忘却力がすこぶる発達している私の場合は叶わぬ願いだろうがこんなメタボなら一度なってダイエットに苦しんでみたいと思ったの巻2009/05/08 20:31:13

『忘却の力 創造の再発見』
外山滋比古 著
みすず書房(2008年)


こんなメタボというのは「知識メタボリック症候群」のことである。著者は、知識が多ければ多いほどよいとする現代社会の知識偏重傾向を憂いている。過ぎたるはなお及ばざるが如し、は何にでもあてはまるとは思うが、知識の量にもあてはまる、という話である。

たぶん、人それぞれ、蓄えるにふさわしい適切な知識の量というものがあるのだろう。だからたぶん、キャパいっぱいになると、別にたいして努力しなくてもどんどん忘れていく。と、私は思っているが、それはおそらく私の忘却する力がたいへん健全に働いているからそうなのであって、やはり病的に忘れることのできない人、というのもあるかもしれない。覚えたこと全部、けっして排出せずに脳裏に刻んだまま生き続ける。すごいと思うけどちょっと怖い。しんどいだろうなとも思う。どっかの時点で頭なり心なりが破綻して、体に支障をきたす。
……体に支障をきたすほど、ものごと覚えてみたいもんだ(笑)

親友の小百合は美術学生だった頃のあんなことこんなことも、彼女が結婚する前後のあんなことこんなことも、お互いオバサンになってからもあんなこんな楽しいことあったね、ということも、何も覚えていない。あんたさ、あたしたちはなぜに友達であり続けていると思ってんのよ、何ゆえに今もこうして会ってるのよと追及したくなるところだが、理屈ではなく、要するに、あたしたちってお互いとても大事な存在よね、という本質的な認識だけはしっかり刷り込まれ、失うことなくこれまで生きてきたので私たちは親友で居続けているというわけである。互いの間に起こったことすべてを欠かしたことのない日報のように緻密にびっしりと覚えていたら、とっくに絶交していたのではなかろうか。

本書は外山氏のエッセイ集である。どこかに連載していたものをまとめたものだ。短いものが50編、収められている。面白くて抱腹絶倒とか、ああそうだったのねとびっくりしたり、そのとおりだとすんごく納得するとかいったことはあまりなくて、「あら、そうかもしれないわね」というような軽い同感をみとめるという感じだ。思想界の御大に対して「軽い同感」だなんてなんとずうずうしい。でも、鶴見俊輔もそうだけど、もはや悟りを開いたくらいの境地にある知識人の文章は、難解なところが全然ないと同時に「もういつお迎えが来てもいいけんね」みたいな爽やかな諦念がにじみ出ていて、とても読みやすいのである。これまでにその著作をずっと読んできているとか、何らかの深い思い入れを著者に対してもっていたら、こうしたエッセイ集を読むときにも感慨深いところがあるのかもしれないけど、私は外山さんに対して何も先入観を持っていなかったので、そうね、そうね、ホントね、オジサマのおっしゃるとおりよ、てな感じで読んでしまった。

冒頭の一節、「ことばの殻」では、現代の言葉偏重主義とでもいうような傾向に警鐘を鳴らす。もうずっと前に図書館で借りて読んだので、「知識メタボ」という語がこの項で出てたかどうか忘れちゃったが、考え方は同じである。「言葉の力」とか「国語力」とかいっちゃって、なんでもかんでも言葉まずありき、みたいになっているのはよろしくないというのである。
外山さんはそもそも英文学や言語学を専門とされているそうなので、言葉についてさんざん研究してきた人であろうから、そういう人がいうんだからよっぽど「偏重」に見えるのあろうと思う。

言葉は大切だ。私も言葉に関わって仕事をしているので、つねづね強くそう思っている。しかし「言葉」というとき、なんでもかんでも一緒くたにして論ずると事を誤る。たとえば、親が赤ん坊に語りかけるとき、それは言語情報を与えるために行っているのではない。言葉を教えるために話しかけるのではないのである。それはただ、赤ん坊に「私はここにいるよ」というサインを送っているだけである。そしてそれによって赤ん坊を安心させているだけだ。産婦人科医も助産師も保健師も小児科医も胎児や乳児に話しかけてくださいねとおっしゃるが、それはけっして言葉や文法を教えることは意味しないのである。それはただ赤子に「あなたは私に愛されているのよ」ということを一方的に宣言する行為に過ぎない。赤子は親からそんなサインをもらったところでいちいち感動も感謝もしないが、それによってとりあえず自分の庇護者はこいつだな、と理屈でなく体で認知してくれるのである。人間の生長の根幹に必要な認知である。

現代社会では文字を知らないとなかなか不便であるが、文字情報は情操を阻害する。……というのは実はまったく根拠のない持論であるが、私はマジでそう思っている。幼児に文字を教えてはいけない。教えないほうがいい、などというレベルではない。教えてはいけない。文字に頼らずに、目の前に広がる光景を体で感じとる。聞こえてくる音声を文字化しないで、生のままで体に取り込む。幼少期にはそういう体験が絶対に必要なのである。
山の端が夕陽に染まってきれいだとか、空の雲が湖面に映るのが不思議だとか、カラスはあんなにカアカア鳴いて、何をお喋りしてるんだろうとか、そういうことに感動したり想像したりする、そういうことばかりに時間を費やしてよいのである。
文字を知ると、想像力は減退する。
文字を理解すると、絵的なものや風景などを見たときにわからないと思っても気にしなくなる。適当に文字化して適当に自分勝手に納得するからだ。
聞こえてきた音や声を、なんだろう?とより耳を澄ましたり、音声の主について想像したりしなくなる。「カアカア」とか「雨降ってきた」とか頭の中で文字化して、わかった気になってしまうからである。
私は自分の子どもをサンプルに、そのことが実証されるのを直視した。
大人になるということはそういうことなので、ある程度の年齢になれば仕方がないが、べつにそれを無理矢理早める必要はないではないか。
文字を読んだり書いたりする練習のために幼児教室へ行ったりDS使ったりする暇があったら、公園で一日中泥んこ遊びをしているほうがいいのだ。

子どもはいずれ泥んこ遊びに飽きる。飽きたら次の対象へ関心が移る。ほっといても6歳くらいになれば文字や言語にいずれ関心が向く。それでも遅くはないのである。
文字は必要に応じて後天的に運用能力を獲得していけばそれでオッケーである。文字の読み書きを覚えてしまったら、その人生に非識字時代はもう二度と訪れないのだ。

えーと、ことばの話はもうおしまい。

エッセイの中には「翻訳」と題されたものがあり、これはなかなかに現在の翻訳事情の痛いところをついていて、笑えた。そうだよね。この翻訳ひどいなともし感じられるものに出会ったら、その翻訳者は読者を見ないで原著者のほうばかり見ていると思っていい。あるいは読者を見ないで自分に酔いしれているか、のどっちかだ。ああ、耳がいてえ(笑)。

それから外山さんは、現代人は休みすぎだという。やめてくださいな、オジサマ、そんなことおっしゃるの。子どもにそんなに長い夏休みを与えなくてよいとか、週休二日なんて嘆かわしいとかそんなことが書いてあったが、たぶん、そこだけは世代間ギャップが原因だ。実は休んでるつもりでも休めていないし。
ただ、外山さんの真意はどこか別のところにあるのだろうとも思う。この本には残念ながら、詳しくない。わるいけど、あたくしは3年働いたら1年休みたいですわ、オジサマ。