Me voici, j'ai eu un an de plus, aujourd'hui! Merci à tous! ― 2011/01/18 19:36:13
佐野洋子作・絵
講談社(1977年)
名作の誉れ高い絵本である。私にとっては、大きくなってから、つまり職業としての絵描きや絵本作家を意識した高校生くらいのときに手にした絵本であるので、この本が幼い心にどのように響くのか想像することができない。
娘が保育園のとき、読み聞かせの時間にこの本がとりあげられたことがあった。年中か年長児だった娘は、「ひゃくまんねんいきたねこ、よんでもろた」といった。「それはさ、ひゃくまんかいいきたねこ、とちゃう?」「そやったっけ?」「百万年、生きるのと、百万回、生きるのとは、かなり違うよ」 「ふうん」「面白かった?」「わすれた」
保育園児には難しすぎる絵本である(笑)。
小学校に入ったら、地域住民で構成する図書館ボランティアさんの尽力で読み聞かせ会は頻繁に行われていて、娘は放課後よく聞きにいっていた。あるとき、やはり本書が取り上げられたことがあった。保育園のときに読み聞かせてもらった記憶は微塵も残っておらず、なんとなくあの猫の顔覚えてるような気がするけどなんでやろ、ぐらいの気持ちで聞いたらしいが、感想は:
「言いたいことはわかるけど、お話としてはどうなん、て感じ」
という、まことに佐野先生には申し訳ないというか恐れ多いというか、分不相応に偉そうなコメントを吐いたのであった。
しかし、無理もないのだ。
小学生にだって難しすぎる絵本なのである。
「ねこ」は生きては死に、生きては死に、を繰り返す。生きるたびに飼い主や友達との出会いがある。そして事故や病気で死ぬ。だがまた生きるチャンスを与えられるのかなんだか知らないが、再びこの世に返り咲いて生きる。それを百万回もやってきた。一回の生は数年間に及ぶはずであるから、年数でいうと数百万年生きている。化け猫である。しかし、それはこの本の主題ではない。ここらへんで、子どもは本書理解への挑戦に挫折する。これは化け猫の話ではない。だとすればなんだ? 百万回めに「ねこ」は恋をする。これが大きなポイントなのだが、いかんせんほんものの恋とか生き甲斐とかに出会う前の子どもたちにとっては、たとえば自分の両親などに照らして、やっと結婚したんか、くらいにしか受け取れない。
「ねこ」は生を全うしてほんものの死に至る。
やっと、死んでもいい境地に達した。
やっと、死なせてもらえるくらいの役割を果たした。
本書は「ねこ」をつかって天寿を全うして召されることの幸せを描いているのである。この「ねこ」の気持ちがわかるには、やはり「天寿を全うする直前」に至る必要があろう。
本書は、だから、じつにさまざまな年齢の人々に読まれているし、十人十色の受け止めかた、感想が生ずるのも当然なのである。ウチの子は今のところ好きではないけれど、彼女の同級生には感動した子もいたかもしれない。
中学校に入ってからは、なんと道徳の時間に本書が取り上げられたという。たしか1年のときにはほかの本と一緒に紹介されて、生と死、老いのことについて話し合ったとかなんとかいっていた。さらに、3年になってまた取り上げられ、道徳は担任の受け持ちなので、あの嶋先生が例の調子で授業をしたそうである。
「嶋先生は通りいっぺんのきれいごとばっかりの発言とか嫌いやねん」
「そやろな」
「そやから、誰かがいわはってん、ねこは最後に死ぬことへの恐怖を克服したんだと思います、とか。ほかにも、そういう真面目な答え、ゆわはった人、何人かいて」
「へーーーえ!!!」
「そしたら嶋先生、ほんまか、ほんまにこの絵本読んでそんな感想もったんか、どこ読んでそんなふうに思たんか教えてくれ、とかゆわはんねん」
「いけずやなあ、しまぴょん」
「みんな、しどろもどろ」
「そやなあ。あんたは何かいうたん?」
「ウチの猫がこんな猫やったら嫌やなあと思いました、って」
「ストレート過ぎるな、それは」
「なんで嫌なん、って聞かれたし、ウチの猫は、赤ちゃんのときにウチに来てそれからずっと一緒にいるのに、もし、私の知らないところでそんなにたくさん生きたり死んだりの経験いっぱいしてるなんて想像できひんし、してみても気持ち悪い、って答えた」
我が娘は正直である(笑)。表面的なストーリーしか追えていないことの証左だが、やはり、中学生にすら難しい絵本なのだ。
猫を飼っているから余計にマイ猫と重ねて違和感をもつのは否めない。「ねこ」を猫として読んでいる間は、その域を出ない。しかたないのだ。
あまりにたくさんの人々が読んで、いろいろな評価を下されているので、大人になってから再読しようにも、情報が邪魔をして、純粋な気持ちでは向かえないかもしれない。名作といわれる書物の悲劇的な一面である。この絵本を読んでもはや「邪悪だ」なんて感想はもてないのである(笑)。
天邪鬼な私は、この本に初めて出会ったとき、絵は好きだけどストーリーはわかりにくいな、とウチの子そっくりの(笑)横柄な感想をもったものだ。そして、ええ歳になったいまでも、その評価はあまり変わらない。佐野洋子さんがこの本を通じて言いたかったこととはべつに、一冊の絵本としては、やはり、わかりにくく対象年齢を絞りきれない難儀な一冊に数えられるのではないかと思うのだ。
私は佐野洋子さんの『おじさんのかさ』は大好きである。何度も図書館から借りて、娘に読み聞かせたものだ。エゴイスティックなほどに。
でも、佐野洋子さんの絵本で私が知っているものは、じつはこの2作しかない。佐野さんはその生涯に多くの著作を残されたが、絵本はあまり多くはない。本書の絵は好きだと書いたが、といって佐野さんの絵のファンになるほどではなかった。世の多くの人がそうではないかと思う。幼児受けするものは描いていないし、売れたからといってその絵本の続編なんかつくろうとはしなかったようであるし。
寡作だからこそ、『100万回生きたねこ』が突出して支持されているともいえるのかもしれない。
絵本は、罪な存在である。
大人の感性でよしあしを決められてしまう。子どもは「よい」本しか与えてもらえない。なのに、人生の間には、時にそこからはみ出た本、つまり「よくない」本にも感動する。そのとき、そんなもんにカンドーしてしまう俺ってアタシって、と卑下せず素直に自分を感動させてくれたものを受け容れてほしいものだと思う。佐野さんはきっと、そういう意味で、児童書としてはよくないほうに分類されるかも、ぐらいの気持ちで本書を描いたのではないだろうか。そう思うとなんとなく得心するのだが、考え違いだろうか。
佐野さんはかつて、ある児童文学賞の審査員をされていた。その第一回目、ある作品が受賞したが、佐野さんはその作品には反対票を投じた。最後まで支持しなかった。彼女のその作品への批評を読んで、私はものすごく共感を覚えた。そうよそうよ、だからあたしもこの本嫌いなのよ! と。その作品も、一躍有名作家になったその人の他の作品も、私は相変わらず好かんのであるが、もしかしたら佐野さんは私などよりずっと柔軟なアタマと感性をおもちだろうから、評価を変えてらしたかもしれない。ま、それが、たったいちど、「佐野洋子」を偉大に思った出来事だったのである、私にとって。
佐野洋子さんはウチの母より二つも若いのに、亡くなった。佐野さんの人生をあまりよくは知らないが、百万回生きて、挙句天寿を全うした化け猫だったかも、またそんなふうに彼女を思うことも、許す境地で逝かれたであろうと思うのである。私もぜひ、化け猫並みに何万回も生きて面白おかしい人生をいっぱい経て、最期に至りたいもんだ。さて今のこの生は、何回目なのだろうか。どっちにしろ、今日はその節目のひとつであったりする。あーあ。