人間にできないこと:時間を止めることと秩序を永遠に保ち続けること。命の営みは一回限り。2010/03/24 19:36:24


『辰巳芳子 食の位置づけ ~そのはじまり~』
辰巳芳子著
東京書籍(2008年)


その2。
本書は、食に鈍感な現代人を叱咤するだけの内容ではない。現代社会におけるさまざまな病理について辰巳さんなりの考察を展開されている。その材料はBSE(狂牛病)であったり、原子力発電であったり、環境問題、食糧自給率、憲法九条であったりする。自然が自然であるための、人間などの力の及ばない営みの大原則を無理やりに歪める行為を繰り返した挙句、牛を狂わせ、生物を絶滅に追いやり、あろうことか地球温暖化防止の有効な手だては原子力であるとする風潮に誰も異を唱えない現状。辰巳さんは、今こそ食べることの意味をもう一度考えようとおっしゃる。「なぜ、食べなければならないか」を真剣に考え次世代に伝えていかなくてはならないと。今後もっともっと蒸し暑くなるであろう気候に耐えて生き抜くために、必要なことは冷暖房の効率を追求することではない。日本古来の食文化を見つめ、「旬」と人の体との間に密接なかかわりのあることを再度認識せよとおっしゃる。なぜこれほどまでに人は歳時(行事)を、行事食を大切にしてきたか。暮らしと食、祈りと食はいつも一つであったからだ。盆も正月も七草も、お食い初めも七五三も十三参りも成人式も、それらはすべて、今日在ることへの感謝と子の健やかなる成長への祈りである。そしてその膳は、その時期最もおいしく栄養の摂りやすいものをいただく行為であるに過ぎない。いつもの食事を、正月は塗りの重に詰め、ひな祭りには朱塗りの器に盛る、といったしつらいの工夫でハレの日を祝った。私たちは古来、質素でありながら豊かな食を満喫していた。生物の命をいただくということを知っていて料理をしていたからである。

志村ふくみさんが「染織は命をいただくこと」とおっしゃっている。蚕の糸、綿花の糸、植物・動物染料……。
私たちはことほど左様に他生物の命を消費しなければ生きてはいけない。このことは、やめられない。ならばせめて、その命を力ずくで歪めて食すような行為は慎もう。人間自らも自然物である自覚を持って、その在るべき姿に逆らわない食しかた、生きかたをしよう。辰巳さんはそうおっしゃっている(と思う)。

辰巳さんの立場は憲法九条死守、である。「戦争をしてもいい」国になっては絶対にいけない。戦争で日本人はあまりにも多くのこと、大きなこと、重いことを失った。一つとして失われてもいい命なんかなかった。連綿と受け継がれてきていたはずの、美しく健やかで自然と一体化していた日本人の暮らしは幾度もの戦争とそれに連なる占領のために木っ端微塵に粉砕されてしまった。
しかし、破片を拾い、つなぎあわせ、虚ろな記憶をたどって、わたしたちの体にいちばん相応しい食の在りかたを再構築することは不可能ではないはず。まだ間に合う。種を蒔き、育てて収穫し、料理して、生の営みに感謝して、いただく。この一連の行いをぜひ学校教育に、もっと積極的に、もっと深く真剣な取り組みかたで、導入してほしい。とおっしゃっている(と思う)。

食糧自給率を高めなくてはならない、というのも辰巳さんの立場である。しかし、こればかりは、日本が工業国であることを捨てなければ不可能である。日本は半導体や車をつくりまくって世界に輸出しまくっている。世界中で日本の技術が生かされている。それは誇らしいけれどもそれと引き換えに日本は大量の食糧を輸入せざるを得ないのだ。日本では、国家も累積赤字がどうこうといっているし、私の住むまちも慢性的な財政赤字で、そろそろレッドカードを出されそうだと報じられている。そんな中でも、日本の主力多国籍企業は圧倒的な黒字を謳歌し、納税を免れるために次々と工場や子会社を建て、現地法人をつくっている。大企業が儲けまくる陰で私たちはニュージーランド牛肉やエクアドルの枝豆とかチリのサーモンとかモロッコのエビとかタイの冷凍ほうれん草とにらめっこする。国産にこだわる人は輸入食物の3倍もの値のついた野菜や肉を買わねばならないし、安いからと輸入品を買う者は、安全性を憂い、フードマイレージに考えが及んで憂鬱になる。
しかしこれが、どうしようもなく日常である。
米国は占領時、自国の余剰小麦を掃くために日本に食パンを持ち込んだ。脱脂粉乳も同様だ。傷つき、思想を塗り替えられ、もののない中で、いやおうなく食習慣をアメリカ色に変えさせられた日本人が、慎ましやかな和食オンリーの暮らしに戻ることはもはや不可能だ。(戦争は尊い命を奪っただけでなく、日本の大地を焦土と化し、風土を破壊し、食文化を踏み潰した。)
食糧自給率を高めるということは、国民総生産の農水産業の比率を高めるということである。また、輸入食材に頼る外食産業を振興しないということである。めんどくさいからコンビニ弁当で済ますとか、今夜はファミレス行こうとか、そういうことをやめていくということである。近所で獲れたもんを家で食べよう。ほんとうにそれが可能なレベルにまで暮らし方が変わるには、300年くらい必要な気がする。そんなことないですか、辰巳さん。

もう一つ、辰巳さんは原子力エネルギーが推奨される傾向に警鐘を鳴らす。核兵器に繋がる可能性をゼロにできない以上、盲目的な原子力信仰は危険だ。この傾向にはストップをかけるべきだ。それは私も同感だ。原子力はクリーンだとか、二酸化炭素排出が少ないとかはまやかしである。原子力には放射能の滓(かす)というゴミが出る。そのゴミはどこに捨てられているのか、皆さんご存じか。
http://www.numo.or.jp/denkinohaikibutsu/reality/reality02.html

原子力発電は、現代人に欠かせない。しかし代替エネルギーの開発を進めなければ、人類に未来はない。食文化うんぬんどころの話ではない。

というように、辰巳さんの本はこういった調子でたいへんたいへん重い課題を私たちに突きつける。わたしは何ひとつ解決の術を知らない。でもたとえば、今なら旬の菜の花を、オリーヴオイルで炒めて醤油をからめて食べている。辰巳さんが春は花の蕾をいただく季節とどこかに書いてらっしゃったからだ。でも毎日は無理なんです。だって菜の花高いもの。辰巳さんの家の庭には山の菜、野の菜がいっぱい芽を吹き葉を繁らせ花と実をつけるそうだ。わたしも80歳になるまでには「プランタで野菜づくり」くらいは実現するぞ。