Bonne année 2016!2016/01/04 01:19:59

2016年になっちゃいました。
あれれ? という感じです。
忙しくしていまして、ついついここがほったらかしになってしまいました。少し手入れをしてまた書き始めようと思っています。

そんなわけですが、とりあえず、

あけましておめでとうございます。

本読みブログのつもりですが、もちろん本は読んでいますが仕事がらみで読むことがますます増えて、なんだかしっとりいい気分になるということが少ないんですよね。どんな本も、どのような理由で読む場合も、多寡はあれど必ず有意義なんですけどね。

ブログに書くってことは、多寡はあれど読み手の存在を意識しますよね、いちおう。いいも悪いも正直に書くにしろ、そのことじたい面白がってもらわなくちゃ書く意味ないと思ってるんですね、私は。そんなふうにあれこれ思いめぐらすとけっこう時間かかっちゃってタイムリミットが来てしまうのです。

2014年の3月で会社勤めを辞めましたが、あんなにカンカンにいっぱいいっぱいになって働いていたのに、そしてそれを辞めたのに、真実自分のエッセンシャルな自由時間は少なくなりました。融通は利きますし、時間配分も自分で決められる生活ですけれども、けっきょく、勤めを辞めて得た時間のほとんどを家事と介護に充てており、その家事と介護の範囲でのやりくりや効率化をもっと革命的に行わない限り、好きなことをする時間なんて持てないのです。だって、家事と介護の時間以外の時間を使って稼がなくちゃならないでしょ。

と、そんなことをうだうだ言ってる間に世の中は進歩しちゃって、私がブログ書きに主に使っているMacBookも古くなって、負荷が大きいのかとても動きが鈍くて、アサブロの管理画面の操作も思うようにいかないことがしょっちゅう。そうね、これがいちばん大きな理由かな。久しぶりだしなんか書いとくかあ、と思って開こうとしてもちっとも画面が開いてくれなかったり、開かないまま途中で止まったり、やっと開いても入力(漢字変換)が進まなかったり。
今は、珍しくすいすいと入力できてる。キーを叩くのと変換して入力されていくのとスピードがほとんど一緒。いつもこんなだといいのに。

今年も更新は頻繁ではないかもしれませんけど、ブログを止める予定はありませんから、よければ時々覗いてくださいまし。更新してなくても、私は元気で何のかのといつもウロチョロしています。京都へ来られる時はお声かけくださいね。

それではまた次の機会に。

本年のご多幸をお祈りしつつ。

Trop triste...2016/01/11 23:23:11


最愛のアイドルを失い、深い悲しみに落ちている。

嘘だ、嘘だと言ってくれ。

好んで聴いた歌手や贔屓にしていた役者が亡くなるのは辛い。若くして亡くなるとまだまだ活躍できたのにと思うし、長寿を全うして亡くなったとしてもやはり巨星が墜ちたようでしばし心にぽっかり穴があく。

ボウイは、そのどちらでもない。
もちろん、家族のように近しいわけでもないし、恋人のように分身のように熱愛していたわけでもない。ボウイは40年来、私の最愛のアイドルであり続けた。好きなミュージシャンも俳優も挙げればいくらでもいる。だけどその誰もボウイを超えたことはない。私は『戦場のメリークリスマス』に出ていたボウイよりも『菊次郎の夏』のビートたけしのほうが好きだし、『Let's Dance』のヴィデオの中のボウイより『Uptown Girl』のビリー・ジョエルのほうが愛おしい。ある分野に突出していた人はその分野でボウイと競えば勝(まさ)ったかもしれないが、ほかのすべての要素で劣る。だからトータルで誰もボウイの上をいくことはできない。
ではボウイは「さまざまなジャンルの才能を平均点以上に持ち合わせていた」といえばいいのかといえばそうではない。そんな表現では足りないし、かといってではどういえば彼の才能を、存在を言い表すことができるというのだろう? 言えやしない、ひと言やふた言では。言えやしない、いくら言葉を連ねても。

ダメだ。何を言っても陳腐になってしまう。

人生の道しるべになってくれた先達や、その著書に多大な影響を受けた研究者や批評家、愛読した作家、そのプレーにしびれた俳優や音楽家。幾人もの偉大な私の中の「せんせい」たちが亡くなった。でも、ボウイは彼らとは決定的に違う。ボウイは私の先生などではない。私はデヴィッド・ボウイのファンだ。端的に言うならそう表現するしかない。私は音楽をやらなかったし、ボウイのファッションを真似たりなんかしなかった。ボウイは小学6年生だった私の心の中にどかどかと入ってきて、以来ずっと住んでいる。本気も嘘気も合わせれば何十人と愛した男たちが入っては出て行ったけれど、居残っている男もいるけれど、誰が来ようとボウイを私は一度も心から追い出すことなく住まわせてきた。

心が周囲に壁のある部屋のような形をしているとしたら、ボウイは心の壁画のようなものだ。心を取り囲む壁に彼のピンナップがぺたぺたと貼ってあるのか、誰かが肖像画を描いたのか、はがせない、消せない、私の心を取り囲み包むボウイのあんな顔、こんなポーズ。

ボウイの写真やライヴ映像、ヴィデオクリップ、出演映画、ほとんどすべてを今は観ることができる。だからといって、そんなもの、なんにもなりゃしない。それらがたくさんあるからといって彼は生き返りはしない。観るさ、そりゃ、何度でも、堰を切ったように、ステージで歌う彼の映像を観るさ、歌声を聴くさ、ひっきりなしに、繰り返し再生して。
だけどもう生きて目の前でニッと笑ったりはしないのだ。
生きてエナメルの靴でステップを踏んだりもしないのだ。
生きて小指を離してマイクを持って「Heroes」歌ったりもしないのだ。
生きてアコースティックギターを抱えて「Space Oddity」を歌うことなんかもう絶対にありはしないのだ。

去年一年間、パリで回顧展をやったり、集大成のボックス発売したり、なんだか、何なの人生片づけに入ってるわけ?と思ったりもしたが8日の誕生日にニューアルバムを発売して、おおブラヴォーじゃないかそりゃと思ったばかりだった。
思ったばかりだった、ほんとに。

いちいちいわなくてもよかったことだけど時にしみじみと心の中の住人を思いたくなって、ほんの二年ほど前にはこんなことを書いていたのだった。

http://midi.asablo.jp/blog/2013/12/25/7155023

なんで? なんで? なんで?
死んだら終わりなんだよ。
あなたは私の中に40年前から住んでいる、だけど生きてたから住んでいたんだ。あなたが死んだって? そしたら私の中に住んでるあなたはこれからどうなっていくの? 心の中の壁画はどうなっていくの? 色褪せて消えてしまうの、ぱらぱらと劣化して剥がれ落ちていくの? 死んだあなたは今どこにいるの? ほんとうは死んだふりをしているんでしょう。棺の中からガタリとありがちな音をたてて蓋を持ち上げ、隙間から青い瞳をのぞかせてニッと笑うに決まっている。

そうに決まっている。

お願いだからそうだと言ってくれ。

Space Oddity2016/01/16 23:57:14


夕方、商店街のスーパーへ走った。目的の商品は決まっていた。自転車を停めて足早にドアをくぐる。店内は買い物客でごった返し、レジには長蛇の列ができていた。

《1階レジの応援をお願いします》

店内アナウンスが店員に呼びかける。間もなくどこからか2人ほどスタッフが駆けつけて閉めていたレジを開けた。

「次にお待ちのお客様、こちらのレジへどうぞ」

レジかごを持つ人びとの列が一瞬ほどけて、新たに増えて、増えた列もすぐに長くなっていく。慌てても、レジで待つだけだ。私の足は緩んだ。目的の品を手に持ったまま、見慣れた商品棚の間を歩く。95円、110円、75円、198円。がっしりした書体で大きく書かれた価格の上に「スペシャルプライス!」とか「最安値!」と、縁どりのある目立つ書体で赤く記した小さなポップが着いている。大げさな表示も、実際に相当安いという事実も、もはや日常過ぎて感動がない。

《♪This is ground control to major Tom, you’ve really made the grade...》

え。
いきなり私は気づいた。
店内のBGMはボウイのSpace Oddity。
私はその場に立ち尽くしてしまい、プライスカードをにらんだまま、全身を耳にしていた。スナック菓子の、色とりどりのパッケージの前で銅像のように固まって、しかし、不覚にも涙が込み上げてきて、にらんだ先のがっしり太文字の「95円」がぼやけて見える。Space Oddityのボウイの声が、私の脳裏に閉じていたはずのボウイの写真アルバムをめくりはじめる。用心していたのだ、ずっと。ボウイの訃報が伝わったとたん、TwitterやFacebookは彼の話題にあふれた。写真はもとより、ステージやインタビュー映像がめぐりめぐっていた。全部、見ておかなくてはという気にさせられるいっぽう、見れば見るほど悲しくなるだけだからもういっさい見ないでおこうと決めていた。私は忙しい。毎日時間のなさと闘っている。愛するアイドルが死んだといってその死を悼み悲しみの涙を存分に流し思い出に耽るなど許される立場ではないのだ。だからボウイの話題は遮断した。「その話」から頭と心は離れていた。平穏を保っていたのだ、だから。

それなのに、不意打ちにもほどがある。
商店街のスーパーは私が幼少の頃、映画館の跡に進出してきた。もう40年以上になるだろう。映画館だった建物もおぼろげながら覚えている。実際、父に連れられて怪獣映画を観によく来たはずだ。それがなくなって、スーパーマーケットになった。八百屋、魚屋、肉屋、漬物屋、豆腐屋、鰻屋、寿司屋、仕出し屋と専門店が並ぶ中、スーパーの商品は価格も品質も「ロー」である。安いのは魅力のひとつとはいえ、「ハイ」でないものにはどことなくダサさがつきまとう。だが背に腹はかえられないからここへ買いにきている。そんな場所だ。
そんな場所で。
不意打ちにもほどがある。
まさかボウイの声を聴く日が来ようとは。
しかも本人がこの世を去ったあとで。

いったいどれほどの人が「今かかっている曲はボウイのスペース・オディティだね」と認識しているだろう? たぶん私ひとりだ。ボウイを好きだった人も、彼の死を悲しんでいる人も、スペース・オディティを知る人も買い物客の中にはいたに違いないが、いま、ここで、突然鳴り出したSpace Oddityに、雷に打たれたように呆然と立ち尽くしているなんてのは、私ひとりだ。さぞかし滑稽だったろう、商品棚の前で商品だか価格表示だかを凝視したまま目を潤ませて動かない中年女。

《いつもご利用ありがとうございます》
《ショッピングをお楽しみください》

いつのまにか客向けの店内アナウンスがひっきりなしに鳴っていた。

Space Oddityについて、どなたかが情報を集めてくださっているので参照されたし。
http://matome.naver.jp/odai/2140861295841627501?&page=1