は皆無である。幼い頃の夢はもちろん、大人になってこれをやろうと思って歩み始めたはずが、いつもなんだか途中で横道に逸れた。わたしの問題は、たぶんそういうことに問題意識をもたず「なんとかならあ」とふらふら生きてきたことに尽きるのだろう。しかし、それでも生きている。幸運だったとしかいいようがない。必ず誰かに助けられてきたわけである。ありがたいことだし、それはそれで素直に喜びたいと思っている。
本書の一論考には、こうある。

《転職を何度も繰り返す貧困女性は、そうしたキャリアの一貫性を構築しにくい女性の実情を描き出しているといえる。》(97ページ)

そのとおりである。ただし、わたしが本書で調査分析対象になっている女性たちと違うのは、ほぼ一貫して正社員として就業してきたことだろう。最初に勤務した大手メーカーで、企業の正社員の堅苦しさを感じたのに、わたしはその後ふらふらするなかで、アルバイトでもいいよ、仕事一本ずつの契約でもいいよと言われても、正社員として雇用してほしいと強く希望を言って採用された。会社に保障されることの意味を思い知っていたからだ。
くたくたになるまで働き詰めだったとしても、正規雇用という立場を保障されていたことは大きい。それをもたずに、派遣だのバイトだの契約だのという不安定な状態で、いつ切られるかという崖っぷちな精神状態でいると、仮に人生を切り拓こう、次のページをめくろうという気持ちがあっても、なかなか舵を切ることはできないだろう。

非正規職が身分の安定しないままなのに、なぜかフリーランスを奨励するようなことを、本邦では行政のアタマがのたまう昨今である。労働環境はますます悪化が進むばかりだ。こういう分野に自浄作用はない。放置してもよくはならない。みんなで声を上げなくてはならないのだ。

ケーススタディとして紹介された女性たちのみならず、本書の研究対象となっているすべての女性たちに安全で安心できる職場環境と報酬と保障がもたらされんことを(ついでに、わたしにも)。
40代半ばまで、あっというまに過ぎてしまったと感じている人が多いだろう。だけど、積み上げた時間のすきまに必ず幸福の種がある。それを上手に芽吹かせて、幸せになってほしいと思う。