Quel début d'année atroce...2015/02/28 16:17:34

『みみをすます』
谷川俊太郎 著 柳生弦一郎 絵・装本
福音館書店(2007年33刷/初版1982年)


今日で2月も終わりである。雪の多い正月を過ごし、雪の話ばかりしていたのに、めまぐるしく日々が過ぎていき、明日から3月。
ほんとうに、なんということだろうと思う。何が何でも、12月の選挙でひっくり返さなければならなかった。幼稚で狡猾な独裁志向のただのわがまま坊主には退場してもらわねばならなかった。ほんとうに、この国の大人たちの危機感のなさ、視野の狭さ、その「自分のことで精一杯」ぶり、もとよりこれは自戒を込めて言うんだけど、あまりのことに呆れ果てただ悲しい。
悲しいときに、よく私はこの本を開く。この本にはただひらがなの言葉がつらつらと並び、ときおり、子どものいたずら描きのような、それでいて味のある、人物の肖像が挟まれる。そうしたひらがなの文字を目で追い、目で追うほどに言葉になるのを追い、言葉が連なるままに詩篇となるのをただ吸収する。息を吸うように読み、息を吐くようにページをめくる。
そうするだけで、いつのまにか心が落ち着きを取り戻すのを感じる。こんなに毎日惨いことが起こる世の現実に私の精神はひどく安定を欠いているのだが、一時的にせよ、いやまったく一時的に、なのだが、穏やかになれる、心底。安定を欠いていると言ったが、なにも朝から晩まで不安に苛まれ泣いているわけでも、ホゲーとしているわけでも、どうすればわからなくなってうろうろしているのでも、ラリっているわけでもない。平静を装い、毎朝同じ時間に起き、いつもと同じ一日が始まると自分にも娘にも母にも猫にもいい、三度の食事を支度し食べ、洗濯や掃除などハウスキーピングにいそしみ、商店街で野菜の値段を見比べ、大人用紙パンツのセールに目を光らせる。そんな合間に、依頼された原稿を整理したり、自分の書いたものの焼き直しをしたり、面白そうな仏語本を渉猟する。娘のメールを読み、返信をする。優先順位の高いことというのは、たしかに、何よりもこうした自分と自分の身近な者たちのことばかりであって、そしてほんらいそれでよいのである。家のそと、町のそと、地域のそとは、私なんかが心を砕かなくても万事順風満帆に事は運び憂いは流れ、いいとこ取りをされて均されて、治まるというふうに、かつては決まっていたのであった。いや、かつてもこの世には恐ろしいことや許されないことや悲しいことがたしかに次々起こっていたのだけれども、そのたび、そのときも私の心はおろおろしていたのだけれども、世の中には必ず賢明な知見が在るべきところに在り、どこかで防波堤となっていたのであった。
いまはその防波堤が見当たらない。どこにも。あかんわ、もう。あかん。

『みみをすます』を開く。ひらがな長詩が六編収められている。ひらがなだけど、これらの詩は子ども向けではない。この本を買ったのは、自分のためだった。谷川俊太郎の「生きる」が小学校の教科書に掲載されてたか授業で取り上げられたかなにかで、娘が暗誦していたときに、その「生きる」よりもいい詩が俊太郎にはあるんだよ、と「みみをすます」のことを言いたかったんだけど、詩篇は手もとになく、ネット検索で見つけた詩篇のすべてをダウンロードしたかコピペしたかの手段でテキストとしていただき、ワープロソフトに貼って、きれいなフォントで組んで、A3用紙にプリントして、壁に貼った。とっくに貼ってあった「生きる」の横に、「生きる」よりはるかに長い「みみをすます」はとても暗誦できるものではなかったが、断片的に拾うだけでも意味があると思って、「みみをすます」を貼った。娘は「みみをすます」も声を出して読んでいたが、語られていることはまだまだ幼かった彼女の想像を超える深淵さで、圧倒されてつまらなかったに違いない、そのうち熱心には読まなくなった。

「みみをすます」は次の4行で始まる。

みみをすます
きのうの
あまだれに
みみをすます

生活音を想像できるのは以上の4行のみで、次のパラグラフからは壮大な人類の歴史に思いを馳せていくことになる。《いつから/つづいてきたともしれぬ/ひとびとの/あしおとに/みみをすます》。

ハイヒールのこつこつ
ながぐつのどたどた

これくらいはわかりやすいけど、《ほうばのからんころん/あみあげのざっくざっく》や《モカシンのすたすた》など、現代小学生に自明ではない言葉が出てくる。すると、現代っ子の悪い癖で思考を停止させ、調べもせず、考えるのは停止して語の上っ面だけを撫でていく。長じて、知らない言葉をすっ飛ばしてテキストを読む癖がつき、小説だろうと論評だろうと漫画だろうと、そうした読みかたでイケイケどんどんと読み進み、読めていないのに読んだ気になる。
ま、いまさら仕方ない。

はだしのひたひた……
にまじる
へびのするする
このはのかさこそ
きえかかる
ひのくすぶり
くらやみのおくの
みみなり

ここから詩は古代史をたどる。恐竜や樹木や海流やプランクトンが幾重にも生まれ滅んで、そして一気に自分の誕生の瞬間を迎える。《じぶんの/うぶごえに/みみをすます》《みみをすます/こだまする/おかあさんの/こもりうたに》

谷川俊太郎は、私の亡くなった父と同じ生まれ年である。昭和20年は13、4歳だった。敗戦時に何歳でどういう社会に身を置いていたかでその後のメンタリティは大きく変わるので、父と同じように少年時代の俊太郎を見るのは失礼きわまりないのだけれど、戦争はそれなりに当時の少年の心を大きく占める関心事であったに違いなく、そしてそれが無惨な終わりかたをしたこと、そして周囲の大人たちが思想的に豹変を見せたりしたことはショッキングな事態だったと思われる。父は、玉音放送に涙を抑えきれず、でも泣いているのを母親や兄弟に見られたくなくて部屋の隅っこで壁に向かって、声を立てないように気をつけて泣いたと言っていた。しかし、俊太郎の両親や親戚はいわゆる賢明で動じない人びとだったのであろうか、戦時は時勢にしたがい行動し、やがて粛々と敗戦を受け容れ時代の変化になじんでいったようである。母親に溺愛され、自らも母に深い思慕を抱いていた俊太郎は、一体になりたいとまで欲した母に代わる存在がやがて現れることを恋と呼ぶというようなことを、エッセイを集めた『ひとり暮らし』(新潮文庫)の中で述べている。家族愛に守られ成長した俊太郎は、戦前、戦中、戦後を、あからさまではなく静かに、詩の中に書き記していくのだ。

うったえるこえ
おしえるこえ
めいれいするこえ
こばむこえ
あざけるこえ
ねこなでごえ
ときのこえ
そして
おし
……

みみをすます

うまのいななきと
ゆみのつるおと
やりがよろいを
つらぬくおと
みみもとにうなる
たまおと
ひきずられるくさり
ふりおろされるむち
ののしりと
のろい
くびつりだい
きのこぐも
つきることのない
あらそいの
かんだかい
ものおとにまじる
たかいいびきと
やがて
すずめのさえずり
かわらぬあさの
しずけさに
みみをすます

(ひとつのおとに
ひとつのこえに
みみをすますことが
もうひとつのおとに
もうひとつのこえに
みみをふさぐことに
ならないように)

いま引用したくだりは、「みみをすます」のなかでも最も好んで反芻する箇所である。ヒトは自分の耳に心地いいものしか聴こうとしない生物である。でも人であるからこそ、聴きにくい音や聴きづらい声も傾聴できるのだ。
このあと「みみをすます」は十年前のすすり泣きや、百年前のしゃっくりや、百万年前のシダのそよぎや一億年前の星のささやきにも「みみをすます」。
でも、そんなふうに壮大な物語に思いを馳せつつも、《かすかにうなる/コンピューターに》《くちごもる/となりのひとに》「みみをすます」。
最後の一行まで読めば、気持ちが未来へ向くように、とてもよくできている。それでも時は流れ、風は吹き、水も流れ、命が生まれるのだと、そこには少し諦念を含みつつ、安寧に満ちた気持ちになる。

つづく「えをかく」という詩も、「みみをすます」に似ている。耳を澄まして聴く行為が絵に描くという行為に交替していると言ってもいい。自分を描いたり、草木を描いたり、家族を描いたり、自動車を描いたりしていきながら、《しにかけた/おとこ/もぎとられた/うで》を描く。《あれはてた/たんぼをかく/しわくちゃの/おばあさんをかく》。

「ぼく」という詩がつづき、「あなた」という詩があり、「そのおとこ」「じゅうにつき」とつづく。

いま、いちばん人の心を裂くように食い入って響くのは、「そのおとこ」かもしれない。男でも女でも、「そのおとこ」でありうる。私たちはそれぞれが奇跡の巡り合わせで生きている。今月19歳になった私の娘が、過激派組織に参加するために家出したロンドンの17歳の少女であるわけがないと、どうして言えるだろう。たったひとつのボタンの掛け違いが、人の歩くみちを簡単に遠ざける。いつもビデオカメラを抱えて旅をしていた私の友人が、あの殺されたジャーナリストにはなり得なかったとは言えないのだ。利発でやんちゃな隣の男の子が、河川敷で血まみれになっていた少年であるはずないなどとは、とうてい言えやしないのだ。彼我を分けるのは紙一重のいたずらに過ぎない。

うまれたときは
そのおとこも
あかんぼだった

こんな当たり前のことを、誰もが忘れている。

もしじぶんに
なまえがあるなら
おとこにも
なまえがある

こんな当たり前のことを、みんな忘れようとしている。

だから、『みみをすます』を開いても、心穏やかにはなれない自分に、やり場のない憤りを感じ、悲しみがこみ上げる。どうすればいいのだろう、こんなに惨い始まりかたをしたこの年を、どんな顔をして、どんなふうにふるまいながら、近しい人びとを励まし元気づけ食べさせながら、自分も凛として生きていくために、どうすれば、ほんの少しだけ転がる石ころやゴミに気をつけるだけでとりあえず歩くに支障のない道を歩くように、暮らしていくことができるのだろう。幾度も幾度も開いては、心を潤してくれていたこの本が、いまは傷口に塩を塗るように、心の壁を逆撫でする。

Joyeux Noël... oh, il est tard?2012/12/26 20:04:09

『平さんの天空の棚田―写真絵本・祝島のゆるがぬ暮らし 第1集』
那須圭子著(写真・文)
みずのわ出版(2012年)


飛びついて買った。
と、言いたいところだが、この本の情報をゲットしたときすでにそこらへんの書店には全然なく、アマゾンでも入荷未定のため取扱不可能の通知。8月発売だったみたいだが、たしか風に秋の香りを感じ始めた頃に新聞の書評欄で見つけた。近所にある最近成長イチジルシイ某大型書店には影も形もない。できるだけ路面に店舗を構えている書店で本を買おうと心がけているのだが、しかたなくアマゾンで注文を試みると先述のような通知が来て「キャンセルする?」と聞いてくる。こういうときは出版元に泣きつくに限る。というわけで書名、出版社名で検索するとあっさり出てきた。お問い合わせは「メエルください」と面白い書きかたがしてあって(笑)、メエルを送ると丁寧な返事が来て「注文を承ります」。わずか一往復半の、短いメエルのやり取りだったが、とても温かく幸せな気持ちになれた時間だった。みずのわ出版の店主は、旧仮名遣いでメエルを書いてきた。文体もどこか昭和初期の匂いがする(っても私は「昭和初期」なんて知らないんだけどさ)。丸谷才一を思わせて、にんまりしながら、その短いメッセージに愛しさを感じながら、何度も読んだ。
彼によると、そもそも本書はほとんど流通に乗っていないのだという。きちんと本の評価をしてくれて、誠実に販売してくれる店舗を探したら、全国で50店ほどしか、本書を置ける店がなかったというのだ。紙でできた本。指でページをめくることのできる本。著者の息づかいや思いにあふれる書物。その真実の価値を知り、真摯に扱ってくれる書店は年々減り続けている。みずのわ出版さんがこだわり強すぎるのかもしれないし、広い広い出版界の中にあってみずのわ出版さんは「偏屈」に分類されるのかもしれない。でも、じゃ、偏屈でない本ってどんな本だろう。時流に乗った、著名な人が書いていて、装幀デザインにも最近のテイストが効いていて、万人がこう評価する。「ちょっといい感じちゃう?」「しゃれおつ!」「表紙かわいい!」

そんなわけで、みずのわ出版さんに直接掛け合って入手した『平さんの天空の棚田』。もちろん、アマゾンの打診には謹んで「キャンセルする」をクリックした。また今度ね。

本書の主人公は、「棚田」である。平さんの祖父が、まだ幼かった平さんを連れて、山腹に築いた石垣の上。その棚田は海に望み、空と海の青を映し、ならぶ早苗が列の隙間に映る白い雲やきらめく星と絵を描き、垂れた稲穂は天空に黄金の穂先を揺らし、干された稲が崖にタピスリーのごとく重厚な模様を織りなす。棚田に立つと、遠い遠い空が少しだけ近く感じられる。棚田に立つと、きっと、棚田だけが天空に浮かんで、これから旅に出るかのような気にさせてくれる。

平さんは、節くれだった掌を著者に見せ、自分が死んだら棚田はもう終わるという。それを聞いた著者は、なんとか後継者を探そう、などと野暮なことは言わない。平さんの魂とともに棚田は山へ還るのだ。

日本には、いや日本だけでなくアジアの山岳部には美しい棚田がたくさんある。田植えの時期、インターネット上には美しい棚田の写真が争うようにアップされる。どれもこれも、失いたくない自然と人智の結晶だ。文化遺産(自然遺産か?)に指定された棚田もあると聞く。そうしたことは、私も否定しない。しないけど、おそらくちっとも絵にならない小さな島の狭い斜面の小さな田圃、著者が記録しなかったらきっと誰も振り向かなかった石垣の上の狭い棚田、それは、ほかのどの土地にあっても絵になるどころか意味をもたなかったかもしれない風景なのだ。

みずのわ出版のサイトはここ。本書の紹介文をコピペする。
http://www.mizunowa.com/

『平さんの天空の棚田―写真絵本・祝島のゆるがぬ暮らし 第1集』
A5判フランス装76頁
定価=本体2000円+税
ISBN978-4-86426-019-0 C0372
著者(写真・本文・解説)=那須圭子
装幀=林哲夫(画家/「sumus」編集人)
プリンティングディレクター=熊倉桂三(山田写真製版所)
編集=柳原一徳(みずのわ出版)
印刷=(株)山田写真製版所
製本=(株)渋谷文泉閣

●…中国電力が山口県上関町長島の田ノ浦に建設を計画する上関原子力発電所に対し、30年にわたって反対運動を続けている祝島(いわいしま)で、祖父から3代にわたる棚田を守り続ける平萬次さん(80歳)とその家族の物語。カラー写真30数点収録の写真絵本。
著者による巻末の解説(「天空に浮かぶ家族の城の物語」)では上関原発問題について簡単にふれているが、本文では原発の「げ」の字も書かれていない。連綿と営まれてきた島の日常の記録を通して「豊かさ」の本質を問い、それをもって反原発の意志を伝える試みでもある。
毎年同じ時期に繰り返される田植にみられるように、一見何ら変化のない、のんべんだらりとした日常。それは、3.11震災に伴う福島原発事故により、連綿と生活を営んできた土地から引き剥がされ、郷里を喪った人々にも、同じようにあった。際限なく膨張する都市のエゴが、田舎のゆるがぬ暮らしを奪い、後からくる子供たちの生存を危うくしている。豊饒の海と大地を、目先のカネのために売ってはいけない。

著者:那須圭子(なす・けいこ)
フォトジャーナリスト。1960年、東京生まれ。早稲田大学卒業後、結婚を機に山口県に移る。上関原発問題に出会い、報道写真家・福島菊次郎氏からバトンタッチされる形で、同原発反対運動の撮影を始める。写真集『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人(しまびと)の記録』(創史社、2007年)で「第12回日本自費出版文化賞・特別賞」を受賞。

 *

今、ラジオを聴きながら書いてるんだけど、アシスタントパーソナリティの女性(若手の局アナ・24歳らしい)のおしゃべりにちょっと辟易している。メインパーソナリティはベテラン男性アナ・50代、ちょっとええ声のハンサムヴォイス。彼が「レ・ミゼラブルを観たんですよ」と話題の映画に触れたとき。「へえー面白かったですか?」とお嬢さん。メイン氏が「僕はあまりミュージカル映画は好きじゃないんだけどさすがにレ・ミゼラブルだからね……知ってるでしょ、レ・ミゼラブル?」「ええ?有名なんですか?」「知らないの?」「何の名前ですか?」「え、ホントに知らないの? ああ無情って少年少女世界文学全集には絶対入ってたよ、アニメにもなってたよ」「ああ無情? それ、そのレなんとかと関係あるんですか?」「ホントに知らない? ヴィクトル・ユーゴーの」「びくとるゆうご?」「そうですかー知りませんかー……(ここで小説のあらすじを紹介、映画の見どころを解説)ジャンバルジャン役の俳優は歌がうまかったね」「ジャンバルジャンって何ですか?」「何って主人公の名前ですよ、聞いたことない?ジャンバルジャンって」「エクスオーじゃん、なら知ってます」「何それ」「韓国料理の調味料」「……」

漫才とかネタとか冗談ではなく、真面目なやり取りである。この女子アナ嬢、学生時代は海外旅行に行きまくったらしく、フランスもイタリアも「制覇」したそうだが、何を制覇したんだろう?
彼女、発音は明瞭で、声も悪くないんだけど、無知ぶりをこんなふうに披露されても不愉快だ。仏文学を勉強していなければ、知らないのは仕方がない(仏文学勉強しなくったって『ああ無情』は知ってるけどな、おっさんおばはんは)。
レ・ミゼラブルぐらい知っとけよ、とかヴィクトル・ユーゴーを知らないなんてプッ、なんていうつもりはさらさらない。知らなくても、いい。でも、たいへん高名な文学作品についてカケラも知らないことを、こんなに恥ずかしげもなく語られると、こっちが赤面してしまう。もう少し、謙虚になってほしい。

Nuclear Free Now!2012/12/14 09:42:41

明日です。
Nuclear Free Now
Nuclear Free Now 2012.12.15-16
12月15日は、日比谷野外音楽堂に集まろう!
Nuclear Free Now さようなら原発世界大集会

↑ お近くの方はご参加くださいませ。


えー続きまして(笑)こちらのご署名、まだの方、どうぞよろしくお願いします。
子どもたちを福島原発事故による被ばくから守るため、集団疎開の即時実現を求める署名のお願い
↑ 宛名が「日本国総理大臣 野田佳彦殿」になったまま(笑)ここ数日署名数が伸びていないのはそのせいだよね、きっと。

で、今日はこれ。

『さがしています』
アーサー・ビナード文 岡倉禎志 写真
童心社(2012年)
*表紙写真:「鍵束」寄贈者・中村明夫(広島平和記念資料館所蔵)

先月かその前かにアーサー・ビナードのことを少し書いたけど、この本を入手したくて、この本の制作にまつわるエピソードとかが聞きたくて、トークに足を運んだのだった。だけど、イベントそのものは丸木位里、俊、スマの作品展であり、丸木作品との出会いについて話すのがトークショーの趣旨であったゆえ、この本は今年の新刊なのでもちろん話題には出たが、期待してたほどの裏話などはなかった。

私たちは本書を通じて、写真に撮られた「ヒロシマの遺品」に触れるわけだけれども、詩人も写真家も「実物」の「ヒロシマの遺品」にじっさいに触れているのであり、遺品から聞こえてくる声にならない声を、じかに聴いているのである。ビナードも岡倉も、印刷物となって読者が本を開くときにその声にならない声を届けようと、工夫を凝らし苦労を重ねたことが窺える。
しかし、その意図は、伝わってこない。というより、いや、違うんじゃないの、というほんの少しのズレを感じる。著者たちの意気やよし、なんだけど、ビナードの詩は胸を打つけれど、遺品の声そのものではない。写真に撮られた遺品も、その写真が遺品の姿すべてではない。そのことはどうしようもないし、それで当然なんだけど……

なんといえばいいのだろう。

ピカを体験した遺品たちは、「さがして」いるのだろうか、突然失くした日常を?
自分の持ち主だった人を、まだ待っているのだろうか?
その人の命は無残に焼き尽くされて跡かたもなくなってしまっていることを知らないまま?

本書では、この遺品たちを「カタリベ」と呼び、原爆投下から65年以上、その瞬間の姿のまま在り続けながら、昇天しない思いを語っている。
ビナードと岡倉はその代弁者であるわけだ。
書籍の帯にあるように、「未来へつづく道」を探しているのだろうか?

あの日の朝も、「おはよう」「いただきます」「いってきます」「気をつけて」と言葉を交わして一日が始まったはずだった。たしかに。
突然遮断された時間と空間を、「さがしています」と、カタリベたちは言っている。
そういうことらしいけど。

私には、尽きることのない諦念しか感じられない。もう、どうしようもなく深い、たとえば洞窟とかマンホールの底とかの、闇の中で、絶対に脱出できない状況に置かれたまま、でも死ねない。いっそ命が尽きればいいのになのになぜか生かされている、脈のある屍。その屍(脈は、ある)から蛇口からこぼれる水滴のように少しずつ落ちて、そこに溜まることなく乾いては、また滴る、諦念。

「さがしています」よりもふさわしいタイトルはたぶんこっちだ。

「あきらめました」

あきらめました、わたしを持っていた人に再会すること
あきらめました、ピカに遭う前のきれいな姿に戻ること
あきらめました、ピカを使わない世の中も
あきらめました、ピカをつくらない世の中も
あきらめました、わたしたちを忘れずにいてもらうことも


だからね、なんだかちょっと違和感はあるわけだけど、でも私はこの本を大事に大事にしている。慈しむようにページをめくっている。だってさ。
うっふっふ~~~♪

Quand elle peint les poissons, elle devient un poisson et nage avec les autres dans l'eau...2012/11/17 23:48:27




『うさぎのまごころ ジャータカ物語より』
武鹿悦子 文  丸木俊 絵
世界文化社(1980年)


うさぎは客をもてなすために自分の肉を供することに決めた。
あかあかと燃える火に身を投じようとしたその瞬間……

月にうさぎの姿が見えるのは、そうしたうさぎの真心を、地上の生き物たちが忘れないよう、肝に銘じさせるためなんだって。

……というお話にいたく感動したからではなく、この絵本の美しすぎる挿画を描いたのが、あの丸木俊だから、私はこの本を持っているのである。

ビナードは原爆の話をするためにトークショーを開いたのではなくて、画家丸木俊の生誕100年を記念した丸木位里、俊、スマ三人展の機会に彼らの絵の解説をするために京都へ来たのだった。

丸木位里・俊夫妻といえば『原爆の図』。その印象が強すぎて、夫妻の画業の実際はあまり知られていないと思う。私だって、全然知らないといっていい。ただ、今回三人展を開催したギャラリーは、ほぼ毎年のように丸木展を開催しており、縁の人の講演やライヴも併せて企画し、丸木家の画業の紹介に努めている。

左の水墨画が丸木位里、真ん中のひまわりが丸木スマ。

アーサー・ビナードも丸木夫妻と接点を持った人だ。そのゆかりを大切にし、ずっと二人の仕事を追ってきた彼は、丸木位里の母親・スマの作品に魅了される。

私自身、丸木位里のお母ちゃんまでが絵を描く人だとは知らなかったので、その豊かな表現力と色彩のセンスに、今回は唸りましたねえ。
上の写真はギャラリーの室内、ガラケーで撮ったので美しくないが、青い葉っぱのヒマワリは必見の一作。

「スマさんは、描く対象に自分がなりきってしまうんです。魚を描く時は魚になる。猫を描く時は猫に、カニを描く時はカニに。なりきって、自分も同じその生物になって、観察する」

そんなわけで、今回はスマさんの作品をけっこう見ることができて、収穫だった。埼玉県の丸木美術館(左サイドバーにリンク張ってます)ヘ行けってことかな?

丸木位里の水墨画と、丸木俊のカラフルな水彩や版画は相容れないようで、そのコンビネーションは実は見事である。合作の代表作『原爆の図』の「夜」、私は今回初めて見たが表装されてて、チョイおろろいた。掛軸になってんのね※、さすが!(いや、そこは賞賛するところではないと思うのだが)。

※三十二年にわたって制作された『原爆の図』は全部で第15部まであるけれども、この「夜」は未完作品である(らしい……。作品を観るとこれのどこがどう未完なのだと思うけど)ゆえに、他のシリーズのように四曲一双の屏風仕立てにはなっていないのだろうか。軸装だと、収納時はまるめているのだろうか。などなど余計なことを考えてしまった。


でも私は、モスクワの香りもかぐわしい「可愛い」絵の数々が好きである。
2点とも丸木俊。



S'il n'a pas dit "Non"...2012/11/16 18:18:22




『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』
ベン・シャーン絵、アーサー・ビナード著
集英社(2006年)


アーサー・ビナードのトークを聴く機会があった。声を聴くのも、ご本人の姿を拝するのも、この時が初めてだった。流暢な日本語に、間合いの取りかたも絶妙で、ひとつひとつのトピックにちゃんとオチをつけるところなど、下手な芸人なんかよりずっと冴えている。その数日前に、「舌鋒鋭い人生幸朗」ばりの(といったら失礼かな。といったらどっちに失礼かな。笑)書家・石川九楊の講演を聴いたところだったが、いやいやどうして、扱いネタは違うし話術ももちろん違うけど、笑いの取りかたも本質の突きかたも説得力もいい勝負。

何年も前、当時購読していた新聞の夕刊コラムにエッセイを連載していたのを、たいへん楽しく読んだ記憶がある。その中に、「旧」の旧字が「舊」だと知って小躍りした経緯を綴った回があって、とりわけ面白く読んだように覚えている。ヘンなガイジン。我が町には有名無名問わずヘンなガイジンがわんさかと棲みついているので、ヘンなガイジンに会っても驚かないけど、日本人よりも上手に日本語を操るガイジンは、じつはそう多くない。

むかし、零細仏系出版社で雑用をしていた頃、出版物に広告をくれるクライアントと電話で話す機会が多かった。広告主はたいてい仏企業の日本支社、当時は日本人スタッフを雇い入れているオフィスは少なくて、といって赴任しているフランス人スタッフが日本語できるかといえば全然そんなことはなかった。こっちが仏語誌だと知っていて、さも当然のようにフランス語で電話をかけてくる。いくら決まり文句での応対でも日本人だとすぐばれる。すると、「マドモアゼル、実はね……」と優しくゆっくり話してくれるケースもあれば、もうええわといわんばかりに「ムッシュ●●に電話くれって伝えて。ガシャン」で終わるケースもある。そのなかで、果敢に日本語でかけてくるハンサムヴォイスのフランス人がいた。「いつもお世話になっております」「弊社の広告出稿の件ですが」「スケジュールの変更はできますか」と、それはもう毎回、見事な日本語だった。ある時、出版物が刷り上がり、広告主への送付準備をしているとハンサムヴォイスから電話がかかってきた。「お送りいただく掲載誌の部数の変更をお願いしたいのですが」……。これ、ここまできれいに日本人だって言えないよ。ほれぼれするわあ。すっかり目と耳をハートにしながら「もちろん承りますよ。何部お送りいたしましょうか」というと、「ありがとうございます。では、イツツブ、お願いします」

……いつつぶ?

いつ、粒? いえいえ冗談よ、五つ部といいたいのだ彼は。
これほど完璧に日本語を操るビジネスマンが、「五部」を「ゴブ」といわずに「イツツブ」というなんて。

可愛いいいいいいいーーーーーーー!!!(笑)

ますます目と耳のハートが大きくなった私だがなんとかそれを引っ込めてつとめてクールに「ハイ、あのー、いま五つとおっしゃったのは、5部、ということですね」「えっ……。はい、そうですね。ああそうでした。この場合はゴブといわないといけませんでした」「では、たしかに5部、お送りいたします」「はい、よろしくお願いいたします」


と、いうようなエピソードは、アーサー・ビナードと何の関係もないのだが、日本語のチョー上手なガイジンが話すのを聴くとき、例のハンサムヴォイス君みたいな可愛い間違いをしてくれないかとそればっかり期待して耳をハートに、じゃなくてダンボにしている自分に気づいて呆れている。


ビナードはすでに数多くの著作を日本で出しており、明快なその反核アティチュードはよく知られていると思うので、今さらその主張については述べない。先日のトークで彼が言っていたのは、絵を鑑賞するとき、その絵の向こう側、深淵を見つめなくてはいけないし、向こう側から何も語ってくるものがなければ、鑑賞者にとってその絵はただそれだけのものでしかなく、何かを語ってくるならその絵にはそうした力があるということであり、また語ってくるものを受けとめる器を観る側が持っているとき、その鑑賞者にとってその絵は生涯唯一無二の存在になりうるほど大きな意味をもつ、ということである。


ベン・シャーンはビナードの父親がたいへん愛した画家だったそうだ。家にあったベン・シャーンの画集は、アーサー少年の心を捉えて離さず、力強い筆致の奥から湧き上がってくるかのようなパワーめいたものの虜になった。この第五福竜丸の連作を日本で絵本にしなくてはならない、という思いを、実現させたのが本書である。
私が所有するたった1冊のビナードの本。

反核反原発にかんする彼のアプローチは、やはりアメリカ人ならではの視点が効いているといってよく、そんなのちょっと冷静に考えればあったりまえじゃないの、というようなことすら気づいてこなかった日本人のお気楽ぶり、ノー天気ぶりを思い知らされる。

「福島の事故は、京都のせいだともいえるんですよ」

風が吹けば桶屋が儲かる、ふうに言うならそういうことだ。そんな喩えかたは不謹慎かもしれないが、第二次大戦で当初の実験計画に変更がなければ、米軍は間違いなく原爆を京都に落としていた。もし予定どおり京都に落とされていたら、戦後の日本の国土の在りようはもっと違ったものになっていただろう。

「(山に囲まれた)京都だと、爆発後の残留放射能の影響が大きすぎる、後年、ほぼ永久に土地は放射能に汚染されたままになる。そうすると日本人の反原爆、反核意識がとてつもなく高まるので、のちのち扱いにくいではないか」
「日本には毎年9月頃台風が上陸するからそれによって残留物質が海へ流されてしまうような土地が実験には適している」
「放射能が残らなければ、爆撃されたという記憶もすぐに風化する」
「……と考えたと思うんですよ。京都が美しい街だから、とかそんな子どもみたいなこと当時の米軍部が言うわけないでしょ」

ビナードはあくまで「僕の推測」としたけれど、おびただしい文献や証言にあたって導いた結論だから、的を外してはいないと思う。なるほどそのほうが自然だと、私も思う。京都は台風の被害がほとんどないから、まさに残留放射能は山と川と大地に留まり地下水に深くしみこんでいき、二度と人の住めない死の町となっただろう。その影響は、隣の滋賀、奈良、大阪、兵庫へも拡大しただろう。かつてロイヤルファミリーの本拠であった古都を爆撃し壊滅させそのうえ後世にわたって放射能で苦しめ続けることは、米国人の想像以上に日本人の中に対米怨恨を残すのではないか。せっかく戦争の後占領してもそれじゃあやりにくいじゃないか。
理に適っている。

だから海に面した土地をウランとプルトニウムの実験場にした。
そうして計画どおり、終戦後すぐの9月に上陸した台風が、残留放射能をあらかた洗い流した。まじめに放射線量などを計測したのは台風後である。そしてその数値なら「大したことないじゃん、ね?」と日米で確認し合い、海沿いにさえ建てとけば、何かあっても毒は海へ流れ出るからオッケーよ、というわけで日本の場合、海岸線に原発がボコボコ建てられて、計画どおり?に甚大な地震と津波によって壊れた福島第一原発から噴き出た放射能は、今太平洋中を航海している。内陸側の汚染に関しては皆さんご存じのとおりである。

あの時、ピカドンが来たのが予定どおり京都だったら、福島にも、大飯にも、伊方にも、原発は建っていなかった。……かもしれない。
で、私もこんなブログなんざ、書いてない。
本書については5年前に松岡正剛が詳しく述べている。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1207.html

J'ai mal partout!2011/06/08 14:33:55

『つえつきばあさん』
スズキ コージ著
ビリケン出版(2000年)


いつもいつもいつもしんどい、という限りなく更年期的症状に近い状態にはカラダもアタマも慣れつつあるのだが、近頃そこらじゅうが痛いのである。頭とか腹ではなく膝とか肘とか指の第二関節とか踵とか土踏まずとかいわゆる整形外科的疼痛である。そんなもんアンタ前からじゃないの、あっちもこっちも痛い、なんてのはさあ、とおっしゃる向きも多かろうが、現在のように同時多発的な痛み発症というのは、なかなかどうして、私の場合珍しいのである。じつは今年初めから膝関節が痛くて曲げ伸ばしが困難になり、正座するのがひと苦労なのである。正座できないというのは、我が家での暮らしにも支障があるし、居酒屋のお座敷席でも難儀するとあって、非常に不都合な真実である。しかし、そんなことになってしまったのには原因があり、したがってこれは治癒する痛みだという診断が下され、そして医師のいったとおり、GW過ぎると痛みはかなり軽減した。したのだが、膝が楽になって喜んだのもつかの間、さきほどならべたてた部位の数々がいっせいにブーイングを飛ばすように痛み始めたのである。まともに歩けないから家の中ではほとんど伝い歩きである。外を歩くときくらいはしゃきっとしようと思って無理するので、職場や自宅に戻ったとたん、前かがみで足を引きずり、ほとんど老婆。これじゃあスズキコージのつえつきばあさんのほうがよほど元気でダンサブルなのである。年に一度の祭りの日。山奥のあちこちの集落から人々が集まって踊る。つえつきばあさんたちもつえつきおどりを踊るのである。こういう年中行事があるから元気でいられるのだな。膝を傷めた時、かかりつけの整形外科医は「絶望的なほどの運動不足がそもそもいちばん問題」といった。つまり、あまりにも体を動かしていないから、突然動かした時の負荷が何倍にも膨れ上がってしまうのである。運動不足解消には何がよいか。つえつきばあさんの例のように、やはり年中行事に限るのだ。私の場合、原則祭りは見物オンリーだ。これではいかん。参加型の祭りが必要だ。祭りでないといかんこたあなかろうに、とおっしゃる向きは多かろう。たしかに、早朝や夕方に近くをジョギングするとか、いや、走らずとも歩くだけでよいではないか、ウォーキングしなはれ、というか、通勤は徒歩に変えなさい。ハイハイ、おっしゃるとおりです。最近よさげなスポーツジムもできたことだし、体験エアロにでもいってみっか。いろいろと、私だって、検討しないわけではないのだ。しかし、どれもこれも生活の中での優先順位をいうと下位にきてしまう。時は金なり。一秒でも惜しい毎日を過ごしているのでジテキン(自転車通勤)はやめられない。ましてやジムなんぞに行く暇はない。しかし、地域の年中行事は優先順位のトップに上がる。地域の夏祭り、子ども祭り、地蔵盆、レクレーション、運動会。どれひとつとして外したことはない。どういうわけか、休日に仕事を入れられそうになっても「すみません、町内行事があるのでほかの日にしてください」というわがままが通る。お母さん、●月●日、買い物行こうよという娘にも、あかん◆◆祭りの日やもん、というと聞き分けがいい。というか「ウチも行くー」である。現にウチの娘は夏の神輿担ぎに必ず参加している。べつに義務づけられているわけではない。ないが、季節がめぐると、参加せんでどうする、みたいな気持ちになるのである。炎天下でほぼ丸一日まちを練り歩く。ハードワークだ。体力使うぞ。そうだ。私にもそういう行事があればいいのだ。杖つかないと歩けなくなる前に、この夏の盆踊りには参加を表明しよう。うう、痛い。ふざけているようだが大真面目である。そこらじゅうが痛いのである。

Me voici, j'ai eu un an de plus, aujourd'hui! Merci à tous!2011/01/18 19:36:13

『100万回生きたねこ』
佐野洋子作・絵
講談社(1977年)


名作の誉れ高い絵本である。私にとっては、大きくなってから、つまり職業としての絵描きや絵本作家を意識した高校生くらいのときに手にした絵本であるので、この本が幼い心にどのように響くのか想像することができない。
娘が保育園のとき、読み聞かせの時間にこの本がとりあげられたことがあった。年中か年長児だった娘は、「ひゃくまんねんいきたねこ、よんでもろた」といった。「それはさ、ひゃくまんかいいきたねこ、とちゃう?」「そやったっけ?」「百万年、生きるのと、百万回、生きるのとは、かなり違うよ」 「ふうん」「面白かった?」「わすれた」
保育園児には難しすぎる絵本である(笑)。
小学校に入ったら、地域住民で構成する図書館ボランティアさんの尽力で読み聞かせ会は頻繁に行われていて、娘は放課後よく聞きにいっていた。あるとき、やはり本書が取り上げられたことがあった。保育園のときに読み聞かせてもらった記憶は微塵も残っておらず、なんとなくあの猫の顔覚えてるような気がするけどなんでやろ、ぐらいの気持ちで聞いたらしいが、感想は:
「言いたいことはわかるけど、お話としてはどうなん、て感じ」
という、まことに佐野先生には申し訳ないというか恐れ多いというか、分不相応に偉そうなコメントを吐いたのであった。
しかし、無理もないのだ。
小学生にだって難しすぎる絵本なのである。
「ねこ」は生きては死に、生きては死に、を繰り返す。生きるたびに飼い主や友達との出会いがある。そして事故や病気で死ぬ。だがまた生きるチャンスを与えられるのかなんだか知らないが、再びこの世に返り咲いて生きる。それを百万回もやってきた。一回の生は数年間に及ぶはずであるから、年数でいうと数百万年生きている。化け猫である。しかし、それはこの本の主題ではない。ここらへんで、子どもは本書理解への挑戦に挫折する。これは化け猫の話ではない。だとすればなんだ? 百万回めに「ねこ」は恋をする。これが大きなポイントなのだが、いかんせんほんものの恋とか生き甲斐とかに出会う前の子どもたちにとっては、たとえば自分の両親などに照らして、やっと結婚したんか、くらいにしか受け取れない。
「ねこ」は生を全うしてほんものの死に至る。
やっと、死んでもいい境地に達した。
やっと、死なせてもらえるくらいの役割を果たした。
本書は「ねこ」をつかって天寿を全うして召されることの幸せを描いているのである。この「ねこ」の気持ちがわかるには、やはり「天寿を全うする直前」に至る必要があろう。
本書は、だから、じつにさまざまな年齢の人々に読まれているし、十人十色の受け止めかた、感想が生ずるのも当然なのである。ウチの子は今のところ好きではないけれど、彼女の同級生には感動した子もいたかもしれない。
中学校に入ってからは、なんと道徳の時間に本書が取り上げられたという。たしか1年のときにはほかの本と一緒に紹介されて、生と死、老いのことについて話し合ったとかなんとかいっていた。さらに、3年になってまた取り上げられ、道徳は担任の受け持ちなので、あの嶋先生が例の調子で授業をしたそうである。
「嶋先生は通りいっぺんのきれいごとばっかりの発言とか嫌いやねん」
「そやろな」
「そやから、誰かがいわはってん、ねこは最後に死ぬことへの恐怖を克服したんだと思います、とか。ほかにも、そういう真面目な答え、ゆわはった人、何人かいて」
「へーーーえ!!!」
「そしたら嶋先生、ほんまか、ほんまにこの絵本読んでそんな感想もったんか、どこ読んでそんなふうに思たんか教えてくれ、とかゆわはんねん」
「いけずやなあ、しまぴょん」
「みんな、しどろもどろ」
「そやなあ。あんたは何かいうたん?」
「ウチの猫がこんな猫やったら嫌やなあと思いました、って」
「ストレート過ぎるな、それは」
「なんで嫌なん、って聞かれたし、ウチの猫は、赤ちゃんのときにウチに来てそれからずっと一緒にいるのに、もし、私の知らないところでそんなにたくさん生きたり死んだりの経験いっぱいしてるなんて想像できひんし、してみても気持ち悪い、って答えた」
我が娘は正直である(笑)。表面的なストーリーしか追えていないことの証左だが、やはり、中学生にすら難しい絵本なのだ。
猫を飼っているから余計にマイ猫と重ねて違和感をもつのは否めない。「ねこ」を猫として読んでいる間は、その域を出ない。しかたないのだ。
あまりにたくさんの人々が読んで、いろいろな評価を下されているので、大人になってから再読しようにも、情報が邪魔をして、純粋な気持ちでは向かえないかもしれない。名作といわれる書物の悲劇的な一面である。この絵本を読んでもはや「邪悪だ」なんて感想はもてないのである(笑)。
天邪鬼な私は、この本に初めて出会ったとき、絵は好きだけどストーリーはわかりにくいな、とウチの子そっくりの(笑)横柄な感想をもったものだ。そして、ええ歳になったいまでも、その評価はあまり変わらない。佐野洋子さんがこの本を通じて言いたかったこととはべつに、一冊の絵本としては、やはり、わかりにくく対象年齢を絞りきれない難儀な一冊に数えられるのではないかと思うのだ。
私は佐野洋子さんの『おじさんのかさ』は大好きである。何度も図書館から借りて、娘に読み聞かせたものだ。エゴイスティックなほどに。
でも、佐野洋子さんの絵本で私が知っているものは、じつはこの2作しかない。佐野さんはその生涯に多くの著作を残されたが、絵本はあまり多くはない。本書の絵は好きだと書いたが、といって佐野さんの絵のファンになるほどではなかった。世の多くの人がそうではないかと思う。幼児受けするものは描いていないし、売れたからといってその絵本の続編なんかつくろうとはしなかったようであるし。
寡作だからこそ、『100万回生きたねこ』が突出して支持されているともいえるのかもしれない。
絵本は、罪な存在である。
大人の感性でよしあしを決められてしまう。子どもは「よい」本しか与えてもらえない。なのに、人生の間には、時にそこからはみ出た本、つまり「よくない」本にも感動する。そのとき、そんなもんにカンドーしてしまう俺ってアタシって、と卑下せず素直に自分を感動させてくれたものを受け容れてほしいものだと思う。佐野さんはきっと、そういう意味で、児童書としてはよくないほうに分類されるかも、ぐらいの気持ちで本書を描いたのではないだろうか。そう思うとなんとなく得心するのだが、考え違いだろうか。
佐野さんはかつて、ある児童文学賞の審査員をされていた。その第一回目、ある作品が受賞したが、佐野さんはその作品には反対票を投じた。最後まで支持しなかった。彼女のその作品への批評を読んで、私はものすごく共感を覚えた。そうよそうよ、だからあたしもこの本嫌いなのよ! と。その作品も、一躍有名作家になったその人の他の作品も、私は相変わらず好かんのであるが、もしかしたら佐野さんは私などよりずっと柔軟なアタマと感性をおもちだろうから、評価を変えてらしたかもしれない。ま、それが、たったいちど、「佐野洋子」を偉大に思った出来事だったのである、私にとって。
佐野洋子さんはウチの母より二つも若いのに、亡くなった。佐野さんの人生をあまりよくは知らないが、百万回生きて、挙句天寿を全うした化け猫だったかも、またそんなふうに彼女を思うことも、許す境地で逝かれたであろうと思うのである。私もぜひ、化け猫並みに何万回も生きて面白おかしい人生をいっぱい経て、最期に至りたいもんだ。さて今のこの生は、何回目なのだろうか。どっちにしろ、今日はその節目のひとつであったりする。あーあ。

知る人ぞ知るあの本も、隠れた超プチ大作のあの箱も、ただ食って寝るだけのウチの猫も、昔の名前で出ています。2009/05/24 00:26:59

休校措置なんぞがとられてしまってすっかり生活ペースを乱されているあたしたち。

……なんてことは実は全然なく、私は休みも休みでないのでただ粛々と仕事に邁進(ここ数か月ずっとこの状態)、老母はぶつぶついいながら私が全然しない家事をカバーし(ここ数か月ずっとこの状態)、さなぎはさなぎで登校しないわ外出もできないわ、じゃあ勉強かお手伝いしかすることないだろってゆーだけ無駄!を絵に描いたような、一日中腹筋背筋の筋トレと老母の寝室の手すりでバーレッスンと食事とおやつと昼寝に明け暮れる(ここ数年たいていこの状態)。

手づくり絵本教室に通っていたときの先生が声をかけてくださって、グループ展に参加している。これまでに作った本を、他の熱心で優秀な生徒さんたちの素晴しい作品群に紛れ込ませてもらっている。私は展示のお手伝いも会場当番も何もできなくて、先生には不義理ばかりである。

グループ展のお知らせは先生のHPで。↓
http://www.geocities.jp/studio23roko/News.html

ギャラリーはここ。 ↓
http://www.k4.dion.ne.jp/~myogei/

私とは違ってお店番もしておられる生徒さんのブログ。 ↓
http://hohaba.exblog.jp/


作りたい本は次から次に浮かぶ。私の「作りたい本フォルダ」にはおびただしい数のテキストデータがあるが、ひとつとして自分のテキストはない(笑)。人の文章を読んで、あ、これいい、と思うとさっさとキープして、眺めたり朗読したりして、絵や装幀を思い浮かべる。
で、そこで止まる。
実際に手を動かす時間がないのである。テキストの山さん、ごめんなさい。いつかきっと、私が本にしてあげるからね。

その箱を開けてはいけません(2)2008/06/20 15:02:11


『ヨナタンとまほうの箱』
イングリッド・オストへーレン 文
アニエス・マチュウ 絵
いずみちほこ 訳
教育社(1993年)


ヨナタンはねずみである。人家の屋根裏や床下に住んで柱や梁をかじったり、台所の穀物袋に穴を開けて食べちゃったりする、あれである。

ヨナタンはJonathanである。ジョナサンと読みたいところだが、ヨナタンはドイツのねずみだからヨナタンなのである。ドイツではJapanはヤーパンである。
J音をジャ・ジュ・ジョでなくヤ・ユ・ヨで発音する言語はとても多い。例外なくジ音になるのは英語くらいのもんではないだろうか。

フランス語も基本的にはJ音はジ音だけど、Jで始まる他国の固有名詞に限って、ジ音で発音しないケースによく遭遇する。ドイツ語やオランダ語、北欧語ではJ音がヤ行音になり、ポルトガル語やスペイン語ではハ行音になる。そのことをわきまえて、というのか知ったかぶりをするのか、フランスのラジオの国際ニュースでは小泉純一郎をユニシロ・コイズミといい、京都を訪れた観光客はニホホ・シャトどこですかなどと聞く。それが二条城だとわかる日本人って、そうはいないよ君たち。お国の慣習にしたがってJ音はジ音で発音すればいいのに、と思うのだが、名前の発音は出自を尊重するべきであるという意識が根底にあるのだろうか? 留学してた頃の古い話で恐縮だが、クラスメートにはスウェーデン人のJoan、オランダ人のJustus、スペイン人のJorgesがいたけれど、どの教科の教師も彼らには必ず「あなたの名前はどう発音すればよいかしら?」とおうかがいを立て、彼らの申告にしたがって「ヨアン」「ユストゥース」「ホルヘ」と呼んでいた。(そのわりには私の名前の最初の音は必ず「チ」でなく「シ」と発音され、それが改まることはなかった。chはけっしてチ音にはならないのがフランス語なのだ)

というわけでヨナタンに戻る。
ヨナタンは大変カッコよく、頭もよく、勇敢なねずみだそうだ。
ある日、屋根裏を探険していたヨナタン。積まれていた本の下にあった箱をつついたりひっくり返したりしているうち、箱のふたが開いてしまう。すると箱から粉がまいあがり、ヨナタンにふりそそいだ。すると不思議なことに……。

箱のまほうのおかげで、いつもとは桁外れに面白いいたずらをやってのけちゃうヨナタン。豚さんが空を飛んだり牛さんがダンスしたり、ポニーがキャベツでお手玉したり、動物たちも、家の人もびっくり。しかも、ヨナタンの仕業とは誰も気づかない。

でも、楽しいいたずらの時間は唐突に終わってしまう。魔法の効き目がなくなったそのわけは……。

邦訳されているのはこれだけかもしれないけれど、オストヘーレンの「ヨナタン」シリーズはたくさん出ているそうだ。ストーリーに目新しさはないけれど、マチュウの(たぶん)水彩絵の具と色鉛筆の組み合わせによる温かな絵がとても効果的。水彩で着色した和紙をちぎって絵を創るいもとようこさんの作風にも少し似て、おとぎ話にはぴったりである。

儚い、いっときの夢を見せてくれる、魔法の粉。その箱を振ってみて。どんな音がする? 入っているのは魔法の粉かもしれません。

だからほら、そこのあなた。
その箱を開けてはいけません。なぜならその箱は……。

おみせやさんごっこ2008/06/13 18:31:25

410円の衝動買い。


福音館書店『こどものとも』
2008年7月1日号〈628号〉
「あいうえおみせ」 安野光雅


近所の、スタバに隣接する大型書店はぜんぜん好きくないのだが、近所ゆえについ立ち寄ってしまう。
私は本は買わないぞと固い誓いをたてているけれど、(娘の参考書など、無駄と知りつつ必要悪として買わねばならないときもあるので)本への出費は止まらない。純粋に自分の心の栄養剤として買うのが、きれいな絵本たちだ。これもよほど気に入った場合だけれど、よほど気に入ってもやはり買えないことのほうが多いけれど、買っちゃうことがある。たとえば410円の月刊絵本。

安野さんの絵。たくもう、なんだってこんなに癒し系なんだろうね。
豪快な油絵や大胆なコラージュ、クレイアートあるいは染め織りの技法も盛り込んだような、画家のパワーがぶんぶん伝わってくる絵も大好きだが、安野さんの水彩画のような、水と、パレットに少量ずつ出された幾色かの水彩絵の具と、丸筆数本と面相筆だけで小さな水彩紙につつつっと描いたような、肩の力のぬけきった絵も大好きだ。絶対真似できないとわかっているからなおさらだ。

『あいうえおみせ』は、見開きの上段には「あいうえお順」、下段には「いろは順」に、いろんなお店を並べて描いてある。
最初のページは上が「あめや、いしやきいもや、うんそうや……」、下は「いしゃ、ろくろや、はなや……」。
「えんとつや」にはサンタがいて、「ほうきや」には魔女がいる。「わさびづけや」や「つくだにや」なんて、日本にしかなさそうな店(あるかな?)もあれば、「ろぼっとや」という「あったらいいな」系の店もある。

この月刊誌には「絵本のたのしみ」という小冊子が付録についていて、作家のコメントなどが載っている。娘が保育園児だった頃、毎月保育園経由で配本される絵本の中にはあたりもハズレもあったけれど、私はこの付録を読むのがとても楽しみだった。思わぬ創作秘話が書かれていたり、読み手が受ける印象とはかけ離れたところで発想されていたりと、たいへん興味深いのである。

その付録の中で、安野さんは中野重治の『萩のもんかきや』という作品に触れている。「もんかきや」とは、紋付き羽織の紋章を筆で正絹の生地に描き染めをする仕事である。(私んちの四軒隣にそれの職人がいる)

この絵本にも「もんかきや」は出てくる。「おけや」「れんたんや」「きんぎょや」。たったひとつの種類の品を売り、あるいはたったひとつ腕につけた技で、一生まかなうことのできた時代の、シンプルな店が並ぶ。

私の町はまだそんな店が多く残っているほうであるようだ。
この本を眺めて郷愁にひたるほどではない。むしろ、「あれ、この店、○○さんちみたいだね」などと、実在の店を思い浮かべて話が弾む。
とはいえたしかに、昔はこんな店のほうが多かった。「ウチは○○しか売ってまへんねん」。そんな店ばかりになっても困るけど(笑)。

去年総合学習で柚子味噌の老舗を訪ねた娘は、その味噌の味にいたく感動し、母も祖母も巻き込んで柚子味噌の試作にのめりこんでいた(三日間だけど)。当然ながら老舗の味は再現できない。だけどそうまでしたくなるほどの美味しさ、あるいはものづくり、商売への情熱は子どもにだって伝わるのだ。

大きくなったら○○屋さんになる! 子どもの口からそんな言葉をもっとたくさん、もっとヴァリエーション豊かに聞きたいものである。