お茶の色って、あんな、そんな、こんな、色なのに茶色って何よ2008/11/17 17:57:36

絵の具に「ちゃいろ」と書いてあるのだから、そのチューブから出てくる色が「ちゃいろ」なんだろう。子どもはそんなふうにして色とその名前を一致させて知識として積み上げていく。これってとっても危険なことだと思うんだけど、どう思う?
昔、民族学をかじっていたとき、アフリカのサバンナを駆ける民族がどのように色を認知しているかをフィールドワークした研究成果を聴いたことがある。彼ら彼女らは、美術の授業もなければ絵の具も色鉛筆も持たないが、どんな色についても何の色であるかをいうことができたという内容だった。
研究者は何百という色彩カードを彼らに見せ、これはなにいろ? と訊ねた。すると必ず、○○の色という答えが返ってきた。彼らは、すべての色に彼らなりの名前をつける、あるいはその色がどのような色かを説明することができた。たとえばこんなふうである。

○○という草の葉の裏の色
昨日しとめた獣のはらわたの色
△△という動物の皮の色
歯茎の色
足指の爪の色
指の腹の色
……

というぐあいである。
人は自分で見聞したことをもとにして、考えて、組み立てて、ある事柄を説明することができる。それは人間のもつ特権能力とでもいおうか。与えられた情報がなければ、持ち駒だけで何とかすることができる。
太陽の生み出す色。それは見る人によって、その色が映る瞳によって、感じられ方が異なるに違いない。けれど悲しいかな、それをどのようにうけとめ表現するか、という感性が研ぎ澄まされる前に、たった12色程度に集約された名前のついた色という貧しい情報を幼い脳は刷り込まれてしまう。そして、人間は知的生物であるがゆえに、文字情報を得たら最後それに支配されることをよしとするのだ。文字を読めるようになると他のいろいろなことが見えなくなるのだ、じつは。

ウチは上等なお茶は飲まないが、茶葉によって淹れたお茶の色に違いのあることを子どもにわかってもらおうと思って、昔から、番茶、麦茶、緑茶、紅茶、いろいろつくって見せてきた。それは、私自身の「ちゃいろ」という言葉への違和感からきている。お茶の色、というと渋めの緑色を思い浮かべるのに、絵の具には茶色と書いてある。でも、ウチの番茶はどっちかいうと「こげちゃいろ」のほうだぞ……。

brun という語を辞書で引くと「褐色」とある。この語は髪や眼の色、あるいは日焼けした肌の色の表現によく使われる。日本語としては「茶色」のほうがなじむし、想像し易いので、本書の邦訳タイトルが『茶色の朝』であることに異論はない。

ただ、私はもっと黒々した、鍋の底にこびりついてとれないお焦げのようなディープなブラウンを思いながら、「Matin brun」を読んだ。物の名前や言葉尻にやたらと「brun」をつけなくてはならなくなったというくだりでは、「バカいうなよ、くそっ」の代わりに「バカいうなよ、焦げっ」って感じかなあ、なんて笑いつつ。


**************************
『焦げた朝』
フランク・パヴロフ

陽だまりにどてっと両脚を伸ばして、ぼくとシャルリーは、たがいのいうことに耳を傾けるでもなく、ただ思いついたことを口にしながら、会話にならない会話をしていた。コーヒーをちびちびすすりながら、過ぎゆく時間を見送るだけの、気持ちのいいひとときだ。シャルリーが愛犬を安楽死させたといったので、ぼくはいささか驚いたが、それもそうだろうと思った。犬ころが歳とってよぼよぼになるのは悲しいもんだし、それでも十五年も生きたんだから、いずれ死ぬってことは受け容れざるをえないもんだ。
「つまりさ、おれはやつを焦げ茶になんかしたくなかったんだよ」
「まあな、ラブラドールの色じゃないよな。それにしてもやつの病気は何だったんだい?」
「だからそうじゃねえって。焦げ茶の犬じゃないからってだけだよ」
「マジかよ、猫とおんなじってわけか?」
「ああ、おんなじだよ」
猫についてはよく知っている。先月、ぼくは自分の猫を処分した。白と黒のブチに生まれた雑種だった。

(どーんと中略)

誰かがドアを叩く。嘘だろ、こんな朝っぱらから、ありえねえよ。怖え。夜明け前だぞ、外はまだ……「焦げて」いる。ったく、そんなに強く叩かねえでくれよ、今開けるよ。


Matin brun
Franck Pavloff
Editions Cheyne (decembre, 1998)

**********************

ヴァッキーノさんブログでも記憶に新しいこの本は、タイトルページから奥付までがわずか12ページ、1998年に1ユーロで販売され、ミリオンセラーとなった。朗読CDになったり、ドラマ化されたりなどして話題を呼んだ。パヴロフはその後も次々と作品を発表している。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2008/11/17 19:45:26

 今、生物多様性が無くなりつつある。それは生物的窒息を齎し、生物の本来性からの逸脱であり、単一性世界把握の悪夢が、バランスを取るべき社会の根幹を蝕んでいると思う。
 だから違うことはいい事であり、そこからの共通点の喜びが逆転して、統一的なことからの違いという妄想的理念理想型の対比的差別的発作満足にしかならないことに、儚い幸せを抱かせようとしているような推移を、私はいま現代社会に見てしまう。

_ ヴァッキーノ ― 2008/11/17 22:51:15

お茶は、一番茶なんていうのは通じゃないんだそうです。
2番煎じ、3番煎じってやっていって、最後にはなんにも
色がついていない透明な白湯になる。
それを味わうのが、茶の心だって、聞きました。
ボクは、いくら通でも、白湯なんて飲みたくないなあ。

あ!
「茶色の朝」だ!
いやあ、ちょーこさん、今、ボクの誤訳と照らし合わせてしまったじゃないですかあ。
ま、まあ、ボクもそんなに間違っちゃいませんよね。。。
ボクは、今現在の社会の状態が、まさに「茶色の朝」だと思うんです。
実際は「緑の朝」なんですけど。
だって、どこにいても「エコ」っていうじゃないですか。
「エコ」じゃないと、処刑ですよ。
いったい世界はどこにいってしまうんでしょう?
もしかしたら、「エコ」なんて、とってもイケナイことなのかもしれないのに・・・・・・。

_ きのめ ― 2008/11/18 00:28:41

whiteという言葉がエスキモーから色を奪った、と聞いたことがあります。

太宰でしたか、「津軽の雪には、こな雪つぶ雪わた雪みず雪かた雪ざらめ雪こおり雪」があると言ったのは。

では、情熱の色は何色?

怒りの色は?
かなしい色やねん!

すみません。
ぶつけるところのない怒りとかなしみで、胸が張り裂けそうなんです。
忠臣ハインリヒのように鉄のたがをぐるぐる巻いて、
毎日心静かに過ごしているのに、
自分が生まれてきたわけを忘れたやつらが、
無理やりたがをはずそうとしているもので。

白鳥はすでにかなしさをのり越えて、青の時代を飛び去ったのに
蛙のままの救い主を待ち続けているわたしは
このまま土にかえる。

中原では土の色は黄色。
土の中の蛙は、富の象徴。くそくらえ。
冬の色に染まる今は、じっと待て。
蛙はいつか英雄になって現われる。
そのとき、胸に巻いたたがは、おのずとはずれて、明るい色の心がひらくのに。
だから、無理にはずさないでくれ。
無理にはずすと絶望に染まったわたしの朝の色が世界を染める。
無言の叫びがすべてを染める。

やめろ、やめてくれ。
いま自分でひらくから。
琥珀色の透明な水彩画で誤魔化している偽物の心を。

(酔っ払いのたわごとでした、ごめんなさい)

_ midi ― 2008/11/18 10:35:28

預言者さま
違いとか差異を(いっしょか)認め合いつつも、規律ある行動を求められる場の尊重も大事にしたい。人間は厄介な動物ですね。

ヴァッキーノさん
>色がついていない透明な白湯になる。
>それを味わうのが、茶の心だって、聞きました。
ほんと、それ? がせねたじゃありませんか?
ちなみに煎茶は三煎目、玉露は五煎目が美味。

ところでヴァキ語訳版「茶色の朝」、誤訳なんか全然ありませんでしたよ、私が見る限り。

きのめさん
酔いは醒めましたか。
ウチのカエルのミドリ、先日より冬眠に入りました(~~)

トラックバック