Le 14 juillet!2013/07/14 16:45:16

バスティーユ牢獄が陥落した日。この日を革命記念日として盛大に祝うという点に、フランス人の国民性って凝縮されている。民衆の力で勝ち取ったものの尊さをけっして忘れない、忘れてはならない、俺たち私たちはこの日に生まれたんだ。国の在りようは俺たちが私たちが決めるんだという民としての強い意志によって、成り立っている国。

日本とは180度違う。日本には革命はなかった。憲法記念日や、建国記念日は、祝日になってはいるけどそれを祝って花火をあげたりはしないのだ。だって、憲法は米国につくっていただいたものだし、建国なんてアンタ、誰がこの国つくったの?そりゃイザナギとイザナミだろって大真面目で語るんだよね普通、こういっちゃ身も蓋もないってわかっちゃいるけどそんなありえねー話でもなければ誰が建国したかわからない、わからないから神話頼みで、皇紀は西暦よりずっと長いんだからさ、知らない間に日本は日本だったなんて、だからもっとよくしよう、このままじゃいかんだろ、みたいな機運の盛り上がらないのは当たり前と言えば当たり前だ。
日本人が心からこの国に生まれてよかった、この平和を享受できて幸せだ、この安寧を未来永劫継承しようという気持ちになるのは、いつだ? どういう機会? 元旦?(笑)

敗戦記念日(あ、終戦記念日っていうんだっけ? 敗戦記念っていわないから反省しないんじゃないの、ちっとも)は、犠牲者を悼み、二度と同じ過ちを繰り返してはならないという反省の念は起こるけれども、けっして日本の民がこの日に平和を「勝ち取った」わけではないから、どうしたって「もう悪いことはしません」「平和が続きますように」みたいな受け身の、消極的な誓いの場にしかならない。8月15日、甲子園での試合中でさえ黙祷するのは美しいが、球児の心に「この場で野球ができることの幸せに感謝」以上の気持ちはないだろう。原爆の投下された二つのメモリアルデイ、大震災のあった二つのメモリアルデイ。これらに留まらず、日本人が死者を悼み黙祷を捧げ二度と悲劇が起こらないことを願う「日」は、大小さまざま、おびただしい数を数える。
こう言っちゃなんだが、それらの行動は、亡くなった身内の墓前で拝む延長線上にある。日本人は、信仰の有無や宗派の種類を問わず、ご先祖さまに感謝し死者に祈りを捧げいま命あるを感謝し「これからも〜〜でありますように」「見守っててくださいね」とはいうけれども、先祖の墓前で「あなたの時代とは違う世の中にしてみせる」なんて誓いを立てることは極めて稀だ。

なにかにつけて「J'sais pas」(俺知らんし)「C'est pas ma faute」(あたしのせいちゃうで)「 C'est la vie」(そういうもんやんけ)が口癖のフランス人だが、根底には、革命記念日を心から慶賀する国民性がある。Liberté, Égalité, Fraternité (自由、平等、兄弟愛)は、神とか天皇とか米国とか(この三つ並べるってめっちゃ美智子皇后に申し訳ない気がする。けどそんな気になるのも、なんでかなー)から与えられたものではなく、自分たちで勝ち取ったものなのだからして、断固としてこれを維持し、侵害されるような時にはいざ戦うべしという覚悟を刷り込まれながら育つのだ。

最近の日本人も俺知らんし、あたしのせいちゃうし、そういうもんやんけ、が口癖のように思われるが、日本人の場合、正味やな。根底から、そうなってるやんな。
自ら勝ち取った経済的繁栄についてはみんな躍起になるのも道理という気がする。「右肩上がりの経済成長」を、手放してなるものかっこれはニッポンのアイデンティティなのだって。いけいけどんどん、の栄光を今一度って。

なんか幼稚。

私はフランスのようにありたいとは思わない(冗談じゃないよ、そんなの)。米国に起草された憲法は自国のものとはいえないからダメだと思ったこともない(こんなええもんつくってもろて、タナボタやん)。神話や伝説の時代から人が居て、生を営み、独自の文化を耕してきたこの国の成り立ちを誇らしいと思う。それが自ら勝ち取ったものでなくても、いつの間にか滔々と流れていた大河に身を任せるに過ぎない国と民の成り立ちであっても、それのどこがいけないのこんな素晴しいことないじゃないの、といいたい。

だが、庶民がそのように思える郷土で在り続けるためには、成熟した大人たちの知恵や工夫が必要だと思う。
極右2世3世のアホぼんたちでは、アカンのである。子どものまま大きくなってクレイマーにしかならないような教育とは名ばかりの「ガッコーごっこ」しかできない教師たちではアカンのである。民の税で食ってるくせに奉仕の心のかけらもなくお上と呼ばれる優越に浸って好き放題するような役人や警官ではアカンのである。


一度、チャラになっちゃったものを、

揃えて積み上げる。

でき上がったもののうえを歩くだけじゃなく、ゼロからの構築を経験して大人になってほしい。これからの子どもたちには。
せめて少しは範を示せないものか、とそんなことを考える。

わずかなことでも「収穫」の喜びを味わうことは悪くないでしょ?
(おいしかったー枇杷)

自分でつくったほうが,出来合いを買うより数倍も美味しいってことも、たまには経験するのがいい。
(自画自賛で悪いがこのいちごジャムもめっちゃうまかったんだぜ)


祭りだというのにどえらい雨の京都でした。あーあ。

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