酔いしれたい2007/05/28 20:07:48

藤原書店『環』Vol.28(2007年冬号)
274ページ
〈対談〉『読書の楽しみ』ダニエル・ペナック×林望


フランスの人気作家ペナック氏の初来日に合わせて企画された対談。私は邦訳を1作か2作読んだだけなので、フランス人の友人の言うところの「たぶんフランス人は全員、ペナックが好き」というほどの人気の秘密はよくわからない。読んだものはどれも、とても面白かった。それはたしかだ。でも国民的人気作家になるには一つや二つ面白いだけでは無理だ。だからペナックさんには膨大な量の著作があり、それらはさまざまな年齢層を対象に書かれたものたちで、それらがことごとくその年齢層に支持されているのだろう。
日本で言ったら誰だろう? 村上春樹?(でも私は一つも読んだことないぞ)赤川次郎?(これも一つも読んだことないぞ)宮部みゆき?(またしても一つも読んでない!)
まったく思いつかないが、児童文学、推理小説、純文学(とは何かという問いはここでは置く)、エッセイなど、何もかも書いてすべて読者からウエルカム状態ってのは、やはりいないのではないだろうか、日本には。

文学を教える立場にもあったペナックさんは、ある日ある生徒が絶望的な表情でこう発言したことを忘れていない。
「先生、今年も本を読むのですか」
生徒からこんな質問をされて、《文学の教師としては自国の文学教育について考えることが緊急課題》と考えて《読書嫌いの生徒を文学と仲直りさせるために》一冊の本を書いた。それが現在『ペナック先生の愉快な読書法』という邦題で出ているそうだ。
なぜ、子どもが読書嫌いになるのか。小さい頃に母親から読み聞かされるお話は好きだったはずだ。そのお話を聞くことで、その本の世界に浸るとき、その行為には何の見返りも要求されなかった。無償だった。
なのにいつのまにか、読むことは《絶え間ない尋問の対象になってしまった》。
いい気分で本を読んでいるときに、横から、あるいは肩越しに、「書いてあることはわかったか?」「主人公のこの行為は何を象徴している?」「作者が言いたかったメッセージは?」などと詰め寄られて、楽しく読めるはずがない。本の中にある一行一行、一言一言が、まるで人を脅かす妖怪の森の樹木のように迫ってきて、もう本の中へは進めなくなってしまうのである。
そこでペナックさんがしたことは、《自分の声で》生徒が敬遠しそうな作品を《生徒に読んで聞かせようと考えました》。母親から読み聞かせてもらった頃と同じ感激に目覚め、本の世界に入り込み、先生の朗読で聞いた本を自ら読み直す生徒が続出したという。
『ペナック先生の愉快な読書法』には「読者の権利十か条」というのがあるらしい。
1.読まない権利
2.飛ばし読みする権利
3.最後まで読まない権利
4.読み返す権利
5.手当たり次第に何でも読む権利
6.ボヴァリスムの権利
7.どこで読んでもいい権利
8.あちこち拾い読みする権利
9.声に出して読む権利
10.黙っている権利

なかなか納得モノである。まるで自分のことを言われているかのような十か条。
読書は強要されるものではない。感想を述べなければいけないものでもない。表紙だけ見て「ああ素敵」でもよいのだ。あとがきだけ読んで「わかったつもり」でもよいのだ。どこか触れておけば、それがその人にとって良書なら、再会の機会が必ずある。うん。

林さんも同じような試みを授業で実践されているという。それは『平家物語』の朗読だそうだ。《大事なことは、『平家物語』というもの全体を読み通したときにどういう流れを持っているのか》を味わうことであって、文法や語釈が重要なのではない。《文学は広い意味での娯楽であり、慰安》なのだから、《哲学を教えようとか思想を喧伝しようとかいうことは文学にとっては副次的なこと》である。耳で聞き、書物全体を「味わう」ことから文学教育あるいは国語教育を仕切りなおさないといかん、なんてこともおっしゃっている。

林さんがそんなふうに古典の授業で文法を教えないでいたところ、保護者から文句が来たそうだ。ペナックさんは、授業で翻訳もの(つまりフランス文学ではなくてシェイクスピアなど他国文学の仏訳もの)ばかりを読み聞かせていたところ、やはり、保護者は許しがたいと苦情を言い立てたそうだ。どの国も、たぶんいちばんわからずやは親なんだな。

ところでペナックさんは、「書くこと」についても興味深い発言をしている。
《書くことは本質的に遅延された、熟考された、水面下のゆっくりした活動なのです。(中略)書くこと、それは私たちを自分の言語の流れの中に深く潜り入らせます。(中略)「なぜこの本を書くのか」と聞かれたら、私は「自分の言語の中に浸ることが必要だから」と答えるでしょう。(中略)確かに私は自分が言語に酔いたいという欲求に、常に翻弄されています。》(276~7ページ)

みんな、そうなのか。書く人たち。書きたい人たち。言語に酔ってるかい?

コメント

_ マロ ― 2007/05/28 22:59:49

僕にとって読書とは、こことはまた違う別の世界に連れて行ってくれること、ですかね、端的に言うと。頭の中で映画を見ているような感じ。

>私は自分が言語に酔いたいという欲求に、常に翻弄されています
僕は、言語に酔うというよりも、言語に翻弄されている。書くのって楽しいけど、苦しい。両方ある。

_ コマンタ ― 2007/05/29 00:16:30

飲み物のうちで、酔えるのはお酒とわかっていますが、同様のことが言語についていえるかな、と考えてみました。言語のうちで、お酒のようにはっきりと酩酊効果の保証されたジャンル? ……といえば、文学? でしょうか。国民作家なら、死者ですが、夏目先生でしょうかね。教科書に出ています。岩波文庫の人気投票でもたいてい一番になっています。代表作「心」。
しかし、読むのではなく、書く。書くことによって酔う! そんなすばらしいことが、できるのだ! ろうか? 自分の書いたものに酔う? なら、それは慎み深い日本のみなさんに、あまり好印象は与えないかも……と、しりごみしつつ、尻かくさず、ぼくは自分の書いたものに酔っています。酔って成長がとまり、成人なのに、脳は小学生(笑)。反省しなければなりません。小説だけでなく、ブログ記事にも影響されやすい、コマンタ、でした。予想に反してしらふです。

_ トゥーサ・ヴァッキーノ ― 2007/05/29 07:02:14

文章塾をやってみて思うのは、
…書くことを悩まなくなってきたってことですね。
大風呂敷広げて、中身の小ささをさらけだしても、いいのかなあと思いはじめたんです。
どんなのでも、好きに書けばいいみたいな。
まぁ、まともじゃないですね。
酔っ払ってんのかもしれません。
…うい

_ おさか ― 2007/05/29 09:19:29

書くことに酔う!いいなあっ♪正体なくなるまで酔ってみたい、というかそういうの書いてみたいっ
でもね、私も白状します。うまく書けた!と思ったとき、自分の文章何回も読んで悦に入ってること、ありまーす。それで間違いに気づいて直すこともあるけど(笑)結局、自分の一番読みたいものを書くってことなんでしょうかね?

_ midi ― 2007/05/29 10:42:10

マロさん
そうね。読書は非日常世界の擬似体験。
ランナーズ・ハイって言葉があるけど、ライターズ・ハイを味わったとき、苦しみそのものが快感になるかもしれません。

コマンタさん
国民的人気作家はやはり漱石、ですか。てことは誰も漱石を超えていないんだね、現代作家陣。
自分の紡ぎだした言葉や文節に酔えなくて、なんで人前にさらすことができましょうか。私も、たとえば文章塾でコメントつけて酔ってます。あたしって、イケズ。ういっ。てな感じで。

ヴァッキーさん
まともじゃないことないよ。
でもある意味、まともじゃ書き続けられないかもしれません。
まともじゃない状態で酔いしれて書き、時々ふと我に返る。
作家たちはそんな浮いたり沈んだり、を実践しているのでしょうか。

おさかさん
自分の書くものは、読んで感動したものについ似てしまう。私にはそういう傾向があるんですが、おさかさんはどうですか。読みたいもの、読んでよかったもの、そういうものに自分も引っ張られてしまう。だからオリジナリティの確立は難しいと、長年ぐだぐだゆってます。

_ おさか ― 2007/05/29 12:36:08

うーん、オリジナリティってなんでしょうね。永遠の命題ですね。
私も感動した本、好きな作家、それが書くものに影響することは多々あります。もしかして私自身の言葉は全然なくて、いろんな人、いろんな本の複合体みたいなものを組みたてているだけなのではないか、と思うこともあります。ある意味そうなんでしょうね。ではオリジナリティとはいったいどこから出てくるのだろうか?
私の経歴や今の生活のしかたは、多分よくありがち(←これがポイントかな)ではあるけれど、まったく同じ人というのはいないであろう。顔が似ている人はいるかもしれないけど、だからといって性格も育ち方もまったく同じ、というのはありえない。同じ本を読んで同じような部分に感激しても、それが書くものに同じ影響を与えるか?
案外人間って一人一人違うもの。ためしにわざと誰かの真似をやってみるというのはどうでしょう。完璧にまねるのはかなり難しいと思う。
とりあえず気にせずどんどん書くしかないのでは。書いてるうちにおのずと「自分」になってくるんだろうと思いまする。

_ mukamuka72002 ― 2007/05/29 17:26:49

 長いもの(長芋の、ではありません)を書く場合、ライターズ・ハイはぐうたらな自分には絶対必要です、書かなければ、の意識では書けません、ただひたすら言葉が心から出てくる、酔うという状態にならないと。で、表れたものを酔っていない自分に書き直させる、その作業の繰り返しです。自分の場合、ライターズ・ハイは現実にも酒を飲んで酔うという状態でなっています。素面での集中時間はせいぜい30分、酔った場合は1時間半、これ以上続けたこともありますが、身体に悪いのでやめました。当然、酔っているのだから、乱れています。だから大半は使い物になりませんが、その中にいくつか拾う価値のあるものがあるかな? というものが少しあります。効率と身体には悪いのですが。
 酔った場合の効用は、素の時に自らかける制約から解放されることでしょうか。人は誰しも、自主規制をかけています。こんなこと云ったら恥ずかしい、とか。人格を疑われる、など。何を書いてもいいのに、それが公序良俗に反しようとかまわないのに。
 当面の目標は、酒の力を借りずに酔い、自主規制を撤廃することです。

_ 儚い預言者 ― 2007/05/29 19:22:36

 言葉とは、世界の成り立ちである。という事があると思います。大上段に言ってすみません。でも思考、感情、意志、情緒、判断、選択、善、悪など人間が世界を知らしむるには、欠かせないアイテム以上のものでしょう。
 人間にはいつも冒険がある、世界との折衝と交流がある。知りたいというのは、誰にもあることでないでしょうか。
 文字とはいつも具象と抽象の仲立ちであり、世界を言葉という宇宙で際立たせる不可思議なリアリティーの案内役ではないでしょうか。
 どうしても、と言うとき、それは世界でただひとりのあなたを指し示すことと同じです。
 私の脳は宇宙に漂っていきます。予想通りシラフではありません。
 なぜか今日は早くも酔っています。

_ midi ― 2007/05/29 20:19:08

おさかさん
そうですね、書くしかなさそう。私は例えば某国の庶民虐殺の真相とかをルポしたノンフィクションなどを読むと、文体が政治的社会的新聞報道的になり、○○の飼育のしかた、なんぞを読むと教科書チック児童書チックになったりします。単なる単細胞?

mukaさん
お、真面目なコメントくださいましたね。mukaさんは酔っていても素面でも、極上ですよ。極上が時たま、虫食ってることありますけどね。

預言者さま
言葉とは不思議です。頼まれて今、恋文を訳しています。言葉を生かすも殺すもまた言葉次第。人間とは罪な生物です。

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