誰か「京都タワー」をネタにお話、書きませんか?2010/04/27 21:12:58

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』
リリー・フランキー著
扶桑社(2005年)


私「見てみて、ほら」
娘「あ、東京タワー。どっち? オカンのほう?」
私「うん、オカンのほう」
娘「なんでそんなん、今頃読んでんの」
私「図書館の棚で、初めて見た、これ。こんな白い本やったんやーと思って」
娘「ウチ、借りて読んだで、1年のとき」
私「学校の図書室で?」
娘「ううん、サリーから。あ、でも、全部読まへんかった、たぶん」
私「なんで? 長すぎた?」
娘「うーん、あんまり覚えてへんけど……何の話なん、これ、……っていう感じで」
私「長すぎたんやな、要するに」
娘「そういうことやな」
私「なんかさ、ようあったやん昔生き別れになった親とか子どもを探して会わせてくれるっていう番組」
娘「うん」
私「ああいうのでさ、なんか再現映像とかあるやん、素人くさい役者使ったやつ」
娘「うん」
私「そういうのを字で読まされてる感じ、するわ」
娘「……ふうん……読んだ人は泣ける話やってゆうてたで」
私「最後、オカン死ぬから、そら、泣けるやろ」
娘「オカン、死ぬんか」
私「オカンの病気のとこまで、読んでへんやろ」
娘「なんか、今どこに住んでんの、これは誰のばあちゃんなん、とかオトンはどうしてんのとか、そういうことがわからへんまま歳だけとっていってる、みたいな」
私「ははは。あんたの読みかた、それ正しいわ」
娘「お母さんは、泣けへんかったん」
私「リリーさんがお母さんの前に座ってて、一緒にお酒飲んでて、俺な、実はな、小さい時はこうでああで、大人になったらこんなであんなで……ていうふうに身の上話をしてくれはったんやったら、もらい泣きしたかも知れんわ。わかるで、つらいやんなあ、とかいいながら。けどな、本っていうか小説にされると……ちょっと辛い。紙とかインク使うならもうひと工夫してほしい」
娘「文章にしたらアカンってこと?」
私「インタビュー記事ならオッケーやで。ただし100分の1に圧縮せなあかんけど、長さを」
娘「今頃読んでるし、よけいに面白ないって思うんちゃう?」
私「小説っつーもんはいつ読んでも面白くないと小説とはいわんのよ」



リリー・フランキーの『東京タワー……』は、いつも貸し出し予約数が500以上で、つねにランキングのトップクラスにあり、『よろしければ寄贈をお願いします』という図書館の呼びかけの上位に名を連ねていた。愛するウチダの本をはじめ、読みたい(けど買うには高い、あるいは装幀デザイン的にちょっと気に入らない)ものなど、100だろうと200だろうとどんなに予約が入っていても私はめげずに予約を入れるんだけど、そもそも小説を読まない私には、貸し出しランキング上位にあったダヴィンチ・コードや告白や作家名でいえば東野なんとかさんとか「伊」のつく人とか(すみません、ほんとに覚えてないんです、名前を伏せたいわけじゃなくて)、そして本書も、まったく興味をそそられなかったが、それでも人気があるということだけは社会現象として知っていたので、図書館書架にてん、と並んでいるのを見るとおおおっと仰天した。とうとう普通の場所にお目見えしたな、と。それでつい、手が伸びてしまったのである。
で、感想は、娘との会話で述べたとおりである。
リリーさんの自伝である。小説ではなく自伝である。そう思えばよい。多才な人らしいので、自分で書きたかったんだろうし、ただただ書きたい気持ちに任せて素直に書いた、ということだろうから、そういうもんがこの世にあってもいいと思う。
でも、本屋大賞だって。
山崎ナオコーラさんという作家さんが、どんな文学賞よりもほしい賞だと言っていたので、受賞作としてちょっぴり期待して読んだんだけど。

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母親とは? 家族とは? 普遍的なテーマを熱くリアルに語る

読みやすさ、ユーモア、強烈な感動! 同時代の我らが天才リリー・フランキーが骨身に沁みるように綴る、母と子、父と子、友情、青春の屈託。
この普遍的な、そして、いま語りづらいことが、まっすぐリアルに胸に届く、新たなる書き手の、新しい「国民的名作」。超世代文芸クォリティマガジン『en-taxi』で創刊時より連載されてきた著者初の長編小説が、遂に単行本として登場する!
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以上、扶桑社のHPより。
冒頭に「読みやすさ」とある。そうなのか、いまは何よりも読みやすいことが小説に求められるのか。そして、こういうのが読みやすいとされるのか。
(滅多に本を読まない我が娘が読みやすいと評したのは「親指さがし」でしたけれど。笑)
読みにくいですよ、この『東京タワー』。文章の巧拙云々は別にして、と言いたいがやはり巧拙に関わることなのかな。小説というにはあまりに正直な、気分にまかせた自分語りである。そうね、仕掛けがない。表現に工夫をしているというふうに見せたい、という意図は感じるけれど、そんなもん読者に感づかれたら工夫とはいわんしね。
よけいな飾りがひっかかる。そのせいで純粋にストーリーを追えなくなる。追えたところで、そこにサプライズがあるわけではないんだが。
なんというか、材料はたいへんいいのに調理のしかたを知らないからまずく仕上がっちゃった料理、とでもいえばいいのだろうか。それだけいい素材持ってるのに刻みすぎたわね、煮込みすぎたのかしら、油かしら塩かしら多すぎたのは、という感じ?


人の生は人の数だけある。それぞれが固有だし、それぞれが自身にとって特別だ。逆にいえば、特別な生なんてどこにもない。この国には1億以上の生があり、中国には13億以上の生がある。長短も濃淡も起伏も棘の数も穴の数もさまざまだから、全体で見れば、突出してすごい人生なんてそうはない。思いもしなかった身内の死は辛いし悲しい。身近に起これば同情もする。死者に対する贖罪の気持ちとか死んで初めて知る愛情とか、それは当事者だけに固有のものだが、第三者である自分にも似たようなことが起こる(起こった)から、投影して泣きたくなるということもある。生きているということは、自分と似たものや、自分に共感してくれる誰かを探す日々を過ごすということだ。
結果的に200万部も売れたというこの本にその数だけの人々が自分を映してみたくなったのだろう。そのこと自体は悪いことではない。でも「よく売れたで賞」以外の何らかの賞に値するのか?

私は娘が学校から借りてきた湊かなえの『告白』を横から読んで壁に投げつけたくなった(失礼)が、リリーさんの『東京タワー……』に比べたら、『告白』は小説としての体裁は維持している。テーマが重いわりには薄っぺらに感じるのだが(いや、いまは『告白』の話ではないのでやめておこう。といってこの本を今後も取り上げることはないけれども)。

リリーさんは、本書のほかに小説を書いているのだろうか。余計なお世話だろうけど(いやまったく)、小説を書くことが彼の本分ではないはずだし、本書も小説を書こうとして書き始めたものではなかったのではないか。オカンへの思いを書き尽くして、次に彼が何か表現するとしたらそれは「小説」でなくていい。

***

「君んとこのエッフェル塔、面白い形してるね」
「ろうそくなのよ。神と仏の街だからね」
「ろうそく? そうか?」
「和ろうそくは、少しくびれているのよ」
「なるほど」
「そうはいっても、ちょっと無理があるよな、というのは市民も知ってんのよ」
「ろうそくジャポネだと思うと、神聖な気分になるよ」
「あなたはいい人ねえ」

今月は週末ごとに神社仏閣をけっこう巡った。そして街のどこにいても、わりとタワーがよく見えることに気がついた。あっちにタワーがあるからこっちが北ねというふうに、ちゃんとランドマークの役目を果たしている。えらいね、タワー。誰か私の街のタワーをネタに、まともな小説を書いてくれないだろうか。

コメント

_ ヴァッキーノ ― 2010/04/30 12:42:35

キビシイ!
ボクはリリーさんの小説とかエッセイは
読んだことないんです。
ところで
今、つとさんの紹介で
ラノベ版文章塾みたいなのに投稿しようと
思ってるんですけど、そこの批評も結構キビシイらしくて
ビビってます。
ちょーこさん
ボクのブログのショートショート
きっとリリーさんのそれより
ずっとずうっと下劣なものかもしれないので
前もって謝っておきます。
ゴメンちゃい(笑)
ちなみに、髑髏のお話を書いた時
ちょーこさんのダリ本の紹介も
勝手にしてしまいましたあ!
併せて土下座します。m(__)m

_ midi ― 2010/04/30 14:43:20

ヴァッキーノちゃん、お久し振り。
厳しいの、大いに結構じゃないですかー。ダンス文章塾とは違った刺激があるよ、きっと♪

私、ときどきヘンリー・スレッサー読みに行ってますよ。なんてコメントすればいいのかわからないから黙ってますが(笑)。だからさ、

>ちょーこさんのダリ本の紹介も
>勝手にしてしまいましたあ!
>併せて土下座します。m(__)m

知っておりましたわ。このときもなんか恥ずかしくて、ごめんなさいね。でもでも、すごく嬉しいです。
ほんとに、どうもありがとうございます!
ひれ伏してお礼申し上げます。m(__)m

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