三日月浮かぶ空のしたで2007/10/19 15:55:12

昨晩は、通称「コマンタ杯」、のオフ会だった。
例によって私はふてぶてしく遅れて到着し、見せびらかすだけ見せびらかして、言いたいことを言って、てきとーに突っ込んでボケて、ほんじゃあ、と、とっとと退席した。
みなさん、ほんとうに、ごめんなさい。

コマンタさんとくれびさんには二度目、マロさんとmukaさんには三度目。ろくこさんとはえーっと、七? 八? 九度目?
と、いちばん多く会っている鹿王院知子さんとでもまだ逢瀬はひと桁なのに。
この、まるで「苦楽をともにした」あるいは「かつて同じ釜の飯を食った」はたまた「おむつを換えてもらっている頃から側にいた」ような親密さはなんだろう。

仕事の都合でよそへ行き、最近Uターンしてきた近所のお兄ちゃん、のようなコマンタさん。憧れていたけど知らないうちにきれいな彼女ができて結婚してしまったのがちょっぴり悔しい中学校の先輩、のようなくれびさん。しょっちゅう家に出入りして悪さをしてはウチの親や隣のおっちゃんに叱られていたのに立派な青年になった弟の友達、のようなマロさん。小さな頃一緒にミミズ千切りや蟻の巣ふさぎをして遊んだ洟垂れ坊主の幼馴染み、のようなmukaさん。今では違う場所で働き違う世界で生きているけど喧嘩したり失恋したり勉強教えあったりなどなど青春の思い出を共有している同級生、のようなろくこさん。

人生をわかちあった過去などありはしないのに、何年にもわたって共同体を成してきたかのような連帯感。これまで互いに積み上げた情報など、いかに多くの文章経由で「交感」してきたとはいえ、わずかな質量に過ぎないはずなのに、ひと言ふた言の言葉のやり取りでいわんとしていることを先読みできることすら、しばしば。
不思議である。
快感である。
悦楽である。

実は、会場へ爆走せんと自転車のペダルに足を置いた直前に娘が携帯を鳴らした。
「今日、タイム更新したよ」
「おおおっすごいじゃん。どのくらい?」
「5分34秒」
「そりゃまたすごく速くなったね」
「ミッチもトモカも、更新したよ」
「みんなすごいじゃん。今日は気候もよかったし、走りやすかったかも」
「うん、みんな調子よかった。マエダなんか20秒台」
「マエダってば毎日更新だろ? すごい。 サトウに代わる北小のエースだな」
「ん、ま、でもサトウは安定してるから相変わらずコーチはいちばん信頼してる」
「女子でいちばん信頼されてんのは?」
「へっへっへー」

大変ご機嫌な娘の声にいつになく幸福感でいっぱいになり、私はメインストリートの車道を観光バスと抜きつ抜かれつしながら自転車を転がした。空に浮かぶ本物の三日月は笠をかぶっていて今日の雨を予測させたけれど、コマンタさんが会場に選ばれたお店の2階の壁には、くっきりと三日月が浮かんでいて、その向こうにはいつ帰っても笑顔で迎えてくれる「もう一つの家族」が待っていてくれた。
これを至福と呼ばずしてなんと呼ぶ。

ネット上でのやり取りがきっかけになった人間関係など幻想だと、他人(ひと)は笑うかもしれない。しかし、幻想といってしまえば、何もかもが幻想である。親子や夫婦の絆だとか、町や村でのつき合いだとか、国家への忠誠だとか愛国心だとか、実体のないものは幻想である。あるいは学歴やキャリアなど社会や時代によって価値の左右されるものだとか、あるいは私たちがふだん実体のあるものだと思って疑うことをしない貨幣なんぞも、幻想である。(※注:このあたり愛するウチダからのウケウリ。>_<;)
幻想は、はかなくて消滅しやすいものと同義ではない。幻想は人間のよりどころになるという意味で強靭である。

私たちは幻想に支えられて生きている。
私は娘に愛され頼られているという幻想に支えられて生きている。
オフ会参加メンバーとの関わりはある日突然解消されてしまうかもしれない。だからこそ、私自身がこの幻想にすがることで幻想を強靭なものにしていきたい。私はあなた方との絆という幻想に支えられて、生きている。