「John! Look at your friend!」2007/10/04 19:27:06

『Voices』Daryl Hall & John Oates
ジャケットデザインはイマイチだけど、中身はとってもイイ。


1982年(または83年。忘れた)、冬。
私たちはホール&オーツのコンサート会場にいた。私たちというのは大学の女友達5、6人(人数は不正確)。公演の数か月前、ともに徹夜で並んで前から4列目の座席チケットをゲットした仲間である。メジャーな外タレが来日したら誰であろうととにかく観に行く、というのが信条のノリのよい面々に加えて、高校時代に同じデッサン教室に通った静花(仮名)がいた。この日のライヴに行こうと計画したのは、静花と私であった。

高校1年の終わりごろから、私はデッサン教室に通い始めた。美術系の短大か大学に行きたいと決めたからである。
できるだけよけいな勉強をしたくなかったので、美術系の進路をとるにはどうすればよいかを検討すると、国公立の芸大受験の場合も難解な理数系科目必要単位は最少で済み、苦手な社会科系科目もどれかひとつに的を絞って暗記しまくれば、何とか学科試験はクリアできそうだということが判明した。
あとは実技試験で問われるデッサン力である。
絵がいくら好きでもそういった技術はまったく持っていなかったので、私は、芸大美大への進学率も高く、講師陣も現役の美術家や芸大生であるというデッサン教室へ通うことにしたのだった。

高1対象のクラスは生徒が少なかった。高1から美術系に進路を絞る子は珍しい、と申し込みの際に言われた。みんな、3年生になってから、他に行けそうなとこがないから学力があまり問われない美術系にでも行くか、てな気持ちで駆け込んでくる、という。
同じクラスの仲間は、みな物静かで地味で、すごく絵がうまかった、すでに。
このクラスに静花がいた。この教室の評判を聞いて、隣県から通ってきていたのである。

週に2回ほどの教室は、とても静謐な時間だった。私たちは静物を囲み、黙ってイーゼルと向き合った。進路がどうとかいうよりも、みな絵を描くのが好きだったのである。ムダ口を叩かず一心に絵を描いた。間に挟まれる少しの休憩時間に、私たちは他愛ない雑談をした。とりわけ盛り上がったのが、ミュージシャンの話だった。当時、ベストヒットユーエスエーなんつう番組が深夜にあり、そこで得た情報をネタにお喋りに花が咲いた。ある日、静花はわざわざレコードを持参し、これすごくいいよと貸してくれたのだが、それがホール&オーツの『X-Static』。水飛沫を浴びたラジオの写真が美しいジャケット。ここに収録されていた『Wait for me』という曲がすごくよかった。
音楽番組でホール&オーツを見て、興味をもった私に静花が貸してくれたのか、静花が貸してくれたのでホール&オーツを気に入ったのか、その時系列的な順番がわからないけど、私はデヴィッド・ボウイとの遭遇以来「金髪で青い目」至上主義をとりつつあったので、当然ダリル・ホールを気に入った。
でも、静花は「ジョンが素敵なんだよ」という。
MTVに映るジョン・オーツは、メインヴォーカルのダリル・ホールの後ろでギターをかき鳴らしながら画面に出たり入ったりするヒゲの兄ちゃん、という印象だった。彼がいるからダリル・ホールの美形がたしかに際立って見える。
そういうジョンのキャラクターは、その存在がいつも控えめだった静花と似ている。私はそう思った。

ホール&オーツはほどなくして全米のベストテンにランキング入りする『Private Eyes』や『H2O』を発表し、その名を知らぬ者のないメジャーバンドにのし上がった。

私はレンタルレコード屋で彼らの少し古いアルバム『Abandoned Luncheonette』などなどを借りあさってカセットテープに録音した。ビジュアルに訴えなかった時代のダリルの歌声に、心底しびれた。ジョンの好きな静花と、古い曲の数々についてよく話し込んだものだった。
そろって国公立芸大を落ちた私たち二人は、滑り止めにキープしておいた私立S美大に進学し、そこで出会った仲間とともに、大ヒット曲『プライベート・アイズ』を引っさげて来日したホール&オーツのコンサートへ出かけたのである。
ダリルーという黄色い声援が飛び交う会場で、私の隣にいた静花の視線はずっとジョンを追っていた。演奏の合間にジョンがこっそりと見せる愛嬌ある仕草を見逃さず、ひとりでふふ、と微笑んでいた。

ところが次の瞬間、私は見た。そして叫んでしまった。
「全開してるっ!」
横にいたアイコ(仮名)が私を睨む。「うるさいよ、チョーコ!」
ダリル・ホールが情感たっぷりにバラードを歌っている最中だった。
「でもさ、でもさ、あれ、ねえ開いてるんだよ」
「なにがっ」
「あ、だ、ダリルのチャック」
「ええっ」
横一列に並んだ私たちが「開いてるよ開いてるよ」とざわめき、その前列のオンナどもも「ええっほんと?」「開いてるよ」と騒ぎ、さらにその前列、最前列へと伝播する。
ステージの中央に膝をつき、スポットを浴びる自分に陶酔したかのように歌い上げるダリル。彼の身体の中央で、黒いレザーパンツのフロントファスナーがぽっかり。ああ、今でもありありと浮かぶマヌケな光景(ごめん、ダリル!)。
曲がアップテンポに変わる。とたんに観客がメッセージを叫び始めた。
「ダリルー開いてるよー」(そんなこといったって)
「社会の窓が開いてるよー」(あの……わかる人、いる?)
「オープン・ザ・チャック・オブ・ユア・パンツ!」(通じるかよっ)
前列の観客が口々にダリルーダリルーと叫ぶのだが、ノリまくっているダリル・ホールは意に介さず、当然ながらファスナー全開に気づかず、まさにエネルギー全開状態。

「John! Look at your friend!」
いきなり静花が大きな声で叫んだ。
その声は歓声にかき消された、と思う。
でもそのあと、ギターを弾きながら、ジョン・オーツは相棒に歩み寄り、たしかに何か耳打ちした。
「静花、聞こえたかもよ、ジョンに」
「まさか」

たぶん、前列のオンナどもの異様な形相に異変を感じてくれたのだろう。
なんにしろ、一曲終わってダリルはすっと舞台袖に入り、身だしなみを整えて再登場したのだった。そして何事もなかったように、ヒットナンバーを歌い続けた。

帰路につく私たちの話題は当然のように「全開」に終始し、そして「でもダリルかっこよかったねえ」を繰り返した。うなずきながら微笑むだけの静花に、「ジョンもかっこよかったじゃん、ね」といってみた。それでも彼女は微笑むだけだったが、私は本当のことを言ったつもりだった。
コンサートの日から数日経って、二人だけで話す機会を持てた静花と私は、思いがけず聴くことのできた「ホール&オーツ70年代の名曲の数々」をひとつずつ思い出し、あらためてライヴの余韻に浸ったのである。
本当に、彼らは素敵だった。