アンリ・ベール、ジュ・テーム!2007/05/31 20:01:48

『スタンダール変幻――作品と時代を読む――』
日本スタンダール協会編
慶應義塾大学出版会(2002年)


スタンダールといえば『パルムの僧院』『赤と黒』しか読んでいない。
「しか読んでいない」なんて卑下したものではないとは思うのだが、本書のような研究書に出会うと、やはり「しか読んでいない」し、「読んだといっていいものかどうかも疑わしい」といわざるを得なくなる。
簡潔に本書の感想を述べるとしたら……。

作家研究とはここまで作家自身をみじん切りにしないといけないのか!
作家の人生を最小単位まで因数分解することなのか!
すごい、びっくりだ!

ということになる。それで終わってもいいけどそれでは自分がつまらないので、もうちょっと書く。

なぜ『パルムの僧院』『赤と黒』を読んだかというと、あのジェラール・フィリップさま主演映画の原作だったからである。もう遠い記憶なのでどっちが先だったか、実はわからない。たまたまスタンダールくらい読んどかないと、と思って文庫本買ってから深夜映画でジェラールさまに出会ったのかもしれない。ジェラールさまの麗しきお姿を最初に見たのは『危険な関係』という映画(これを観ろと私に言ったのはアート・ブレイキーに心酔していた当時の連れだった)で、これでジェラールさまに完全にノックアウトされた私は、以後『モンパルナスの灯』とか『愛人ジュリエット』とか『悪魔の美しさ』とか、ジェラールさまの映画が放映されたら必ず録画し、名画座にかかったら最優先で観にいった。『パルムの僧院』も『赤と黒』もそれら一連の作品のひとつとしてそれぞれ脳裏に残っていて、思い出せるのはジェラールさまの雄姿ばかりで、文学作品としては、たとえば「ジュリアン・ソレル」はどっちの主人公だったかしらと自問しても思い出せない程度の、読み方でしかなかったのである。

荷風の『蛇つかい』のところでも書いたけれど、
http://midi.asablo.jp/blog/2007/05/18/1514108
本書の存在を知り、読破しようと試みたものの、けっきょく全部の論文を読むことはできなかった。それはひとえに私があまりにもスタンダールを知らなさ過ぎるからであり、またスタンダールと同時代人についても、当時のフランスについても知識が乏しいから、みじん切りにされたスタンダールを差し出されてもどう料理して味わえばよいやら、わからないだけなのである。そんななかで、「明治・大正・昭和のスタンダール像/栗須公正著」(p.3-36)で荷風がスタンダールの言葉を『蛇つかい』の題辞として引用していたことを知ったのは大きな喜びであった。

興味深く読めたのは、「スタンダールとマリー・アントワネット/下川茂著」(p.139-160)という論考である。スタンダールが10歳のとき、アントワネットの処刑が行われたそうである。スタンダールは7歳のときに熱烈に慕っていた母親を亡くしているが、《すでに多くの論者が、スタンダール小説の大きなテーマの一つとして母子相姦の問題を取り上げている》(139ページ)という。母を亡くした3年後にアントワネットの処刑という事件に遭遇するわけだが、アントワネットの罪状の中には王太子との近親相姦もあったといい、裁判でも公にされていたのでフランス中がその「罪」を知っていたそうだ。本論で著者は、幼少時にフランス革命を体験し、ルイ16世の処刑については詳述しているスタンダールが、王妃の裁判と処刑について何一つ書き残していないことがかえって、王妃と王太子の関係に対する高い関心を窺わせると述べている。そしてその作中の女性像にアントワネットの姿を投影している、という。『赤と黒』のマチルドとレナール夫人、『パルムの僧院』のジーナとクレリア。
おおお、するとジュリアンやファブリスが王太子ルイ=シャルル! と思うと、『赤と黒』『パルムの僧院』を『ベルサイユのばら』の後半と並行して読まなくては! と違うところに力が入ったりする。
《アントワネットの事件を、少年スタンダールは未遂に終わった彼自身の母子相姦願望を現実に実行した者の悲劇として受けとめた。》(154ページ)
そうなのか、アンリ・べール? 返事をしてくれ、アンリ・べール!

もう一つ、大変わかりやすい論考が「スタンダールの思想的意義/粕谷祐己著」(p.415-434)であった。著者はたとえばスタンダールの『恋愛論』について《「(……)しかしそのあなたの恋愛談義になぜわたしがつきあう義理があるのか」と読者が難ずれば、反論するのは簡単なことではない。(……)スタンダールの著作はもっと作者を度外視しても意義があるのではないか。(……)だから「恋愛論」は本当に、スタンダールの言う真の意味での恋愛体験の持ち主ならば、今でも相当真面目に理解しうる理論的内容の豊かな本ではなかったか。》(416~7ページ)と書いている。その「真の意味での恋愛体験」って、どんな恋愛体験だったら「真」なんだろう、とかつい思っちゃうけれども、要は、スタンダールはあんな体験をもとにこんな恋愛談義を書いてこれこれこういうことを言いたかったのであるのだうむむむ、と読むのではなくて、「うん、あるある、こういう感じ、あいつに似てるじゃん」と思いながら読めばいいのであると私は理解した(違うかな?)。
また、スタンダールによる「結晶作用」についての定義を紹介している(427ぺージ~)が、「結晶作用」とは難しい言葉だけれど、早い話が、恋とは「あばたもえくぼ」、恋が成就しないときは「えくぼもあばた」、そういう心のありさまを結晶作用現象というのだと理解した(違うかな?)。
なーんだ、アンリ・べールったら、そんなこと知ってるわよ、あ・た・し。

文学作品を味わうというのは骨の折れる仕事だ。しかし作家をミリ単位に因数分解したりすることでより深く味わえるというのも事実なんだろう。私はどの作家ともそのように向き合ったことはない。これからも向き合えそうにない。しかし、このように真摯に作家と作品に向かう人たちの膨大な仕事のおかげで、ちょっぴりわかった気持ちにさせてもらえて、また読んでみようという読書欲を抱かせてもらえるのは幸せだと思う。
君は知っているのか、アンリ・べール! 海の向こうで君がこんなにも愛されみじん切りにされていることを、どうなんだ、アンリ・べール!

【さて、6月は児童書月間にする予定。汽車ぽっぽテンプレでまた来週~】

コメント

_ おさか ― 2007/05/31 21:11:26

ちょ、ちょーこさんてば、
よくもまあこんなに毎日毎日密度の濃いい話をすらすらすらりんと。
あれ?これどっかでも書いたような。そうだヴァッキーさんだ。よくもまあ次から次へといろいろ出てくるもんだ、と。
こんなに読み応えがある文章をただで読んでていいんでしょうか。和紙お送りしましょうか、まじで。

べるばらでは、(近親相姦について聞かれた)アントワネット怒ってましたよ、裁判で「いやしくもフランス女王であり、母であるわたくしの誇りが、こういう下劣な質問に対する答えを拒否するのでございます。これは母親全体に対する侮辱でもあります。わたくしはここにおられるすべての母親に訴えます」とかいって、周囲の賛同を得る場面。ああああ。「赤と黒」とか「パルムの僧院」ってそうだったのか。読んだ覚えはありますが内容はすっかり忘れました。また読みかえさなければならない本が増えましたー。

_ midi ― 2007/06/01 11:54:02

おさかさんこそ毎日ブログサーフィン、すごいじゃないですか。あっちでもこっちでもきちんと私見を述べてるの、すごいよ。

私もベルばらのそこのとこ、読んだ記憶残ってます。傍聴席のおばちゃんたちがそーだそーだ、とか叫んでましたっけね。マンガのキャラとしてはアントワネットってすごく好きだったなー史実はどうあれ。
『赤と黒』とか、映画は観てませんか? ジェラールさま、おさっちだって惚れるわよ、きっと♪

_ トゥーサ・ヴァッキーノ ― 2007/06/01 14:15:25

お母さんとエッチする気持ちが判りませんが、そういう性欲って、身分とか、頭の良し悪しなんて関係ないんですよね。
正常位じゃない愛し方に文学って敏感に反応しちゃうのなんででしょう。
近親相姦なんて滅多にあるもんじゃないし、でも文学の人はそうやって、刺激を書かないと売れないから、どんどん刺激的になるんでしょうね。
ボクもママレモンみたいなのじゃなくて、もっとハイターみたいなの書かなくちゃ!

_ midi ― 2007/06/01 15:29:41

スタンダールは「母子相姦未遂」だったんで、登場人物に思慕する母の像や時の人だった王妃を投影したかもしれないけど、母子相姦そのものを書いたわけではないんですよ。
息子が持つ母への愛情のあり方って、私たち女性にはやはり永遠に謎。それは娘が持つ父への愛情と同質では決してないと思います。ヴァッキーさんは、お母さんのこと、どのくらい好きですか?

_ 儚い預言者 ― 2007/06/01 23:42:24

 結晶作用、ってどっかで聞いた事があるような。それがスタンダールとは思わなかったけれど、それ以来、たぶん相当この用語は、著名人に流用されていると思います。
 化学には疎いので、魔術から理解します。(嘘です)
 いつもの私独特の意味では、たぶんきらめきであると。ときめきからきらめきの様子ではないでしょうか。何を見ても恋をすると世界がきらめきを放っている。それは一種独特の悟りの風景とでもいいましょうか。いのちも物もその本質である「ひかり」をそのまま受け取る知覚作用とでもいうのでしょうか。なんの価値付けもせず、なんの条件も付けず、そのままの世界の秘密を直感する感覚とでもいうのでしょうか。心が心を夢見て、世界の芳醇な果実の恩恵に恵まれていること。世界と心がひとつで、あなたとわたしがひとつであること。関係性の顕な無限の結びつきが、結晶作用として現れているのでしょう。要は結びの美とその現れの奇跡をいうのではないでしょうか。

_ ヴァッキーノ ― 2007/06/02 07:03:21

ボクは、両親にあまりいい思い出がないので、母親を何か特別な存在として捉えることができません。
それは父親に対しても同じなんです。
だからボクは早く結婚して、早く子供を作って、早く住居を手に入れて、世間からあれやこれやくだらないことを言われない状況を作っておいて、こっちからは一切頼ったりしないから、あんたら両親もボクを頼るなよ、みたいにして逃げているんです。
結局ボクは、母親とかには何も感じない不毛な人間なんです。

_ おさか ― 2007/06/02 10:18:43

蝶子さま
私は、私見しか述べられませんのよー。論理的かつ客観的な意見というのがどうにも書けず。だからここに来て、「ああー素敵ー」とうっとりするのが愉しみなんですー。文章塾の皆さんのブログは全てお気に入り登録してるので、短時間でもさくさく回れます♪いつも数分単位なんすよ、私。

ヴァッキーさんにヨコヨコ、
あなたのそういう思いは書くことに投入したらいいと思うよ。本当に何も感じないかどうか、書いて試してみたら。

_ コマンタ ― 2007/06/02 10:34:44

先日も衛星放送で映画をやっていましたね、ジェラール・フィリップさんの。なんというタイトルでしたか? 「夜ごとの夢」? 「夜ごとの蝶」? とにかく「夜ごとの」ナントカでした。スタンダールは読んだことないです。
学生の頃NHKで「若い広場」というのをやっていて、そこの「マイブック」のコーナーで、田村隆一が「パルムの僧院」を薦めていたんです。司会の斉藤とも子(当時高校生)相手に。そのころから読みたいと思っていました。何年経ったかいますぐには計算できませんが、その気持ちはいまもあります。若いころ、あれも読もうこれも読もうと好奇心や虚栄心がわくままに読書リストが作られます。そうしたリストを60歳のころまでには全て読んだと鶴見俊輔がどこかで言っていました。ぼくにはムリだけど、勇気の出る話です。
「真の意味での恋愛体験」はたぶん情熱恋愛というものじゃないでしょうか。色事と対で「恋愛論」で使われていました。情熱恋愛と色事との違いは、喜びと快感の違いに近いですかね。心の迷いは理屈で払うのがぼくの人生の習慣でしたので、「恋愛論」だけちょっと読んだことがあるのです。

_ ヴァッキーノ ― 2007/06/02 15:14:31

タテタテですいません。
おさかさん
ショートショートで書いてみます。母親ってもん。無理かな。

_ midi ― 2007/06/03 13:27:48

預言者さま
ときめきからきらめきって、素敵ですね。
早い話が、結晶作用って「思い込み」かも知れないと思ったりもする。

ヴァッキーさん
不毛じゃないよ、それ。ふつう。
親と子なんてあまりに自然な関係だから特別な感情なんて持たなくて、普通。
ヴァッキーさんは逃げてるんじゃなくてさ、それ「独立してる」っていうよ、世間では。

幼少時に大好きな人を失うという経験は、その人ののちの人生を大きく左右することもあるってことですね。
スタンダールの場合は、亡き母への愛情が肥大化したけど暴走せずに、文学に結実したということなのでしょうね。

おさかさん
ゴマのすりあいをする気はないんですけど(笑)数分間で、どんな類いのエントリーにもぱちっとコメントつけられるというのはやっぱしすごいと思います。私なんか、パスしまくり(^^;)

コマンタさん
『夜ごとの美女』ですか、やってたんですねテレビで。私はこれも、昔放映されたのを録画して持っています。でも長いこと、観ていないけど。この映画のジェラールさまはイマイチだったかもしれません、自分の中では、ですが。
心の迷いを理屈で払う。←これは言いえて妙、と思いました。コマンタさんだけでなく、誰もがこの行為を習慣としているのではないですか。無意識のうちに。ならば誰もに『恋愛論』はクスリになる可能性があるのですね。

_ 儚い預言者 ― 2007/06/04 15:29:47

 蝶子さんの仰る「思い込み」に思索を重ねて幾千年。ついにここに宇宙の唯一の恋が実る場に結晶作用を思い込みました。
 私は結論を先に言うタイプなので、子犬クラブ会員として恥ずかしくない栄光を勝ち得ることと自負いたしております。
 そうです、「思い込み」とは「解き放ち」のことではないかと。収縮と放散が宇宙の仕組みであるとすると、その宇宙の開闢はビックバンといいますけれど、そのことではないかと。
 夢と現実が本当は逆転していると、よく禅ではいいますけれど、そうであるとすると、「思い込み」はなんと解き放つことの言い換えではないかと。逆転の発想、或いは上昇の思考であるところの、小が大を含み、大が小を真似る。そんなことを考えた次第です。
 まだまだ思惟の変遷があるようなので、今日はここまで、えっへん。ちゅーーーーーぽっぽ、ぽっぽ、汽車は走るよ、山越えて~♪

_ midi ― 2007/06/04 17:45:34

およよ、千年も考察してくださり感激です。
しかも「思い込み」は「解き放ち」!
これは一本取られました!
力の方向としては対照的に見えて実は心のベクトルとしては同じ方向に向かっているとな。
唸りました。うーむむむしゅっしゅっしゅーぽっぽー

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