Moulin de cafe2007/10/25 15:47:06

 路地奥に並ぶ長屋に独りで住む富ばあさんが「死んでいる!」と、同じ長屋の隣に二年前から居ついているジャン青年が町内中の戸を叩いた。
 富ばあさんと普段から行き来していたジャンがいつものように声をかけたとき、富ばあさんは年中出しっぱなしの炬燵の側で横たわり、息絶えていた。もう齢九十に達していたので自然死と推定された。警察などの出入りでいっとき町内は騒然となったが、事件性はなく町内会の関心は葬儀の執り行い方に移った。
 ジャンはずっとめそめそしていたが、町内の誰よりも富ばあさんのことをよく知っていて、生涯独身で子どもはいない、兄弟は皆とうの昔に逝った、その家族らの消息は知らなかった、などの情報を提供した。さらに、費用や親戚への連絡をどうしようと途方に暮れる皆に向かって「トミサンのお金、友達、持ってる」と不思議な発言をした。
 富ばあさんがためていた現金をジャンが預かっていたらしい。ごく少額だが葬儀費用の足しにはなりそうだった。使い込んでいなかったかどうかは不問にされた。もうひとつの「友達」とは富ばあさんがひいきにしていた米屋、酒屋、惣菜屋、クリーニング屋などの電話番号簿だったのだが、これらの店に電話をすると店主たちは一様に富ばあさんを悼み、次いでジャンが信頼されていたことに触れ彼を褒めるのだった。
 その電話番号簿に珈琲豆店の名があるのを皆が訝しんだが、ジャンはきっぱりと「トミサン、カフェ好き、よく知ってた。ムーランドゥカフェある」といった。
 富ばあさんの家はまだ亡くなった日の状態のままになっていた。ジャンは自分の家のように上がりこんで、炬燵の横にある硝子扉つきの小物棚をカチャリと開けた。骨董品のようなコーヒーミルを中から出して「これで挽いたよ、豆」といい、あんなにしっかりと手で豆を挽いていたのに信じられない、というようなことを口にして、ジャンはまた泣いた。狭い部屋に、珈琲の香りがたちこめていた。