Eh bien2018/02/11 12:36:21


ブログ再開を企んでいます。
初心にかえり、読んだ本についてあれこれ綴ることを、またやっていきたいと思います。

自分が読んでどう思ったかを書くことで、つくりたい本の姿がくっきりしたり、つくった本がどう捉えられているのかがわかったりするかもしれない、と思います。

自分のための再開です。
つまらないかもしれませんが、またお読みいただけましたら幸いです。

※コメントは受けないことにしました。




そろそろ起きなくては、ということで。

A très bientôt !

Space Oddity2016/01/16 23:57:14


夕方、商店街のスーパーへ走った。目的の商品は決まっていた。自転車を停めて足早にドアをくぐる。店内は買い物客でごった返し、レジには長蛇の列ができていた。

《1階レジの応援をお願いします》

店内アナウンスが店員に呼びかける。間もなくどこからか2人ほどスタッフが駆けつけて閉めていたレジを開けた。

「次にお待ちのお客様、こちらのレジへどうぞ」

レジかごを持つ人びとの列が一瞬ほどけて、新たに増えて、増えた列もすぐに長くなっていく。慌てても、レジで待つだけだ。私の足は緩んだ。目的の品を手に持ったまま、見慣れた商品棚の間を歩く。95円、110円、75円、198円。がっしりした書体で大きく書かれた価格の上に「スペシャルプライス!」とか「最安値!」と、縁どりのある目立つ書体で赤く記した小さなポップが着いている。大げさな表示も、実際に相当安いという事実も、もはや日常過ぎて感動がない。

《♪This is ground control to major Tom, you’ve really made the grade...》

え。
いきなり私は気づいた。
店内のBGMはボウイのSpace Oddity。
私はその場に立ち尽くしてしまい、プライスカードをにらんだまま、全身を耳にしていた。スナック菓子の、色とりどりのパッケージの前で銅像のように固まって、しかし、不覚にも涙が込み上げてきて、にらんだ先のがっしり太文字の「95円」がぼやけて見える。Space Oddityのボウイの声が、私の脳裏に閉じていたはずのボウイの写真アルバムをめくりはじめる。用心していたのだ、ずっと。ボウイの訃報が伝わったとたん、TwitterやFacebookは彼の話題にあふれた。写真はもとより、ステージやインタビュー映像がめぐりめぐっていた。全部、見ておかなくてはという気にさせられるいっぽう、見れば見るほど悲しくなるだけだからもういっさい見ないでおこうと決めていた。私は忙しい。毎日時間のなさと闘っている。愛するアイドルが死んだといってその死を悼み悲しみの涙を存分に流し思い出に耽るなど許される立場ではないのだ。だからボウイの話題は遮断した。「その話」から頭と心は離れていた。平穏を保っていたのだ、だから。

それなのに、不意打ちにもほどがある。
商店街のスーパーは私が幼少の頃、映画館の跡に進出してきた。もう40年以上になるだろう。映画館だった建物もおぼろげながら覚えている。実際、父に連れられて怪獣映画を観によく来たはずだ。それがなくなって、スーパーマーケットになった。八百屋、魚屋、肉屋、漬物屋、豆腐屋、鰻屋、寿司屋、仕出し屋と専門店が並ぶ中、スーパーの商品は価格も品質も「ロー」である。安いのは魅力のひとつとはいえ、「ハイ」でないものにはどことなくダサさがつきまとう。だが背に腹はかえられないからここへ買いにきている。そんな場所だ。
そんな場所で。
不意打ちにもほどがある。
まさかボウイの声を聴く日が来ようとは。
しかも本人がこの世を去ったあとで。

いったいどれほどの人が「今かかっている曲はボウイのスペース・オディティだね」と認識しているだろう? たぶん私ひとりだ。ボウイを好きだった人も、彼の死を悲しんでいる人も、スペース・オディティを知る人も買い物客の中にはいたに違いないが、いま、ここで、突然鳴り出したSpace Oddityに、雷に打たれたように呆然と立ち尽くしているなんてのは、私ひとりだ。さぞかし滑稽だったろう、商品棚の前で商品だか価格表示だかを凝視したまま目を潤ませて動かない中年女。

《いつもご利用ありがとうございます》
《ショッピングをお楽しみください》

いつのまにか客向けの店内アナウンスがひっきりなしに鳴っていた。

Space Oddityについて、どなたかが情報を集めてくださっているので参照されたし。
http://matome.naver.jp/odai/2140861295841627501?&page=1

Trop triste...2016/01/11 23:23:11


最愛のアイドルを失い、深い悲しみに落ちている。

嘘だ、嘘だと言ってくれ。

好んで聴いた歌手や贔屓にしていた役者が亡くなるのは辛い。若くして亡くなるとまだまだ活躍できたのにと思うし、長寿を全うして亡くなったとしてもやはり巨星が墜ちたようでしばし心にぽっかり穴があく。

ボウイは、そのどちらでもない。
もちろん、家族のように近しいわけでもないし、恋人のように分身のように熱愛していたわけでもない。ボウイは40年来、私の最愛のアイドルであり続けた。好きなミュージシャンも俳優も挙げればいくらでもいる。だけどその誰もボウイを超えたことはない。私は『戦場のメリークリスマス』に出ていたボウイよりも『菊次郎の夏』のビートたけしのほうが好きだし、『Let's Dance』のヴィデオの中のボウイより『Uptown Girl』のビリー・ジョエルのほうが愛おしい。ある分野に突出していた人はその分野でボウイと競えば勝(まさ)ったかもしれないが、ほかのすべての要素で劣る。だからトータルで誰もボウイの上をいくことはできない。
ではボウイは「さまざまなジャンルの才能を平均点以上に持ち合わせていた」といえばいいのかといえばそうではない。そんな表現では足りないし、かといってではどういえば彼の才能を、存在を言い表すことができるというのだろう? 言えやしない、ひと言やふた言では。言えやしない、いくら言葉を連ねても。

ダメだ。何を言っても陳腐になってしまう。

人生の道しるべになってくれた先達や、その著書に多大な影響を受けた研究者や批評家、愛読した作家、そのプレーにしびれた俳優や音楽家。幾人もの偉大な私の中の「せんせい」たちが亡くなった。でも、ボウイは彼らとは決定的に違う。ボウイは私の先生などではない。私はデヴィッド・ボウイのファンだ。端的に言うならそう表現するしかない。私は音楽をやらなかったし、ボウイのファッションを真似たりなんかしなかった。ボウイは小学6年生だった私の心の中にどかどかと入ってきて、以来ずっと住んでいる。本気も嘘気も合わせれば何十人と愛した男たちが入っては出て行ったけれど、居残っている男もいるけれど、誰が来ようとボウイを私は一度も心から追い出すことなく住まわせてきた。

心が周囲に壁のある部屋のような形をしているとしたら、ボウイは心の壁画のようなものだ。心を取り囲む壁に彼のピンナップがぺたぺたと貼ってあるのか、誰かが肖像画を描いたのか、はがせない、消せない、私の心を取り囲み包むボウイのあんな顔、こんなポーズ。

ボウイの写真やライヴ映像、ヴィデオクリップ、出演映画、ほとんどすべてを今は観ることができる。だからといって、そんなもの、なんにもなりゃしない。それらがたくさんあるからといって彼は生き返りはしない。観るさ、そりゃ、何度でも、堰を切ったように、ステージで歌う彼の映像を観るさ、歌声を聴くさ、ひっきりなしに、繰り返し再生して。
だけどもう生きて目の前でニッと笑ったりはしないのだ。
生きてエナメルの靴でステップを踏んだりもしないのだ。
生きて小指を離してマイクを持って「Heroes」歌ったりもしないのだ。
生きてアコースティックギターを抱えて「Space Oddity」を歌うことなんかもう絶対にありはしないのだ。

去年一年間、パリで回顧展をやったり、集大成のボックス発売したり、なんだか、何なの人生片づけに入ってるわけ?と思ったりもしたが8日の誕生日にニューアルバムを発売して、おおブラヴォーじゃないかそりゃと思ったばかりだった。
思ったばかりだった、ほんとに。

いちいちいわなくてもよかったことだけど時にしみじみと心の中の住人を思いたくなって、ほんの二年ほど前にはこんなことを書いていたのだった。

http://midi.asablo.jp/blog/2013/12/25/7155023

なんで? なんで? なんで?
死んだら終わりなんだよ。
あなたは私の中に40年前から住んでいる、だけど生きてたから住んでいたんだ。あなたが死んだって? そしたら私の中に住んでるあなたはこれからどうなっていくの? 心の中の壁画はどうなっていくの? 色褪せて消えてしまうの、ぱらぱらと劣化して剥がれ落ちていくの? 死んだあなたは今どこにいるの? ほんとうは死んだふりをしているんでしょう。棺の中からガタリとありがちな音をたてて蓋を持ち上げ、隙間から青い瞳をのぞかせてニッと笑うに決まっている。

そうに決まっている。

お願いだからそうだと言ってくれ。

Bonne année 2016!2016/01/04 01:19:59

2016年になっちゃいました。
あれれ? という感じです。
忙しくしていまして、ついついここがほったらかしになってしまいました。少し手入れをしてまた書き始めようと思っています。

そんなわけですが、とりあえず、

あけましておめでとうございます。

本読みブログのつもりですが、もちろん本は読んでいますが仕事がらみで読むことがますます増えて、なんだかしっとりいい気分になるということが少ないんですよね。どんな本も、どのような理由で読む場合も、多寡はあれど必ず有意義なんですけどね。

ブログに書くってことは、多寡はあれど読み手の存在を意識しますよね、いちおう。いいも悪いも正直に書くにしろ、そのことじたい面白がってもらわなくちゃ書く意味ないと思ってるんですね、私は。そんなふうにあれこれ思いめぐらすとけっこう時間かかっちゃってタイムリミットが来てしまうのです。

2014年の3月で会社勤めを辞めましたが、あんなにカンカンにいっぱいいっぱいになって働いていたのに、そしてそれを辞めたのに、真実自分のエッセンシャルな自由時間は少なくなりました。融通は利きますし、時間配分も自分で決められる生活ですけれども、けっきょく、勤めを辞めて得た時間のほとんどを家事と介護に充てており、その家事と介護の範囲でのやりくりや効率化をもっと革命的に行わない限り、好きなことをする時間なんて持てないのです。だって、家事と介護の時間以外の時間を使って稼がなくちゃならないでしょ。

と、そんなことをうだうだ言ってる間に世の中は進歩しちゃって、私がブログ書きに主に使っているMacBookも古くなって、負荷が大きいのかとても動きが鈍くて、アサブロの管理画面の操作も思うようにいかないことがしょっちゅう。そうね、これがいちばん大きな理由かな。久しぶりだしなんか書いとくかあ、と思って開こうとしてもちっとも画面が開いてくれなかったり、開かないまま途中で止まったり、やっと開いても入力(漢字変換)が進まなかったり。
今は、珍しくすいすいと入力できてる。キーを叩くのと変換して入力されていくのとスピードがほとんど一緒。いつもこんなだといいのに。

今年も更新は頻繁ではないかもしれませんけど、ブログを止める予定はありませんから、よければ時々覗いてくださいまし。更新してなくても、私は元気で何のかのといつもウロチョロしています。京都へ来られる時はお声かけくださいね。

それではまた次の機会に。

本年のご多幸をお祈りしつつ。

La Petite Bijou2015/03/26 17:59:55


『さびしい宝石』
パトリック・モディアノ著 白井成雄訳
作品社(2004年)


20年ちょっと前のこと、雑誌をつくっているフランス人のグループに加わり、彼らの仕事を手伝うことになった。それはスタッフたちとのちょっとした関わりがきっかけだったが、はっきりいって、当時けっこう捨て鉢な気分で生きていたので、居場所があればどこでもよかった。わずかでも小遣いになるなら、どんな仕事でもよかった。覚えたてのフランス語を使えてそれなりのバイト料ももらえるのだから申し分なかった。雑誌に掲載する記事のほとんどはフランス人による寄稿で、翻訳は仏文学科の大先生たちが格安で引き受けてくれていた。私の役目は事務所の留守番や郵便物の管理だった。
まもなく、ある映画祭のため来日するフランス人ゲストを取材することになった。パトリス・ルコント。私は浮き足立った。ルコントは当時私にとって最大級の賛辞を贈っていい映画監督のひとりだった。『仕立て屋の恋』と『髪結いの亭主』の2作品によって私は完全にノックアウトされており、『タンゴ』を見逃していただけにその次の新作を映画祭でいち早く観られるだけでもめっけもんどころではなかった。監督その人に会えるなんて。
「ルコントに何を訊きたい?」
「まなざし、の意味かな……」
「まなざし?」
「ルコントの映画の人物って、やたら人を見つめるんだよね、じーっとね。じーっと視線を送るの、日本人はあまりしないし」
「ふむ、なるほど。いいところに目をつけたな。それ、ちゃんと質問しろよ」
「え? あたし、ついていくだけでいいんでしょ」
「いちおうさ、ウチの雑誌、日仏の文化的架け橋になるとかなんとかお題目つけてんだよ。そこで仕事してるんだしさ、もうちょっとコミットしろよ」
「ぐ」
「せっかくしゃべれんのに、フランス語」
「がが……」

というような会話を会場へ行く電車の中でするもんだから、編集長、そんなの言うの遅いよと抵抗してみたがダメだった。取材を全部やれとは言ってない、でもその「まなざし」の話はお前が口火を切れといわれ、ポケット仏和−和仏辞書を繰って頭の中で質問文をつくった。
懐かしい思い出だ。
私たちはほんの数分しか時間をもらえなかったが、インタビューはすこぶるスムーズに進み、有意義な時間を得た。売れっ子監督でもあったルコントは、どのような問いにもあらかじめすべて用意してあったようにするすると答えた。とても論理的で(フランス人はたいていそうなんだけど)、口を開くたび、起承転結の完全な小話を聞くようでもあった。

私たちは彼の新作を映画祭の会場で観賞した。映画を観たのが取材より先だったか後だったかを思い出せない。たぶん、取材の後だっただろうと思う。ルコント本人に会う前に観ていたら、ずいぶんと気の持ちかたが違っていたはずだからだ。
新作は、『イヴォンヌの香り』だった。
私はこの作品にとてもがっかりしたのだった。
男ふたりに女ひとりの三角関係なので、そこは女に魅力がないと成立しない話のはずなのに、この女優が全然ダメだった。フランス人好み(たぶん)の整った小づくりな顔立ちで、美人なんだろうけど、なんといえばいいのだろう、しっかり肌を露出しているのに色気がない、ベッドシーンもあるのに色気がない。全然色気がない。艶(つや)とか、艶(なまめ)かしさとか、じわっとにじみ出るような潤いがなくて、かすかすな感じ。言葉がきたなくて申し訳ないが「しょんべんくさい」のだ。しょんべんくさいが悪ければ「ちちくさい」といおうか。「未熟」とか「稚拙」とかはあたらない。まだ若いから、芸歴がないから、といった素人くささやキャリア不足ではない。この女優はたぶん10年経ってもこんな感じのままに違いない、と思わせるほど、どうしようもないほどの「およびでない」度満開の、魅力のなさ。
なぜこの女に老いも若きも振り回されねばならないのか。……この問いは物語に感情移入して発するのではない。この女優の存在のつまらなさのせいで、映画全体が退屈なものになってしまっている。戦争が背景にあり、かつてのフランス社会に厳然とあった階級制度の名残りがちらつく。よく準備された申し分ない設定のはずの映画で、つまらぬ自問を発するしか感想のもちようがないなんて。
時代や身分がどうであろうと所詮男と女がからみ合うのよ、といったふうのいかにもなフランス映画といってしまえばそれまでで、ルコントの映画はつまりそんなのばっかりなんだけど、でも彼は俳優にその力を最大限に発揮させて従来の何倍も魅力あふれる人物に仕立て、台詞と、構成と、カメラワークと、編集の才で、ありふれたメロドラマを極上の映画に仕上げるシネアストなのだ。
なのに、これ。『イヴォンヌの香り』。

『イヴォンヌの香り』の原作はパトリック・モディアノの『Villa triste』である。パトリス・ルコントは作家モディアノを非常に敬愛し、愛読していると取材時にも話していた。もちろん私は、モディアノの名前を聞いても「誰それ、何それ?」状態であったが、のちに映画のクレジットをチラシで見て、その名前を確認はした。パトリック・モディアノ。ところが不幸なことに、『イヴォンヌの香り』に幻滅するあまり、その幻滅に原作者の名前も巻き込んでしまった。1994年。せっかくパトリック・モディアノと出会いかけたのに、顔も見ないで私は席を立ってしまったのだった。

ずっと後になって、図書館のフランス文学の書架にモディアノの名前を見つけたとき、どうしても読む気が起こらなかったのだが、そのときなぜ読む気になれないのかがわからなかった。『イヴォンヌの香り』の原作者であることなど、とうに忘却の彼方なのだった。なんだかわからないけど「お前なんかに読んでもらわんでええ」と本の背に言われているような気がして、私はモディアノを手に取らずにいた。

ところがある日、モディアノとの再会は強引に訪れた。『さびしい宝石』と書かれた本の背に、原題とおぼしき「La Petite Bijou」という文字もデザインされていた。おおお、ぷちっとびじゅー、と私は思わず口走っていた。というのも、私は娘が生まれてから3年ほどのあいだ、ハードカバーのノートに子育て日記をつけていたが、そのタイトルを「Ma petite bijou」にしていたのだ。私の可愛い宝石ちゃん、くらいの意味だが、「ビジュ」の語感がいかにもベビーにぴったりで、我ながら気に入っていたのだった。これを読まないでどうする。私は小説家の名前も見ないでこの本を借りて読んだ。

19歳のテレーズは幼い頃母親と生き別れ、母親の女友達の家に預けられて育つ。母親は彼女を「La petite bijou(可愛い宝石)」と呼んでいた。いまテレーズはパリでなんとかひとり暮らしを始めようとしている。ある日混み合う地下鉄の駅で母親に似た人を見かけ、その後をつけていくが……。

パリの雑踏、夜の舗道の暗さ、親切な人、得体の知れない人、自分の中で交錯するいくつもの記憶、自分でもとらえきれない、母親にもつ感情。

当時娘は小学生で、私は仕事も忙しく、娘の学校行事やお稽古ごとなど校外活動など、かかわることも増えてきりきり舞いしていた。そんなときに、親にも社会にも見捨てられてその日を生きるのが精一杯の少女の、非行に走るでもなく男を手玉に取るでもなく人を殺すでもない、誰も知らないところでただもがくだけの毎日を描写するこの小説を、ぞんぶんに味わって読めるはずもなかった。親に捨てられ、ろくに学校にも行けず、都会に放り出された19歳。足許のおぼつかない、いつ道を踏み外してもおかしくないような状況で、それでも善悪は心得ていて、妙にお行儀がいい。もって生まれた性格なのか、それが幸いして少女は人の親切を得てかろうじて立っている。その、紙一重の危うさを生きる心象風景を描いた小説の世界に入っていけるわけもなかった。私には、この本の中の「ビジュ」のような19歳に我が娘がならないようにせんといかん、という程度の読後感しかなかった。というより、19歳なんて、想像の域を超えていた。それに、テレーズは、私の19歳の頃とはまるで似つかぬ生活をしていた。そして娘もいつか19歳になるのだけれども、想像するその姿とテレーズとは、まるで重なるところがなかった。
私はモディアノを、その素性も知らず強引に自分に引き寄せてみたけれども、何の手応えをも感じないですっと手を離してしまった。このときも、『イヴォンヌの香り』の原作者だとは気づいていないのである。

先月、娘が19歳になった。
だからといって、テレーズを思い出したわけではない。
遡って、昨年のノーベル文学賞に、パトリック・モディアノが選ばれた。村上春樹が有力視されていたらしいので、「期待に反し受賞は仏作家モディアノ」という見出しが新聞を飾った。
聞いたことのある作家だなあ。
それ以上の感想はもたなかった。
しかし、ふだんあまり小説を読まないので、ノーベル賞受賞作家は、短いものでもいいからひとつくらいは読むようにしている。で、例外なくノーベル賞受賞作家の作品は、なかなかに奥が深くて面白いのである。さすがなのである。

資料を借りにいった図書館で、ついでに何か読もうかなと仏文学の書架を眺めていると、「パトリック・モディアノ」の名前が目に入り、そしてすぐに『さびしい宝石』が目に入った。
おおおおお、Ma petite bijou!!!
モディアノだったのか!
その並びに、『イヴォンヌの香り』も収まっているのに気づいた。
うわああああ、イヴォンヌ!
そうだ、モディアノだ、モディアノだったぞ原作者!

と、バラバラだった記憶がひとつにつながったのだった。
私は見覚えのある『さびしい宝石』の表紙をめくり、カバー見返しに「なにがほしいのか、わからない。なぜ生きるのか、わからない。孤独でこわがりの、19才のテレーズ——」というキャッチコピーを見つけ、迷わず再読を決め、借りたのだった。

10年ほど前におおざっぱな読みかたしかしなかった作品は、いまははっきりとリアルにメッセージを投げているように感じる。それは、いまのこの私に対して、という意味だ。19歳の娘がいま異国で、わくわくしながら暮らすいっぽうで不安におののき、愉快な友達に囲まれながらもホームシックに苛まれ、自分がとる進路はこれでいいのか、自分も含め誰も明快な答えを出せない中でそれでも歩かなくてはならない得体の知れない圧迫感に息が詰まりそうになっている。テレーズと何も変わらないじゃないか。そうだ、同じことだ、私にしても。19歳の頃、何かに追い立てられるようにして、誰もが向かっている方向へ一緒になって歩きながら、心の奥のほうで、違うこっちじゃないと、気持ちだけが引き返していた。引き返したけれどそっちに目的地があるわけでもなかった。道しるべはない。道しるべは自分で立てていくものなのだ。でもそんなこと、わかるはずもなかった。だからもがいていた。なぜここでこうして生きているのか、なぜ生まれてきたのかわからないまま。テレーズと、そっくりだ。

テレーズのもつ、生き別れた母に対する複雑な思いは重層的で解き明かし難い。母の存在はとっくにない。実体として掴もうと欲しても叶わない。だが母は弱々しい糸のような頼りない記憶の連鎖としてテレーズの脳裏に在って、テレーズをしばっていた。自分の中で記憶を断ち切るしか、解放はされない。解放されなければ、テレーズが自分の生を取り戻すことはできない。
といって、テレーズがはっきりそんな目的意識をもって邁進しているわけではない。どうすればいいのか。どうもしなくていいのか。そもそもなにをしたかったのだろう?

《もう何年も前から、わたしは誰にも何ひとつ打ち明けたことがなかった。すべてを自分ひとりで背負い込んできたのだ。
「お話しするには、複雑すぎて」と、わたしは答えた。
「どうして? 複雑なことなんて、なにもないわ……」。
 わたしは泣きくずれた。涙を流すなんてことは、あの犬が死んでからはじめてだった。もう十二年くらい前のことだけれど。》(『さびしい宝石』80ページ)

読み終えて、というよりページをめくるたびに、私は娘を抱きしめたくなった。1行ごとに、娘の顔を見たくなった。テレーズが息をつき、言葉を口にするたびに、娘の住む町へ飛んでいきたくなった。

Quel début d'année atroce...2015/02/28 16:17:34

『みみをすます』
谷川俊太郎 著 柳生弦一郎 絵・装本
福音館書店(2007年33刷/初版1982年)


今日で2月も終わりである。雪の多い正月を過ごし、雪の話ばかりしていたのに、めまぐるしく日々が過ぎていき、明日から3月。
ほんとうに、なんということだろうと思う。何が何でも、12月の選挙でひっくり返さなければならなかった。幼稚で狡猾な独裁志向のただのわがまま坊主には退場してもらわねばならなかった。ほんとうに、この国の大人たちの危機感のなさ、視野の狭さ、その「自分のことで精一杯」ぶり、もとよりこれは自戒を込めて言うんだけど、あまりのことに呆れ果てただ悲しい。
悲しいときに、よく私はこの本を開く。この本にはただひらがなの言葉がつらつらと並び、ときおり、子どものいたずら描きのような、それでいて味のある、人物の肖像が挟まれる。そうしたひらがなの文字を目で追い、目で追うほどに言葉になるのを追い、言葉が連なるままに詩篇となるのをただ吸収する。息を吸うように読み、息を吐くようにページをめくる。
そうするだけで、いつのまにか心が落ち着きを取り戻すのを感じる。こんなに毎日惨いことが起こる世の現実に私の精神はひどく安定を欠いているのだが、一時的にせよ、いやまったく一時的に、なのだが、穏やかになれる、心底。安定を欠いていると言ったが、なにも朝から晩まで不安に苛まれ泣いているわけでも、ホゲーとしているわけでも、どうすればわからなくなってうろうろしているのでも、ラリっているわけでもない。平静を装い、毎朝同じ時間に起き、いつもと同じ一日が始まると自分にも娘にも母にも猫にもいい、三度の食事を支度し食べ、洗濯や掃除などハウスキーピングにいそしみ、商店街で野菜の値段を見比べ、大人用紙パンツのセールに目を光らせる。そんな合間に、依頼された原稿を整理したり、自分の書いたものの焼き直しをしたり、面白そうな仏語本を渉猟する。娘のメールを読み、返信をする。優先順位の高いことというのは、たしかに、何よりもこうした自分と自分の身近な者たちのことばかりであって、そしてほんらいそれでよいのである。家のそと、町のそと、地域のそとは、私なんかが心を砕かなくても万事順風満帆に事は運び憂いは流れ、いいとこ取りをされて均されて、治まるというふうに、かつては決まっていたのであった。いや、かつてもこの世には恐ろしいことや許されないことや悲しいことがたしかに次々起こっていたのだけれども、そのたび、そのときも私の心はおろおろしていたのだけれども、世の中には必ず賢明な知見が在るべきところに在り、どこかで防波堤となっていたのであった。
いまはその防波堤が見当たらない。どこにも。あかんわ、もう。あかん。

『みみをすます』を開く。ひらがな長詩が六編収められている。ひらがなだけど、これらの詩は子ども向けではない。この本を買ったのは、自分のためだった。谷川俊太郎の「生きる」が小学校の教科書に掲載されてたか授業で取り上げられたかなにかで、娘が暗誦していたときに、その「生きる」よりもいい詩が俊太郎にはあるんだよ、と「みみをすます」のことを言いたかったんだけど、詩篇は手もとになく、ネット検索で見つけた詩篇のすべてをダウンロードしたかコピペしたかの手段でテキストとしていただき、ワープロソフトに貼って、きれいなフォントで組んで、A3用紙にプリントして、壁に貼った。とっくに貼ってあった「生きる」の横に、「生きる」よりはるかに長い「みみをすます」はとても暗誦できるものではなかったが、断片的に拾うだけでも意味があると思って、「みみをすます」を貼った。娘は「みみをすます」も声を出して読んでいたが、語られていることはまだまだ幼かった彼女の想像を超える深淵さで、圧倒されてつまらなかったに違いない、そのうち熱心には読まなくなった。

「みみをすます」は次の4行で始まる。

みみをすます
きのうの
あまだれに
みみをすます

生活音を想像できるのは以上の4行のみで、次のパラグラフからは壮大な人類の歴史に思いを馳せていくことになる。《いつから/つづいてきたともしれぬ/ひとびとの/あしおとに/みみをすます》。

ハイヒールのこつこつ
ながぐつのどたどた

これくらいはわかりやすいけど、《ほうばのからんころん/あみあげのざっくざっく》や《モカシンのすたすた》など、現代小学生に自明ではない言葉が出てくる。すると、現代っ子の悪い癖で思考を停止させ、調べもせず、考えるのは停止して語の上っ面だけを撫でていく。長じて、知らない言葉をすっ飛ばしてテキストを読む癖がつき、小説だろうと論評だろうと漫画だろうと、そうした読みかたでイケイケどんどんと読み進み、読めていないのに読んだ気になる。
ま、いまさら仕方ない。

はだしのひたひた……
にまじる
へびのするする
このはのかさこそ
きえかかる
ひのくすぶり
くらやみのおくの
みみなり

ここから詩は古代史をたどる。恐竜や樹木や海流やプランクトンが幾重にも生まれ滅んで、そして一気に自分の誕生の瞬間を迎える。《じぶんの/うぶごえに/みみをすます》《みみをすます/こだまする/おかあさんの/こもりうたに》

谷川俊太郎は、私の亡くなった父と同じ生まれ年である。昭和20年は13、4歳だった。敗戦時に何歳でどういう社会に身を置いていたかでその後のメンタリティは大きく変わるので、父と同じように少年時代の俊太郎を見るのは失礼きわまりないのだけれど、戦争はそれなりに当時の少年の心を大きく占める関心事であったに違いなく、そしてそれが無惨な終わりかたをしたこと、そして周囲の大人たちが思想的に豹変を見せたりしたことはショッキングな事態だったと思われる。父は、玉音放送に涙を抑えきれず、でも泣いているのを母親や兄弟に見られたくなくて部屋の隅っこで壁に向かって、声を立てないように気をつけて泣いたと言っていた。しかし、俊太郎の両親や親戚はいわゆる賢明で動じない人びとだったのであろうか、戦時は時勢にしたがい行動し、やがて粛々と敗戦を受け容れ時代の変化になじんでいったようである。母親に溺愛され、自らも母に深い思慕を抱いていた俊太郎は、一体になりたいとまで欲した母に代わる存在がやがて現れることを恋と呼ぶというようなことを、エッセイを集めた『ひとり暮らし』(新潮文庫)の中で述べている。家族愛に守られ成長した俊太郎は、戦前、戦中、戦後を、あからさまではなく静かに、詩の中に書き記していくのだ。

うったえるこえ
おしえるこえ
めいれいするこえ
こばむこえ
あざけるこえ
ねこなでごえ
ときのこえ
そして
おし
……

みみをすます

うまのいななきと
ゆみのつるおと
やりがよろいを
つらぬくおと
みみもとにうなる
たまおと
ひきずられるくさり
ふりおろされるむち
ののしりと
のろい
くびつりだい
きのこぐも
つきることのない
あらそいの
かんだかい
ものおとにまじる
たかいいびきと
やがて
すずめのさえずり
かわらぬあさの
しずけさに
みみをすます

(ひとつのおとに
ひとつのこえに
みみをすますことが
もうひとつのおとに
もうひとつのこえに
みみをふさぐことに
ならないように)

いま引用したくだりは、「みみをすます」のなかでも最も好んで反芻する箇所である。ヒトは自分の耳に心地いいものしか聴こうとしない生物である。でも人であるからこそ、聴きにくい音や聴きづらい声も傾聴できるのだ。
このあと「みみをすます」は十年前のすすり泣きや、百年前のしゃっくりや、百万年前のシダのそよぎや一億年前の星のささやきにも「みみをすます」。
でも、そんなふうに壮大な物語に思いを馳せつつも、《かすかにうなる/コンピューターに》《くちごもる/となりのひとに》「みみをすます」。
最後の一行まで読めば、気持ちが未来へ向くように、とてもよくできている。それでも時は流れ、風は吹き、水も流れ、命が生まれるのだと、そこには少し諦念を含みつつ、安寧に満ちた気持ちになる。

つづく「えをかく」という詩も、「みみをすます」に似ている。耳を澄まして聴く行為が絵に描くという行為に交替していると言ってもいい。自分を描いたり、草木を描いたり、家族を描いたり、自動車を描いたりしていきながら、《しにかけた/おとこ/もぎとられた/うで》を描く。《あれはてた/たんぼをかく/しわくちゃの/おばあさんをかく》。

「ぼく」という詩がつづき、「あなた」という詩があり、「そのおとこ」「じゅうにつき」とつづく。

いま、いちばん人の心を裂くように食い入って響くのは、「そのおとこ」かもしれない。男でも女でも、「そのおとこ」でありうる。私たちはそれぞれが奇跡の巡り合わせで生きている。今月19歳になった私の娘が、過激派組織に参加するために家出したロンドンの17歳の少女であるわけがないと、どうして言えるだろう。たったひとつのボタンの掛け違いが、人の歩くみちを簡単に遠ざける。いつもビデオカメラを抱えて旅をしていた私の友人が、あの殺されたジャーナリストにはなり得なかったとは言えないのだ。利発でやんちゃな隣の男の子が、河川敷で血まみれになっていた少年であるはずないなどとは、とうてい言えやしないのだ。彼我を分けるのは紙一重のいたずらに過ぎない。

うまれたときは
そのおとこも
あかんぼだった

こんな当たり前のことを、誰もが忘れている。

もしじぶんに
なまえがあるなら
おとこにも
なまえがある

こんな当たり前のことを、みんな忘れようとしている。

だから、『みみをすます』を開いても、心穏やかにはなれない自分に、やり場のない憤りを感じ、悲しみがこみ上げる。どうすればいいのだろう、こんなに惨い始まりかたをしたこの年を、どんな顔をして、どんなふうにふるまいながら、近しい人びとを励まし元気づけ食べさせながら、自分も凛として生きていくために、どうすれば、ほんの少しだけ転がる石ころやゴミに気をつけるだけでとりあえず歩くに支障のない道を歩くように、暮らしていくことができるのだろう。幾度も幾度も開いては、心を潤してくれていたこの本が、いまは傷口に塩を塗るように、心の壁を逆撫でする。

Je suis Charlie (3)2015/01/14 22:08:50

今朝の新聞の一面に、「仏『テロとの戦争』宣言」「大統領『団結を武器に』」という見出しがでかでかと載っていた。ちなみにウチの購読紙は地元の地方紙だ。切れ味はあまり鋭くないがいちおう反原発、反安倍の姿勢をちらつかせているので、ふだんは極端に不愉快にさせられることはない。しかしご想像いただけると思うが、こういう国際的な事件などの報道では「独自の論調で議論を展開」なんてされたためしはない。これは、ま、たぶんどちらの新聞さんも同じような事情なんだろう。とくに今回のような、加害者も被害者もその思想が平均的一般日本人の常識からはかけ離れたところにあり、また事件後のその他大勢の人々の反応も、これまた平均的一般日本人の常識では測れないものだったりすると、右へ倣えの記事しか構成しようがないだろう。新聞社だって、平均的一般日本人に過ぎないのだ。でもさ、各社の特派員ってこういうときのためにいるんだよね? 起きたことの事実関係を正確に伝えることが最重要だとしても、今どきインターネットでニュース見れば特派員のレポートより早く現地の事件を知ることはできるわけよ。わざわざ海外に派遣されてるってことはもっと事の深層まで切り込んでレポートすることを期待されてるんじゃないのかな。複雑に絡んだそれぞれの思惑や国際関係の裏事情や社会の病理をつねづね、そこに身を置いて肌で感じているからこそ書けること、そういうことが特派員の仕事じゃないのかな。知らないけど。「テロとの戦争」の文字の横には銃撃事件から1週間がたって殉職した警官の追悼式典が行われたことなどが短く書かれていて、同じ段に「Charlie Hebdo」の最新号の表紙画像が誤訳誤解釈とともに紹介されていた。新聞さー、ほんまにさー、速報性という点ではもうネットには勝てへんわけやから内容で勝負せなあかんやろ。共同で回ってきたもん鵜呑みにせんと「これホンマかい?」と引っかかってくれよ。ほんで尋ねたらどうなん、京都には日仏学館もあってさ、エライカシコイフランス人がうじゃうじゃ住んでんねんで。そら、ふつうは、特派員ってブン屋のエリートやからそこから来る記事が上っ面撫でただけの浅い浅い内容やとは思わへんかもしれんけど、こんだけ世の中で「風刺やユーモアや」「いや違う侮辱や差別や」「暴力はいかん」「殺されるほうにも非がある」とかなんとかかんとかやんややんやいうてんねんから、「ん、これはどう解釈したらいいのだろう」とかさ、考えて、よう吟味してから紙面つくろうよ。ホンマに滅びるよ新聞。

新聞の心配をするためのシャルリその3ではないのだ。
米国ニューヨークでの同時多発テロのときも陰謀説が賑やかだったが、今回は、陰謀説、ないのかな。
ついこないだ、どこかの国の極右傀儡政権のソーリが別に誰も頼んでないのに消費税増税を先送りの信を問うなんつー“小泉純ちゃんの劇場型に負けたくないの”自己陶酔型解散総選挙を強行したけど、それも国民の反感が増してきて支持率が低下して危機感を覚えた「側近たち」がアホソーリをけしかけたのだった。これと比較して論ずるのはあまりにフランソワ・オランドに失礼だが(失礼じゃないかもしれないけど。笑)、オランドも国際的には存在感がなく、国内的には打つ手総崩れで国民の不満が募るばかり、私的には元カノから暴露本出版されたりで踏んだり蹴ったりだった。何か劇的に大きな出来事とか社会現象が起きて突破口とならない限り支持率の回復は見込めそうになかった。
そこで。
なんか、しようや。
なんぞ、方法はないかいな。
と、いろいろ策を講じたとしても不思議ではないではないかい?

フランスは、前大統領のニコラ・サルコジがええかっこしいが過ぎてとりあえず国をくちゃくちゃにしちまったから、有権者は少しはましだろうと左の社会党を選んだんだけど、これがハズレた。ニコサル時代よりはマシ、という人も友人の中にはいるが、多くは「さらに酷くなった」という。酷くなった理由にはEUという機構が機能不全に陥っていることもある。オランドばかりが悪くないにしても期待したより彼は有能ではなかったとすでにNGスタンプが押されてしまった。したがって国民の中には政権への不信に加えてEUに対する不信、嫌厭感が募っていて、それが移民排斥感情と偏向なナショナリズムの高揚に流れがちである。中道右派も左派もダメで右翼と左翼にはろくな人材がないのなら残された極右と極左の一騎打ちしかなくなるではないか、それなら愛国心をあおる極右が過半数をとる可能性が高い、そうなったら極右不支持者にとってはまさに地獄だ。それは世界にとっても地獄絵図だ。それだけは避けなければならないが、今のまま放っておくといずれオランドにルペン(娘)が取って代わるのは時間の問題だ、何が何でも避けるのだ……と、ニコサルやオランドの失脚はどうでもいいにしても、国の将来を案じて、今、カンフル剤を打たなければ!と考えた誰かがいてもおかしくない。

テロは綿密に計画され、周到に準備され、鮮やかに演出され、遂行された。権力者たちの指示で。そう考えることもできる。シャルリエブドの風刺画をいまいましいと感じていたのは、けっしてイスラム教徒だけではない。描かれた誰もがいい気分なはずはない。シャルリエブドはあらゆる対象を風刺していた。政治的権力者、大富豪、著名人。でありながらシャルリエブドは世論を操作するような大きな影響力のある大新聞ではない。少ない発行部数、いつだって休刊、廃刊と紙一重だった。消失しても社会への影響はない。

オランドが、追悼デモ行進の日、呼び集めた各国首脳とともにはないちもんめみたいに手を組み並んでみせたのを見たとき。殉職警官の棺に花を手向けるのを見たとき。被害者遺族の肩を抱いて哀悼の意を表しているのを見たとき。こいつ、ぜったい内心シメシメ……と思とるわ、と思わずにいられなかったのである。たぶん世界中のメディアがオランドの言動をトップ扱いだ。就任以来、そんなことあったか?

Je suis Charlie (2)2015/01/12 02:53:26

「ありがとう、私は大丈夫」「重い悲しみに押し潰されそうよ」「今日の午後、友達と追悼デモに行きます。ひとりでいるより、みんなと分かち合いたいし」

パリの友人たちからぽつりぽつりと返事が来た。例外なく皆驚き、悲しみ、そして恐ろしさに怯えている。いつも冷静で皮肉屋のある友達が、いつになく取り乱していたことが伝わってくる。一人暮らしで、いかにもパリジェンヌらしい個人主義を貫いている女性が、「みんなとともに在りたいもの」なんていう。ふだんは「隣は何をする人ぞ」的なフランス人が、自由という旗印の下に連帯するとこれほどのパワーが発せられるのか、と、レピュブリック広場からの中継や、フランス全土各都市にも波及した追悼デモのレポートを目に耳にするたび感心する。群衆が集まってシュプレヒコールを挙げるフランスの様子を眺めるのは、直近では大統領選挙のときかな。その盛り上がりがうらやましいと思ったものだ。今回も、このマニフェスタシオンそのものについてだけ言えば、「国民よ結束せよ」という(支持率が激落ちしてる)大統領の呼びかけに呼応して老若男女、出自を問わず、ぐわあああっと集まるパワーは素晴しいし、やはりうらやましいと思う。

しかし、彼らがこれほどまでにパワフルなのにはわけがある。
約200年前、フランス人は血で血を洗うようにして「自由」「平等」「兄弟愛」を勝ち取ったのだ。彼らにとって「自由」は何にも代え難い、掛け値なしの、正真正銘の、「命がけで勝ち取った」「なんびとも生まれながらに保持する侵されざる権利」なのである。自由は天から降ってきて空気のように当たり前にそこに在るもの、みたいに感じている日本人とはエライ違いなのだ。
「表現の自由」の象徴たる新聞社(週刊紙)への銃撃は、まさに「自由」を踏みにじり冒涜する行為ゆえ、フランス人は立ち上がった。シャルリエブドの編集長、シャルブは「ひざまずくくらいなら立って死ぬ」と言っていた。どこからでもかかってこい、逃げも隠れもするかい、言いたいことがあれば言え、と公言していた。そして真正面から、名を呼ばれて、撃たれた。
いちいち言いたくないが、でも言うが、すでに日本の新聞は、週刊紙もテレビもラジオも、「表現の自由」の象徴などでは全然ない。ひざまずけなんて言われてないのに自らかしずいて、おいしいご褒美もらってせっせと貢いでいる。
Libertéという名のパン屋が近所にあるが(美味しいパン屋さんだけど)、訪ねるたび店名が空虚に響く。日本に、リベルテの概念は、実在しない。言葉の意味があるだけだ。あ、いや、パン屋さんに罪はありません、断じて。

フランソワ・オランドの掛け声に集結した、英独の首脳はじめアフリカや中東から首脳が集まり、みな腕を組んで横に並び、一緒に歩いている。こんな風景、初めて見る。なんだ、みんな、仲良くできるんじゃないか。せっかく集まったんだからちゃんと話し合ってよ。そして、とふと思う。アジアでのこの風景は可能か? 誰が掛け声かける? そこからもめそうだ。誰が誰の隣に並ぶかでまたもめそうだ。どこかの極右傀儡政権のソーリだと、たぶん誰も駆けつけてはくれないだろう。というより、集まってもらうような案件が起こりそうにない。攻撃してもたいしたダメージを与えられないところは、テロの標的にはならない。たとえばどこかの極右傀儡政権のソーリは「あ、沖縄ならいいですよ、いつでもドーゾ。東北でも全然オッケーよ。テロ、ウエルカム」とか言いそうだ。冗談でなく。しかしテロリストは、歓迎されるようなところは襲わないのだ。

パリ150万人、リヨン25万人、トゥールーズ15万人。ボルドーやディジョン、グルノーブル、メッツでも数万人規模、私の第二の故郷モンペリエでも7万人。
ロンドン、マドリッド、ローマ、ベルリン、コペンハーゲンなどでもデモ行進。ミュンヘンはどうなんだろうかと少し気になる。

行進する人々の様子を見ていると、家族連れ、友達どうし、カップル、さまざまに連れだって、いやひとりで参加した人も、おそらく隣り合わせた人と手を取りあって、Je suis Charlieの横断幕とともに、その言葉を大声で叫んでいる。ペンを掲げる人もいる。鉛筆のかぶりものをもってくる人や、色鉛筆を何本も手に持って両手を突き上げる人も。私はイスラム教徒だがシャルリだ。私は黒人だがシャルリだ。私はユダヤ人だがシャルリだ。そんなメッセージを書いたボードを首から下げる人、背中に貼って歩く人。
さっき、ラジオからはグランコールマラド(Grand Corps Malade、シンガー)の声が聞こえていた。歌詞に「Je suis Charlie」が組み入れてあった。

だれもが「シャルリ」を名乗った日。
Je suis Charlie.

お祭り騒ぎにまぎれて、また酷いことが起こらなければと思う。
捜査状況も報道されているが、犯人は3人とも射殺され、うち一人の内縁の妻は消息を絶っているとあって、彼らがいかにして襲撃するに至ったのか謎のままだ。その内縁の妻の身柄を捕獲しなければ、真相は闇のままだ。しかし、自死する可能性も高い。なんてことだろうと思う。恐怖は、居座り続ける。

返信メールをくれた友達の一人が、リンクを張ってくれていた。
2006年の映像だが、シャルリエブド編集部のミーティング風景だ。
http://iloveyougeorgiahubley.tumblr.com
この人たちは、もういないのだ。
ほぼみなが、銃弾に倒れた。
どれほど無念だったろうか。悔しさを感じる間もなかったかもしれないが……。
スタッフのペンからすらすらと、つぎつぎに風刺画が描かれていく。それはイマイチだよ。おおそいつはいいぞ。表情がピンと来ないよ。いっそ顔を隠せば。台詞を換えてみろ。……知性と才能にあふれた人々のつくりあげる、洗練された時間と空間がそこには在る。たしかに在る。なのに、もう二度と再現はできないのだ。映像が進みゆく。私は、泣いた。喪失の大きさに、あらためて打ちのめされて、泣いた。

Je suis Charlie2015/01/11 12:05:38

「あなたの身には何も起こっていないか」「心配している」「平穏な日常が戻りますように」

急ぎパリの友人たちにメールを送ったけれども、誰に対しても、同じような、たった3行しか書けなかった。私の友人は、幼児期に生き別れた父はアフリカ人だとか、配偶者が移民だとか、母親をチェルノブイリの影響で死なせているとか、パレスチナから留学してそのまま居着いて結婚したとか、両親はアルジェリアから引き上げたユダヤ人(仏国籍)だとか、あるいは左派の知識人だとか、そんな人が多くて、いわゆる由緒ある貴族の末裔とか財閥や世界に冠たるブランド企業の一族だとかそんな人とは縁がない。友人たちはみんなほぼ例外なく、(投票はしたけど)オランド政権に不満を持っており、人種差別を憎んでおり、ナチスを憎んでおり、ガザを攻撃するイスラエルを憎んでおり、中東を空爆する欧米の軍隊を憎んでいる。対イスラム国で正義の味方ヅラしてスクラムを組む列強にうさん臭いものを感じている。しかし、それ以上にテロを憎んでいる。だが友人たちの、ある対象への憎しみ、ある対象への共感はおそらく少しずつ温度差があるだろう。彼らそれぞれとの親密さの度合いとは別に、日本に住む日本人である私はあまりにも部外者だ。軽はずみに「Je suis aussi Charlie!」などというメッセージを送るのはためらわれた。あなたに何がわかるのよ、と言われたら何も言い返せない。何もわからない、正直。隣人がテロリストかもしれない、いつ銃撃が始まるかもしれない町に住む、その恐怖。

しかしそれでも、「Je suis Charlie」と言おう。週刊紙シャルリエブドの毎号一面を飾る強烈な風刺画は、現代の、生温い報道にしか接していない一般日本人には理解に苦しむものに映るかもしれないし、手が何本も生えたゴールキーパーの写真で放射能汚染を放置する日本政府を批判したフランスのテレビに「ひどい」「傷ついた」なんてカワイく反応する国民性だから、毒のある風刺画を「いきすぎ」という人がいたりする。だが間違えないでほしい。シャルリエブドは反イスラム主義でもなんでもない。シャルリエブドの風刺の対象は政府や権力、大国の横暴、極右など偏向思想、人種差別主義者、戦争やテロリズムだ。だからこそ、フランスじゅう挙げて誰もが「私はシャルリ」「私たちはみんなシャルリだ」「パリはシャルリだ」と叫んでいるのだ。

風刺画の役割はいくつかある。世知辛い世の中、低所得や失業に苦しむ庶民の心に一滴の潤い=笑いをもたらすためである。笑い飛ばさないとこんな世の中でやってけないぜ、そうだろ。また、平穏に見える日常に、実はいくつも問題があるよとそれぞれの足許、心の奥底で自問させるためである。モハメッドをちゃかした風刺画、ムスリムとシャルリエブドが相思相愛だと描いた絵、バイブルもコーランもトーラーもトイレットペーパーにして「流してしまえ」と揶揄した絵。これらを見て痛快な思いをするか、不愉快になるか、心がどう揺れるかで自分の深層心理がどの位置にあるかを気づかせてくれる。人は誰でも自分は差別なんかしないと思っている。だがほんとうにそうか? むしろ、大なり小なり差別感情を抱えているのがふつうの人間だ。平穏で退屈な日常に流されて本来持っている意識に自分自身で蓋をしているのだ。それは時に呼び起こされなければならない、何か起こったときに毅然とした態度を取るために。

フランス人たちは、全員が積極的にシャルリエブドの風刺を支持していたわけではないだろうし愛読者でもなかったはずだ。だが、今回の襲撃は、風刺(ユーモア)に食ってかかる大人げない行為であり、ひいては正面から正々堂々と批評するという行動への冒涜だ。シャルリエブドの風刺画家や執筆者たちは、実名を名乗り、ペン以外の武器は持っていなかったのだ。丸腰だったのだ。それを問答無用で銃撃し殺害したという行為は、なにがどうであっても許されない。

「こんな絵、描いたらあかんやろ」「そら殺されるわ」みたいな反応がナイーブな日本のお子ちゃまたちに見受けられる。日本では、形が違うだけで言論テロはすでに水面下で行われている。おそらくそんなことにも無頓着なのだろう。嘆かわしい。

Je suis Charlie.

極右政党の「国民戦線」のジャンマリ・ル=ペンは「ま、お悔やみ申し上げるが、私はシャルリじゃないよ」とはっきり言った。こいつもまったく、筋金入りの極右なわけだ。シャルリエブドにはさんざんけちょんけちょんに描かれてきたからザマアミロと思っているに違いないけど、はっきり言っちゃうところがどこかの国の極右傀儡政権のおぼっちゃまボスとは大違い。

テロリズムは許せない。10歳の女児を自爆テロさせたという報道があったが、若い命をもてあそぶ、純粋に信じるものにまっすぐ向かう若い心を手なずけて命を捨てさせる原理主義組織は断じて許せない。
しかし、である。
この殺戮の連鎖の最初の石は誰が投げたのか。
テロリストは中東への空爆をやめろというだろう。
ガザでの虐待、迫害をやめろというだろう。
お前が最初に殺したんだ。
互いにそんな台詞を投げ合っているのだ、世界は。
そのことをもう一度考えずには、何一つ解決には向かわない。

追悼集会にはイスラエルのネタニヤフも出席するという。前大統領のサルコジも(ま、こっちは当たり前だけど)。どんな顔して参加するんだ。

欧米はユダヤコネクションを憎んでいる。その根は長く、深い。
しかし、ユダヤコネクションに牛耳られてしまっていて、身動きできない。
ほんとうはユダヤ排斥を叫びたいけれど、大戦後はそんなことは露ほども言えなくなった。政治経済をがっちり支えているのはユダヤ人たちだからだ。ナチスに酷い目に遭ったのはほかでもないそのユダヤ人だからだ。イスラエルの振る舞いを見て見ぬ振りをせざるを得なくなった。その果てにイスラム教徒の反感を呼んだ。
しかし、石油権益のためにイスラム世界にもゴマを擦らなければならない。

憎悪と利権のスパイラル。出口は、ない。
このあと数十年もの間、私たちはただ、言い続けることしかできないだろう。描き続けることしかできないだろう。世界のあちこちで人々が殺し殺されていくのを横目で見ながら。

Je suis Charlie.