なんつーか、友達って大事よな、大事にせなあかんよな、ということをやたら考える昨今であるのはどうしたわけかと思ったの巻2009/03/16 18:56:54

文藝春秋社『文藝春秋』2009年3月号338ページ所収
『ポトスライムの舟』
津村記久子 著


親友の小百合は、私の誕生日近くの土日あるいは祝日に、用事と称してウチの近くまで来てくれたり、他の友達も誘って飲み会を企ててくれたりして、必ず私と会う時間をつくろうとしてくれる。会えば必ず、ささやかだけど、プレゼントをくれる。私の誕生日は年明けの気の狂うような多忙の真っ只中、ということが多いので、なかなか、そうはいっても小百合の手配にひとつ返事で答えられないことが多いけど、それでもできるだけ応じている。小百合は、みんなに会いたいだとか用事のついでやしなどと口実をつくるけど、私に会わなくちゃ、と思ってくれていることがわかるのだ。誕生日だから、というのではない。それが証拠に、小百合は私の誕生日の正確な日にちを覚えていない(笑)。「だって今日、チョーの誕生日やもんな」「ううん、あさって」「へ?」というような会話をした数は、大学1年の時に知り合って意気投合して以来実に25回ほどにも達する(ごめん、ちょっとサバ読んでる)。
じゃ、私はどうなのか、というと、なんとも不義理なことに小百合の誕生日を祝ったことがない。メール一本送ったこともない。なぜなら、小百合の誕生日を知らないからだ。6月か9月かどっちかのはずなのだ(「く」という音に記憶がある)。6月になると、小百合誕生日だっけ、と思い、あ、ちがう香澄と間違えてる、と思ってそれを確かめもしないで9月まで忘れ、9月になると、小百合誕生日だなあ、あ、違う10月だった。と、10月8日が誕生日のジュディットと間違え、間違ったまま9月を通過し、10月になってジュディットに誕生日のメッセージを送る時に、あ、小百合、と思い出す。
ひどい親友である。

小百合が私と周期的に会ってくれるのは、私がどこか頼りなく人生を生きているからだろうと思う。
小百合は私を評して、チョーはしっかりしてるから心配せんでもええねん、という。
心配していないのは本当だと思う。
だが小百合の中のアンテナの一本が、「チョーから目を離すな」と命じているのだろう。小百合は私のことをけっしてほったらかしにはしないのである。ほとんど本能的に。

私の中のアンテナも、時々小百合のほうを向けと命じるようである。
いま自分はある岐路に立っている、そう感じたとき、私は小百合に電話をしたり会ってくれと頼んだりしている。といっても私は迷って決められなくて相談する、という行動様式はとらない人間なので、会うにしても話すにしても、それはいつも決めてからで、決定事項を報告するだけなのである。私の決定について、もし感想があれば述べてくれ、みたいなもんである。だから小百合はいつも呆れる。ほな、それでええやん、と笑ってくれる。それでええやんと笑ってくれることがどれほど私の力になっているかを、彼女はほとんど自覚していないだろうが、たぶん私には、彼女のその「アンタ大丈夫なんそれで」と言いたげな微笑が何より必要なのである。

一度だけ、結論を出さずに小百合に電話したことがある。それはフレデリックとベルナールの板挟みになっていた頃で、その当時流行っていたドラマの、三角関係に右往左往しているヒロインになぞらえて、どうしたらええかわからへん、というと小百合は「どっち(の男)でも、ええやん」といった。そして「(そのヒロインの立場や状況とは)全然違うやろ。(そのヒロインと)同じように考えたらアカンって。チョーはどっちともアカンと思う(=どちらを選んでもうまくいかないと思う)」
小百合は正しかったのである。

電話での会話を傍聴していた母が、「チョーちゃん、結婚したかったらしいや。どこなと行ったらええ」といった。私は29歳だった。


以上、『ポトスライムの舟』を読み終えた私の脳裏に浮かんだことである。
主人公のナガセと、ヨシカはじめ大学時代の友人たちは、私自身にも、小百合ら友人たちにもまるで似ていないけれど、その距離の保ちかたやかかわりかたには、とても共感するものがある。作者の津村さんやナガセたちと、私たちは世代が大きく異なるけれども、ともに、女が大学を出て働くのが当たり前になった世代である。いつの時代にも、キャリア志向でありながらぽんと嫁入りして主婦業に専心することをよしとする女性たちもいる。家庭に入りたいと思いながら、生きていくために必要以上に働かざるを得ない女たちもいる。私みたいに。
ナガセが結婚できなかったら養子でももらおうか、と同居する母親に問いかけたとき、母親は、いらんわそんなん、という。そのリアクションはウチの母でもそうだろう、と思った。なんでよその子の面倒見んならんの。孫を溺愛する母だが、よそはよそ、知らん子は知らん、なのである。ナガセの母親は還暦くらいでウチの母ともちろん同世代ではないが、「他」へのまなざしにはけじめをつけているという点では共通している。
ただし、たぶんナガセの母親は、娘に無理に結婚してほしくないだろうし、年齢で女の価値は決まらないと思っているだろうが、私の母が29歳の私に「結婚したかったらしたらええ」といったのは「早よせな商品価値なくなるんやさかい、親の許しをいちいちとらんでもええ」という意味であった。彼女たちにとっては女が独身で30歳を超えるなど言語道断だった(笑)。

そういう若干のずれはあるけれど、おおむね『ポトスライムの舟』は、うんうんそうだよねとうなずきながら読める小説であった。ただ、これが芥川賞といわれると、ふうん、としかいいようがない。『沖で待つ』のときも思ったが、審査基準がわからない。面白くないとはいわない。むしろ、面白い。でも、芥川賞ってもっと「おおおすごいものを読んだぞ」みたいな読後達成感を味わわせてくれるもんじゃないとやだなあ、なんてわがままをつい思ってしまう。選にもれた他の候補作を読んだことがないので比べようもないけど、該当者なし、という選択肢はないのかな。