めでたい嬉しいむっちゃごぶさた更新の巻2009/10/21 11:50:59

友人の木の目さんが地方紙主催の文学賞で佳作を受賞されたそうである。
ご自身のブログでこそっと(笑)発表しておられる。
我がことのように嬉しい。
木の目さん、おめでとうね。
この次は佳作より上、いきましょう(笑)

純粋に人の心に響く文章を書きたいと思っている人の書いた渾身の文章が、ブログやウエブページなどというヴァーチャルかつ出入り自在のオンライン空間に「テキストデータ」として「アップ」されるのではなく、「印刷活字媒体」に然るべき手続きを踏んで掲載される。この事実がどれほどその書き手を励ますか、私はちょっぴりだけどわかっているつもりである。うん、ほんとうに嬉しいよね。

縁あって、私には「本格的に書ける」友人が少なからずいる。
彼ら彼女らの、見返りを求めない純粋な姿勢に時折はっとさせられる。
本来言葉や文章というものは、魂の露出である。
子どもが親に発する言葉を聞けばわかる。
そこに計算や打算はないのである。原初は。

「こうねだれば買ってくれる」「こういえば嫌いなもの食べなくていい」
というようなことを子どもは恐るべき速さで学習していき、やがてしたたかな計算のもとに発話や会話を行うようになる。
こういう技術を大人になったとき、営業セールスに使うか詐欺に使うか恋愛に使うかはその人次第だ。

自分が言葉を発し始めた頃の、魂の露出に他ならなかった頃の、混じり気のない伝えたい気持ち。その、大人になった今となってはもはや実態のない「気持ち」を、身体のどこかに記憶させておくことのできた人、忘れていたけど「引き出し」から無意識に取り出すことのできた人。
そういう人だけが「小説」を「執筆」できる。
書きたいことを書く。ごくシンプルな引き金をすっと引くだけ。きっかけとしてはワンアクションだが、このワンアクションを行う人はそれなりの資格をもっているのだ。

もちろん物語を紡ぐには想像力が豊かで文章技術に優れていなければならないだけでなく、膨大な取材と調査にも時間と労力を惜しまないことが重要だから、誰にでもかなうことではないだろう。だって誰だって、日々の糧が必要だから。何をおいても扶養しなくちゃいけない人がいたりする。すべてに優先して頭を下げなきゃならない客がいる。そんなことにかまけているうちに、書きたいことを隅っこにやってしまう。その繰り返し。

それでも書き続けているすべての友人に、心からエールを送る。
あなたの小説を待っている人は、この世界のどこかにいるから。(たとえば私。笑)

木の目さんの受賞が嬉しくて、そして最近、頑張っている友人たちの「書きまくりの日々」近況を耳にしてこれまた嬉しくて、ブログ更新してる場合じゃないんだけど、更新しました(笑)。

はあ~。

私は売文屋ゆえ、彼我の違いに落ち込んでもおります。
売文屋は「書きたいこと」は書けません。
「自分の気持ち」「自分の書きたいこと」「自分の伝えたいこと」はすべて棚に上げるどころか殺虫剤とかベンジンとか消火剤とかぶっかけて「消滅」させます。それでやっとスタートラインに立てる。
そして仕事開始。売文屋が売文を書く際に考えることは「ターゲットの【消費マインド】をわしづかみにする数行」「しっかり【稼げる】数行」です。

私が書く数行というのは、人に金を使わせることができなければ、無用である。
この数行によって、この数行を媒体として販売される商品がどれほど売り上げることができるのか。あるいはこの数行がクライアントの満足を120%満たせるのか。
「稼いでくれよ」と送り出したキャッチコピーが当たってめでたく売り上げたとしてもクライアントは製品が良かったからだというだけでコピーライターにプラスアルファの報酬が発生するわけではなく、たいへんありがたいことに次回製品のときもよろしくというリピートはいただけるのだが「前より安くしてね」という注釈つきなのでこれまた報われないのである。

なのになぜ売文屋は売文屋であり続けるのか。
答えはひとつしかない。それしかできないからである。

売文屋には資格は要らない。
売文屋は文章に関し、滅私奉公でなくてはならない。滅私奉公は辛そうに響く四字熟語だが、実は人間にとっていちばん簡単な労働である。己を滅して公に奉仕する。自分という個体さえあれば可能なことだ。特別な技術は要らない。
逆に言えば「自分」をもっていなければ「自分を滅する」こともできないので話はややこしくなるが、そんな人はいないのである。
だから売文は誰にでも書ける。滅私奉公できれば。
発注元のニーズに応える。滅私奉公を現代語に訳せばそうなる。

私には同業者の友人はない。私の友人には人より秀でた才能とか、弛みない努力とか、長年の経験に基づく技術というものに裏打ちされた職業に就いている人が圧倒的である。みんな、すごいんである。
私に才能があるとすれば、これまでいろいろ勉強・経験してきたことなどを生かす、という野心をあっさり捨てて滅私奉公精神だけで誰にでもできちゃう省エネお手軽職業を選んでなお誇らしく生きているずうずうしさ、というところだ。

世の中には売文屋モドキがうようよいる。気持ちさえもっていれば誰でもできる売文屋のはずなんだが、うようよいるといってもろくな売文屋がいない。モドキというのももったいないくらい、ろくでもない。つまり奴らは文を売っている気がないのである。つまり滅私奉公精神に欠けている。これに尽きる。発注元のニーズに応えていないのである。これ、社会人失格。ニーズに応えないということは、つまり気持ちを汲まない、心を思いやらないということだ。これ、人間失格。

普通の人間でさえあれば、売文屋は務まるんだぞ。
それもままならない失格だらけの若者を世に輩出し続けるこの国。ああ。
めでたい嬉しい更新のはずが、憂いてしまったよ(笑)

ま、みんな頑張ってくれ。あたしも頑張るし。ほな。