女はそれを我慢できない ― 2007/11/05 19:19:09

『惜春』
花村萬月 著
講談社(2003年)
「これは、mukaさんにお薦めですねえ」(あ、べつに意味はありません)
本書は、疲れたーもうやだーとぐだぐだいってたときに、マロさんが「軽いから気分転換にちょうどいい」と一読をすすめてくれた一冊である。
白状する。むっちゃ気分転換になった(ピース)。ありがとー、マロさん。
で、なぜか主人公に若き日のmukaさんを重ねてしまった。あ、いえ「若き日のmukaさん」って、私は存じ上げないのだが、いやその、だからけっして「こんなことやってたんじゃないのぉー?」なんて申し上げるつもりはない(主人公はキャッチバーでバイトをしていたが騙されてソープランドのボーイになる。爆)。
主人公の青年は常識的で知性もあるのに「そんなとこ」で働く自分を嘆き、耐えられないと運命を呪いながら、それでも同僚を敬いつつ哀れみ、搾り取られる女たちを尊びつつ畏れつつ恋慕の情を抱き、才を発揮して立ち回ってゆく。
そのしぶとさと純情さがmukaさんを、あるいは彼が書く人物を髣髴とさせる。とても面白い。
図書館には花村萬月の本がずらりと並んでいた。どれもあまり貸し出された形跡がない。つまり、どれもきれいである。手垢はついてないし、お茶や珈琲のこぼし跡もない。行間に傍線が引いてあったりそれを消した跡や消しゴムのかすがぺしゃんこになってページに張りついていたり、ということもない。それどころか、しおりひもの動かされた形跡すらない。人気がないのか? 昨今よく読まれている小説の傾向(そんなものは知らないが)とは路線が異なるのであろう。たしかに分厚い長編が多くてたじろぐが、本書はそれほどでもなく、初めての作家を試すのには適度な長さといえた。帰社した私は好奇心を押さえられず、同時に借りた資料用の書籍は脇に追いやり、つい本書を読み始め、つい仕事をサボって一気に読んでしまったのだった。
いま、同じ著者の同じぐらいの厚さの『虹列車・雛列車』(集英社)が手許にある。これもノリはmukaさんである。というとご本人はじめ異論のある方も多いと思うが、あくまで個人的な印象であるからして細かいことは仰せにならぬよう。
『惜春』では、ソープランド嬢たちが痛々しく、なまめかしく、硝子の破片のようにきらきらと魅力的である。男勝りな女王・吹雪。フレンドリーな綾乃。ファム・ファタル的に主人公の前に現れる美しい百合。刹那的な生き方を選んだように見える彼女たちだが、実はけっこうしたたか、計算高く、家庭的、などなどそれぞれの個性が主人公の目を通して見え隠れする。そう、誰もが女である。女が女というだけで、生きていくことが大変だった時代。
(と書いたが、世の中変われどいつまでたっても女は女というだけで大変だな、と今の自分を顧みて思う。しかし、たぶんそれは、男性の言い分も同じであろう。男は男というだけで大変だ。今も昔も。一生理解してあげられないけど。)
ソープランド嬢にピルを服用させ「ゴムなしサービス」を売りに「入浴料」を倍以上に設定するというとんでもないアイデアをオーナーが思いつき、主人公はソープ嬢たちの説得役を押しつけられる。女たちはさまざまな反応を見せるが、謙虚で生真面目、ときに話し相手にもなってくれる純情な主人公の仕事ぶりはすでに定評を得ていて、説得は上首尾。ただひとりナンバーワン嬢だった吹雪だけが店を去る。皮一枚、あるとないとじゃ大違いなんだよ、というようなことを口にして。ここで読者は吹雪に深い愛情を感じずにはいられない。
どんなに落ちぶれたって、「それ」は我慢できないよ。そういう吹雪に、程度の差はあれ生き方の違いはあれ、女は自分の人生を重ねることができる。
男はどうだろうか。風俗で働く女たち相手に遊んだ経験のある男は、欲望の吐け口に何の罪悪感もなく踏み潰してきたものの尊さを、少しは知ることができるのだろうか。