宙づりされた日常世界2007/09/07 09:53:34

『彼女は長い間猫に話しかけた』
川崎徹著
マドラ出版(2005年)


 この本に関する書評を新聞紙上で読んだのは父を亡くしてからほんの2、3か月、あるいは四十九日の法要を済ませてからその程度経過した頃だったか、なんにせよまだどうにも頭の中で整理がつかず、父の表情をはじめ臨終の際のいろいろな事どもの記憶がまだ鮮明なときだった。そのせいかまるで飛びつくように本書を買った。自分のために書かれたとでもいうように。あなたの本ですよ、と呼ばれて吸い寄せられるかのように。
 表紙はシンプルで、今風の嫌味のないイラストがほどこされ、カバーは点線で描かれたいくつもの線画のうち、猫の絵だけが切り取れるようにしてあった。だからって切り取りはしないけれども、切り取る人もいるかもしれない、と思わせた。切り取ったら猫は黒猫になる(書籍本体の表紙が黒いから)。

 本の帯の一方の面には書評でも触れてあった高橋源一郎による絶賛のメッセージが添えられ、もう一方には本書に納められている四つの短編のレジュメがおのおの一行でまとめられていた。

「彼女は長い間猫に話しかけた」父の臨終に立ち会う男の脳裏に、幼い日々の情景がふと蘇る。
「言い忘れたこと」男はただその終わりを見届けたいため、平原にどこまでも続く白線を辿る。
「水を汲みに行く」古いバケツを巡って毎日公園で繰り広げられる青年と老人の水面下の攻防。
「水族館」水槽の砂底に覗くふたつの目が自分を嘲笑しているという考えに囚われた中年の男。

 これら4行の上にゴシックのボールドで1行。

CM界の奇才が、宙づりされた日常世界に読み手を誘い込む書き下ろし短編小説集。

 川崎徹は私たちの世代にとっては、そして私たちのようにかつてデザインやヴィジュアルクリエイティヴィティを学ぼうとしていた若者たちにとっては、カリスマ的存在のCMディレクターである。フジカラーの「それなりに写ります」(樹木稀林の、あれ)などが代表作だ。ほかには、たぶん「やりがい」(転職求人雑誌関係、背中に貝を載せたやつ)とか、「のみすぎー!はたらきすぎー!」(胃腸薬かなんかのCMで飲んでる高田純次の前に杉の木が飛び出るやつ)などもそうじゃなかったかなと思うが、確認していない(間違ってたらごめんなさい)。目を引き笑わせるCMはたいてい川崎徹だった。川崎徹もどきのCMと、真正川崎徹のCMを比較して、「もどき」には何が足りないか、など論じることも、大学時代は常だった。著者名に懐かしさがこみあげてきたことも、ダッシュで購入した理由のひとつだ。

 ふだんは新刊書の帯になど注目しないのだが、本書の帯のキャッチコピーは上手に小さくまとめられていて、言い過ぎず、言い足りて、押しつけがましくない。こうしたコピーに接すると、私はまだまだ日本語の素人だ修業が足りん、と自戒する。
「宙づりされた日常世界」
私ならつい、宙づり「に」された、としてしまうところだ。

 「宙づりされた日常世界」とは、その人のふだんの生活に密接にかかわっていながら行き場を失くしてとりあえず棚上げされ見ないように蓋をされてしまった時間や空間、現象のことだ。とるに足らないモノやコトは、何かをきっかけに大きな意味をもって立ち上がり、その人の思考のゆく手を阻む。それが辛くてあるいは煩わしくて、人は蓋をする。棚に上げる。宙に吊るしておく。

 例えばしょっちゅう言われるこんなこと。
「使わない鉛筆は片づけなさい」
 わかってる。片づけるよ。
「使わない鉛筆は片づけなさい」
 あとで使うかもしれないじゃん。
「使わない鉛筆は片づけなさい」
 あ、片づけるつもりだったのに……。
「使わない鉛筆は片づけなさい」
 はいはいはいはい。
 と、ここまで来なくてもすでに当人は「片づいていない鉛筆」の映像を見ないようにしている。注意を促す親の声は聞こえているが、聴かないようにしている。蓋をしている。片づけるという行為を宙につるしたまま、処置を先送りしている。

 私にとって父のことはまさに「宙吊りされた日常」だった。父はなだらかになだらかに変調していた。わかっていたのに、病院へ連れていくのは今度にしよう、の台詞の繰り返しに甘んじた。

 この短編集に収められた作品のそれぞれの主題は、いずれもそうした見過ごしがちな日常の断片である。えーと、正確には、断片のようである。というのも実は表題作『彼女は長い間猫に話しかけた』以外は読んでいないので知らないのだ。
 本作の語り手「わたし」(たぶん著者自身)は、容態が悪化し「一両日」と宣告された父の病室に佇み、父とその周囲に集まる人々(医師や看護師)を見ている。見ながら、ここに至る経過や父との会話、先に亡くなった母のこと、少年時の記憶を脳裏に交差させている。「猫」は少年の頃、近所にいた怖い婆さんが構っていたのら猫のことだ。「わたし」がなぜその猫と婆さんのことを思い出すのか、その理由に「わたし」は触れない。読者はこれを、少年の初めての、死との接触体験であったのだろうと推測する。
 記憶と現実の交差は頻繁だ。肉親がいよいよ臨終というときの、心模様や落ち着かない気持ちの表現であるというよりも、行を追う読者の目にいろいろなヴィジュアルを提供することが小説の役目だと自身に言い聞かせながら書いたもののように見える。そういう意味で、『彼女は長い間猫に話しかけた』はじめこれらの短編は、表現者・川崎徹がその技術を駆使して仕上げたものである。

 いかにも映像のクリエイターらしい表現がところどころに散見する。
《しぼんだ望みは黒い染みになり、一本の線になり、やがて点になって消えた。》(10ページ)
《父の名は廊下の突きあたりを直角に折れ、斜めの矢印となって階段を下った。》(53ページ)
 「わたし」は父の臨終という非日常的な時空間に佇んでいるが、そこにいくつもの「わたし」にとっての「宙吊りされた日常」を確認する。たとえば当直医の白衣の袖から覗く「ドラえもんの腕時計」のようなものどもである。看護師が呼ぶ父の名前のようなことどもである。それらは他でもない自分の父のいまわの際に関わる物事でさえなければ、医者のくせにドラえもんの時計かよ、とか、機械的に患者の名前呼びやがって、とか、フン気に入らないな、くらいでやり過ごしてそのままにしておく類のものである。だが「わたし」は当事者という立場に立たされて、そうしたさまざまなどうでもよいはずのものに神経質になり心を囚われたりしていることに気づかされ、半ば愕然としている。

 と、このように、「わたし」のためらいや迷い、静かな怒りや自嘲が現れては後退する本作は、面白い一編として読むに値するのだろうと思われる。そして本書は、高橋源一郎がいうように「ここ十年の間に書かれた現代文学の中で最高の一つ」なのであろう。

 しかし、私という読者の場合には、川崎徹の技術に基づく表現方法の新鮮さなどは、どうでもよい。私はそのためにこれを読んだのではない。書評の内容は忘れたが、それを読み、この本は私が自分の中で言葉にできていないものを言葉にしてくれているのだ、と確信したから速攻で買いに走ったのである。私が反芻したのは、文章表現としてはありきたりな次のような箇所であった。逆にいえば、こうしたあまりに(私にとって)リアルな箇所のせいで、本書全編を純粋に楽しめないでいる。

《患者本人より先に、死を承諾してしまったうしろめたさが残った。》(11ページ)
《この場所でこの人は死ぬのだと思った。(中略)そのことを本人は知らない。白い壁に囲まれた四角いこの空間に辿りつくために延々歩いてきた》(66ページ)
《持っている力すべてを動員して、死なないようにしていた。(中略)吐く息、吸う息がはっきり聞こえた。その他にも、普段は目立たない生の現象が、顕著に表面に現れていたから、元気だった頃より、生きている感じが強くした。自分が死んでない証拠を、父は懸命に見せていた。》(67ページ)