翠のえんどう2007/03/04 18:42:35

『定本 尾崎翠全集 下巻』
尾崎翠著 稲垣眞美編
筑摩書房 1998年


 仕事のための調べものをしに図書館へ行き、「豌豆」をキーワードに蔵書を検索していたら、結果の中に尾崎翠の全集が挙がった。へえ、と思って内容細目を見ると、『浜豌豆の咲く頃』という一篇のあることが、わかった。

 『浜豌豆の咲く頃』は、尾崎翠の作品の中でも「少女小説」と呼び分けられている短編群のなかのひとつである。

  あの浜には、浜ゑんどうの花が咲きました。
  私がお優と知ったのは、その花の咲く頃でございます。

 『浜豌豆の咲く頃』の冒頭である。「少女小説」の多くの作品が今は無き「美しく上品な丁寧語」で書かれている。また、『拾つたお金入れ』は少女二人が財布を拾い、交番へ届けて一年後、落とし主がわからないので財布はあなた方のものになりますよ、と巡査に渡された財布を、思案の末、孤児院の募金箱へ入れる話である。

  「のり子さん。あのね、このお金を孤児院の函へいれてやりませうか。」
  と、のり子さんに言ひました。
  「あゝ好いわね。さうしませう。」
  のり子さんも嬉しさうにおつしやいました。(『拾つたお金入れ』より)

 物語の中心に小さな慈善行為が必ずある。年長の子が年少の子に、裕福な子が貧しい子に、できる範囲で少しだけ、親切にする。しかもけっして「つっけんどん」な態度などではなく、「ぶっきらぼう」な口調でもない。あくまでも丁寧で慎ましく奥ゆかしい。時代が要求する少女像が見えてくるようで、面白い。
 『少女対話 土曜日の晩』は、宿題の作文に頭を悩ます小学校4年生の少女が、通りがかりの村娘に親切にしたことを作文に書き、6年生の姉から褒めてもらうという一篇。4年生の少女は姉に「どんな風に書いたら好いでせう。」と尋ね、また村娘には「あなた何処へいらっしゃるの。」と声をかけ、提灯を貸してやる。村娘は、ひとりで帰れるか案じる少女に「灯があれば、大丈夫でございますわ。」と答え、姉は妹に「話して御覧なさいな。」と作文を読むように促す……といった具合である。
 実にほのぼのとしていて、滑稽なくらいに誰もがお行儀がよい。少女たちは無垢で純真で、勤勉で辛抱強い。
 大正時代の、「少女たちにはこういうものを読ませなければいけない」的な視点で創られる少女雑誌に掲載という形でこれらは世に出た。本書の黒澤亜里子氏の解説によると、尾崎翠の「少女小説」が発表された時期は彼女がまだ作家修業中だった頃に重なるそうだ。寄稿先の意向に沿う形で書かれたものだけに、優しく慈愛に満ちた裕福で上品な少女の善行、というヒナ型に嵌ってはいる。しかし、いま、この現代において読むからかもしれないが、なんと瑞々しく輝いていることだろう。尾崎の作品が貴金属の輝きを帯びるのはもう少しのちの作品であろう。これら「少女小説」群に見えるのは、月並みな表現だが、若葉の上から人知れず転がり落ちんとする朝日を受けた露のきらめきである。
 少女たちの台詞に、今どきあり得ないと笑いながら読むのも一興だが、試しに声を出して読んでみると、その言葉の美しさに、我が国語ながらうっとりしてしまうのである。ああ、嘘でもいいから、我が子やその級友たちの、そんな会話を聴いてみたいもんなんだが。
 尾崎翠は明治29年生まれだが、40年生まれの私の祖母は尾崎の「少女小説」を読まなかっただろうか。……読まなかったんだろうなあ……。

 件の、豌豆の原稿に挿画を描いてくれた私に友人が言った。
「新鮮な豌豆ってまるで春の真珠だね。久しぶりにこんなきれいな緑を見た気がするよ」
 尾崎翠と豌豆には共通点もあったわけである。

 ところで、検索画面で尾崎翠をヒットした時、仕事に役立つかどうかは二の次にして、なんとしても借りて読もうと思ったのは、あることを思い出したからだった。
 思春期、私は詩を書くことに没頭していた。また、詩のアマチュア投稿誌を読みあさっていた。ある時、何度も入選していたある投稿者が、「翠」という字を用いた自身のペンネームについて述べていた。いわく尊敬する尾崎翠から一字もらった、いわく作家で映画評も書いている、グレタ・ガルボやジョゼフィン・べーカーについても述べている、といったことだった。その投稿者の名は忘れてしまったが、「映画評も書く尾崎翠」という形で記憶の片隅に残っていたのだった。
 本書、『定本 尾崎翠全集 下巻』には映画評も収録されている。それらは「映画漫想」と題されていて、彼女は「漫想」を「丁度幕の上の場景のやうに、浮かび、消え、移つてゆくそぞろな想ひ」であり、「一定の視点を持つた、透明な批評などからは遠いもの」と定義し、ゆえに自分のような「漫想家といふ人種は、画面に向かった時の心のはたらき方までも映画化されられてゐるのかも知れない」といい、映画に心臓を呑まれてしまったと言ってその心理を説明している。漫想家は脚本家や監督のことよりも役者に興味が向かう、視野が狭いからだ、と言っている。
 尾崎は無声映画からトーキーへの移行時代にこの「映画漫想」を雑誌に連載の形で書いており、当初「声画」は「沈黙の領土を知らぬ泥靴」だと言って切り捨てているが、優れた映画に出会えば絶賛するのをためらってはいない。
 なんと幸せなシネフィルだろう。とにかく自分の好きなように映画を観て書いている。それに、視野が狭いどころか、実に細かいところまで画面をよく観ていることが読み取れる。とくにリリアン・ギッシュについて言及した一文はため息が出る。私は『イントレランス』と『八月の鯨』でしかギッシュを観ていないが、「リリアン・ギツシユの特殊さは線と容貌の中に潜んでる」という尾崎のギッシュ評は、この女優を表現するのにこれ以外に適切な表現があろうかと思うほど、ギッシュを的確に言い表している。
 「映画漫想」は、映画の古典名作に興味のある向きには、一読をお勧めする。タイムスリップする感覚で、楽しめる。

 しかし、しかし。本書『定本 尾崎翠全集 下巻』の目玉作品は巻頭の『琉璃玉の耳輪』である。これを読まずして、尾崎翠を語ってはいけない。これは面白い。涙が出る。いろいろな意味で。

 ところで「Apied」の次の号はこういうことになっているので興味のある方はぜひどうぞ。
http://apied.srv7.biz/apiebook/index.html

(↑ URLを訂正しました。2008.2.28)