Mais si c'est la joie pour eux?2011/01/07 00:20:47

選択出版『選択』Vol.37 No.1(2011年1月号)
110ページ
〈連載〉日本のサンクチュアリ●シリーズ436
 箱根駅伝 ——歪んでしまった「国民的行事」


12月の中学校恒例行事、持久走大会を最後に娘は全然走っていない。この持久走大会、毎年最上級生の中3生の記録はおしなべてふるわない。通常6月〜7月を最後に部活動から引退し、受験勉強を理由にほとんど運動しない日々に突入するからだ。持久走大会の2週間前から学校挙げての強化練習(という名前ほど激しいものではない。体育系の生徒ばかりではないので、全員に体を走ることに慣れさせるためのものにすぎない)はあるけれど、それで、部活引退前の好調時に体を戻せるわけはない。娘も例外ではなく、陸上部は秋まで記録会や駅伝の予選があったので他の運動部よりも長く3年生も活動していたとはいえ、やはりチームは1、2年生中心になるので3年の練習量はぐっと減っていた。しかも娘は6月に800mで敗退してから100m×4Rに出場するため短距離練習に切り換えていて、秋の駅伝も控えの控えだった。全然長距離のモードに体がなっていなかった。というわけで、記録はこの3年間の中ではいちばん遅かった。てきめんだ。やはり練習というのは侮れない。積んだ積まなかったで結果が見事に左右される。本人はよく自覚していたので、その上で自分の出せるタイムをある程度は予測していたようだ。
陸上部主将で長距離のエース、小学校からの仲良しキョーカはなんと自己のもつ学校記録をさらに大幅更新。凄い! ちょっとっ。皇后杯全国都道府県対抗女子駅伝のメンバーに、なんでキョーカが選ばれないのよっ……と言いたくなるほど彼女は凄い。余談だがすでに陸上で高校進学内定ももらっている。ま、だからずっと変わりなく部活に出ているんだが。
キョーカが小学校3年生で転校してきたとき、少しアレルギーがあるのか、プール授業も参加できなかったり、母親とテニススクールに通っているなんて嘘でしょと思うくらいひ弱な印象が否めなかったのに、今の彼女は年中浅黒く日焼けし背も高く足も長くすらっとして、なおかつ筋肉ムキムキで、ゆえに力強い走りを見せる。他のメンバーが足を引っ張るからキョーカは駅伝で市内の予選止まりで上の大会へ進めなかったが、彼女自身は十分に全国クラスの実力を持っている。都大路のコースを走らせてやりたかったな。
今年の箱根駅伝、往路を制した東洋大の「山男」柏原選手がインタビュー時に「やったぞ田中!」とチームメイトの名を叫んでいた。陸上は孤独なスポーツだ。競走する相手はいるけれど、実際は自分との闘いに終始する。そんな中で、リレーや駅伝は団体競技、チームプレーの醍醐味を味わえる貴重な機会だ。普段の練習は短距離長距離フィールドと分かれるしメニューも異なるので、なかなかチームとしてのまとまりを維持しにくそうだが、リレーや駅伝のあるおかげで、メンバーでない者も一緒になって妙に部の結束は高まるのである。
それにしても長距離リレーの駅伝という種目を考えたのは誰だろう。偉いなあ。今や駅伝はいろいろなヴァリエーションを生み、国際的に認知されている種目である。やはり、長い歴史を持つ日本の箱根駅伝の果たした役割はとてつもなく大きいと思う。駅伝といえば箱根だ。順天堂大学だ。
しかし、『選択』の今月号の記事は、苛酷なレースが選手寿命をすり減らし、ほんらい未来のマラソン選手を育てるはずの目的で創設された大会が、今は将来有望な長距離選手の「墓場」になっていることを暴露する。箱根駅伝常連の各大学は、全国から走れそうな有望選手をかき集める。特待生扱い、優遇制度、スポーツ推薦、名称はいろいろだろうが要は「ウチで走ってくれるなら試験なしで学費も免除」なんていうのは普通に行われている。そうして入学した陸上界の明日の星たちは、連日固いアスファルトをただただ走り続けて、膝や腰の関節を傷め、卒業する頃には体はボロボロ。これまた実業団などにスカウトされて入ったとしても、選手生命はほとんど尽きているというケースがほとんどという。
この記事にもあるが、箱根で活躍したランナーでのちにマラソンで名を馳せたのは瀬古と谷口くらいである。私はあまり熱心にマラソンをみるほうではないが、男子マラソンで活躍する選手と、箱根で活躍した選手との名前が一致しないなあとは感じていた。箱根で決死の走りを見せた選手ほど、それで選手生命を燃やしつくしているからなのだ。
大学にとっては箱根駅伝出場はまたとない大学の広報宣伝の場である。大学名が長時間テレビで放映される。アナウンサーに連呼される。東洋大などは柏原選手の活躍のおかげで入学志願者が1万人以上増えたという。したがって、そこでは莫大な予算がつぎ込まれている。駅伝選手は、大学の存続をかけた宣伝の場で、足と命をすり減らして走るのである。記事は、あまりにも巨大な規模の一大イベントになってしまったせいで、世界へ羽ばたく選手の育成という目的を果たせなくなり陸上競技としてはその意味で機能しなくなっている箱根駅伝を嘆いている。
それでも、箱根駅伝が観るスポーツとして群を抜いて面白いものであることには違いなく、私の周囲でも、普段は何もスポーツ観戦をしない人でもお正月の箱根だけは観るという人が多いから、その人気の高さは凄まじい。
走る、ということの面白さや爽快さは、走らない者にはあまりピンとこない。
まだ中2の時だったか、ウチのさなぎの散らかった机の上に、キョーカから渡されたらしき、紙を折り畳んでつくった手紙があるのを見た。どれどれと、さささっと、中を見た。
「ウチが走るようになったんは、さなぎのおかげやねん。5年生のとき、先生が集めてた小学校駅伝のメンバーに、キョーちゃん一緒に入ろって誘ってくれたんは、さなぎやった。あの時さなぎに手を引っ張られへんかったら、今、ウチは陸部にいいひん。こんなに走るの好きになってへん。ありがとう、さなぎ。これからもずっと一緒に走ろうな」
だいぶはしょったが(それに記憶違いもあると思うが)、だいたいこのような内容だった。キョーカがこの先、立派な選手になってもならなくても、彼女がそんなにも走る喜びを知り、目標を持ち、ひたむきに頑張るのなら、そうした時間と思い出を共有できたさなぎはどんなに幸せ者であろうか。キョーカを陸上へ「導いた」(笑)者のひとりとして誇らしく思うことすらできる。
もはや箱根駅伝が、あまりクリーンでないお金が動くようなそんな営利事業に落ちぶれているのだとしても、現実に選手はあの道を走っている。彼らは幸せに違いないのだ、たとえそこで、大学の名のもとに、力尽きようとも。
世界に羽ばたくマラソンランナーが背負うのが日本という母国の名だとしたら、箱根駅伝のランナーは母校の名と友情を背負っているのである。そこにそんなに違いがあるとは思えない。箱根駅伝が大会・大学関係者を大きな金の動きで潤す構造は、オリンピックのそれとたいして変わらないと思うがどうであろうか。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2011/01/07 05:37:50

走る
風景が未来になって
時が風になる
置き去りにされた夢を
追うように

受け継ぐ夢
明日の風を求めて
地の吐息が
体に鼓動して

煌めく
ときめきの力
とわの光
走る

_ midi ― 2011/01/11 23:52:14

こないだ友達の家にプリント取りにいくのに走っていきましたが、ほんの近い距離ですけど全力疾走したらしく、帰ってゼエゼエはーはー(笑)「あかん、めちゃくちゃ脚力落ちてるぅー」と嘆いています。

_ コマンタ ― 2011/01/17 00:57:43

Dans tout sourire il y a de l'enfance. 駅伝の選手はみなステキ。気温3度のなか自らの走る姿がひとにどういう印象を与えるかなんて構ってられない――けれどみないい顔で走ってましたね。

_ midi ― 2011/01/17 19:55:30

可愛い子、いますよねえー。スポーツ選手も見た目が可愛いと絶対トクだぞ、と私なんぞは思うのですが、当人たちはぜんぜんみたいです。キョーカは美人だけど、それ言われるの嫌いみたい。美貌かどうかではなくてね、走る姿が洗練されてて、理想的なフォームで凛として走っていると、美人度アップしますね。そこがキョーカとさなぎの差だな、長距離の場合。走るキョーカはカッコイイんです。走るさなぎは冴えないんですねえー最初から終盤みたいな顔なんですねー。短距離ならまあまあかっこいいんだけどな。種目選ぶときにミスったな。ま、後の祭り。子どもに聞かせられない親の愚痴(笑)。

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