修了式の日に ― 2010/03/20 01:40:02
「昨日な」
「うん」
「マサキが滝川先生、殴った」
「いーーーーーっ。殴った? ……ってなんで? どんなふうに? グーで?」
「グーで。寝てて、注意されたらむかついたって」
「ところで」
「え?」
「マサキって、誰?」
「ウチも、知らん」
滝川先生殴打事件が起きたのは娘のクラスではなく2年3組、陸上部主将のキョーカがいるクラスだ。
キョーカから聞いたさなぎから聞いたところによると、英語科の滝川先生の授業中、マサキは目いっぱい爆睡中だった。
滝川先生はマサキの席のそばへ行き、起こそうとした、というかたぶん名前を繰り返し呼んだだけだろうと思うけれど、顔を上げたマサキはいきなりぬっと立ち上がって滝川先生にパンチ!
滝川先生はひるまずマサキを押さえ込もうとしたけど、力でかなわないので何度も殴打を浴びてしまったという。
滝川先生は20代終わりか30代の女性教員。
マサキは野球部員。
「女を殴る男はとりあえず最低。理由がなんやろうと弁解の余地なし」
「そういうと思た」
「寝てて起こされてむかついたから殴るってどんな育ちかたしてんねん」
「マサキはあまり目立たへん男子やと思うてたけど……ウチもよう知らんし、リョータやカズキ(ともにさなぎと仲良しの野球部員、北小出身)と一緒にいるのも見たことない。そんなことするように見えへんかったから、キョーカはびっくりしてた」
「そんなことするように見えへん子が、今は怖いなあ」
「ミカは見えるけど」
「今、ミカちゃん関係ないやん」
「滝川先生のことは、みんな嫌いやねん」
「そうなん? なんで」
「なんか、うまいこと言えへんけど、受け付けへん」
「さなぎも嫌いなん」
「嫌い」
「でもなあ、生徒の暴力に遭うなんて、教師としてはまだまだこれからやのに立ち直れへんかも。思い切って指導できひんやん、殴られたらどうしよ、とか」
「マサキが一方的に悪い。それはみんな思てるけど、滝川先生のことそんなふうに心配してへんと思う」
「……ふうん。冷たいのね」
「滝川先生にはな」
トーストを食べ終えて、スープもズズーーッと平らげて、リンゴをひと切れほおばりながら、娘は再びぼそっと言った。
「野球部、試合できひんようになるかな」
「なんで」
「暴力事件起こしたし」
「うーん……高校野球とちゃうしなぁ……滝川先生の怪我の具合によるともいえるし……他の部員には全然関係ないから大ごとにはならへんのちゃう? そんなん、カズキやリョータやコウスケ可哀想やん」
「うん」
「そういえば野球部の顧問、西原先生やん」
「そやで」
「うーん」
「なんで唸ってんの」
「なんかとばっちりがいきそう」
「西原先生に? どういうとばっちり?」
「部活ではどんな指導をしてたんですかっ……って」
西原先生がさなぎの担任になって家庭訪問に来たとき、陸上部に所属して頑張っているさなぎを褒めて、「スポーツに打ち込むことはとてもいいことです。とくにこの時期に我を忘れて仲間とともに夢中で汗を流すことは一生の財産になりますから」というようなことを、つっかえながら、ちょっぴりゆっくりすぎるテンポで(笑)おっしゃった。私は先生にクラブ顧問はどこを受け持たれるのですかと訊ねた。
「野球部です。私は教員生活の間ずっと野球部を見ています」
と、このひと言だけは実によどみなくすらすらきっぱり毅然とおっしゃった。野球部命、という四字熟語が向かい合う私たちのあいだをテロップのようにしゅっと流れた。
あのときの西原先生の表情は鮮明に覚えている。
正午過ぎ、携帯が鳴った。娘である。
「お母さん、通知票やっばいでぇーー」
なんでもかんでも「やばい」ですますなっ……と思いつつ、成績が上がって喜んでいるのだなということは理解した。実をいうと、中学校の学力評価をあまり信用していない私。通知票の数字には関心のない親でごめんなさいである。1年次には「なんでこんなに何にもわかっていない子にこんないい成績つくんですか」と担任に食ってかかったことがある。きりがないのでここでは言わないが、学力評価はおかしい。
だから、ま、それはそれとして、お母さんが聞きたいのはさ。
「滝川先生、具合どうかわかった?」
「学校には来てたみたい。式には出てへんけど。小指骨折って聞いたよ」
「小指骨折!」
「マサキは、来てへんかった」
「そっか……」
「ほんまにやっばいでえーウチの成績! はよ帰って見い」
「はいはい」
修了式の前々日にクラスでのお楽しみ会を催し、担任、副担任を交えて遊んだという。前日には学年お楽しみ会があったのだが、殴打事件があったので、教員からの出し物(寸劇)が中止になってしまったそうだ。さなぎはその劇で「西原先生がどんな芝居するのかちょっとだけ楽しみやったけど」といっていた。なんのかのといいつつも、あれもこれもあったけど、ことウチの娘というフィルター越しに見る限り、終わりよければなんとかだという雰囲気に、少なくとも2年6組はなっていたようであった。最後の日の西原先生の様子にとても興味があったが、さなぎいわく「べつに、いつものとおりやったで」とな。