絵のある本っていいときもよくないときもあるんだけど創る側には判断が難しい2008/11/26 16:32:03

『パレード』
川上弘美著 吉富貴子挿画
新潮社(新潮文庫 2007年)


『蛇を踏む』よりもウチの子にはわかり易いんじゃないかと、みためも薄っぺらいし可愛いし、つっかえるような難読漢字も出てこないし、と思って借りてきた『パレード』。ところがヤツは、定期テスト前一週間に突入してしまって、いつもは何につけてもどこまでもお気楽なんだが、いちおう真面目に勉強しているのでヤツより先に私が読む。

私は『センセイの鞄』を読んでいないので、「センセイ」と「ツキコさん」の関係や距離感、二人でつくってる世界というものがわからないのだが、これは『センセイの鞄』とは関係なく読めると思った。むしろ『センセイの鞄』との関係性なしに、「ツキコさん」という人物の幼少の記憶ではなしに、一人の少女の、独立した物語として、児童書書架で勝負できる物語だと思った。「センセイ」と「ツキコさん」がいるばかりに、この世界を子どもたちに読ませることができないとしたら、それはたいへんに残念なことじゃないかと、私は思うのである。

「わたし」についてまわるようになる、赤やうすい赤の奇異なものたち。「わたし」は驚くが、母親はまるで気にならないようだった。おまけに、そういうものたちがクラスメートの数人にはすでにもうついていて、皆が自然に受け入れている。

「ゆう子ちゃん」が仲間はずれにされる。クラスで起こるよくないことに、「奇異なものたち」は敏感なようだ。「わたし」のうすい赤は元気をなくしている。「西田さん」の「ババア」も教室で寝そべっている……。

川上さんの描く「不思議」はまるで「不思議さ」をもたない。それは不思議でもなんでもなくごく日常的に見ているじゃないか、触れているものじゃないかという気持ちにさせられる。ああ、そういえば、あれがそうかな、と、「蛇」にしろ「うすい赤」にしろ、色や形や種類は異なれど人は「そういうもの」を小脇に抱えていたり、かかとに引きずっていたり、腰に巻いていたり、背負っていたりするものなのだ。可視化したらこんな感じじゃないの、ということを川上さんは絵でなく言葉で上手に書いてしまうのだろう。

吉冨さんの絵は好感がもてる。物語に立ち入ってくるずうずうしさはまったくない。しかしそれでも、挿画があれば読み手は、「わたし」の「赤」や「うすい赤」を頭の中で挿画に重ねてしまう。
絵のもつ力は、作り手が思っている以上に読み手にとっては大きいものだ。
その文章と絵に初めてぶつかる読み手にとって、二つの要素の相乗効果で、本の世界を広げも狭めもする。心の余白がまだまだある素直な読み手ほど、字面や絵に気持ちを左右されやすい。

文章だけで十分に勝負できる作家の作品になぜ絵をつけたのか。あまりに短編だから、付加価値がないと価格をつけられないとでも考えたのだろうか。
私にはよくわからないが、川上ワールドはすでに確立していて、どんなヴィジュアルが来ようとも文章世界はびくともしないという確信のもとに制作された本なのだろうか。

児童書架で勝負できると書いたが、それは実は条件付きである。吉冨さんの挿画から、「表情」を除くこと。無表情という表情は、けっこう大きくモノをいう。

とはいっても、ウチの子のようにあまり細かいことにひっかからないヤツは、すーすーと、絵があろうがなかろうか、どんな絵だろうが写真だろうが、面白いと思えば読み進むであろう。
私はけっきょく15分くらいで読んでしまったので、ぽいと居間のテーブル(娘の勉強机と化しているローテーブル)に置いてあるが、さて、テストが終わったら読む気になるかな? きっと気に入ると思うんだけど。