Bravissimo!2012/04/06 23:56:19

娘のバレエの発表会が4日、無事開催され無事終了しました。
ご鑑賞くださったみなさま、応援くださったみなさま、ありがとうございました。心より御礼申し上げます。




どうしてアサブロって写真のタテヨコを理解しないのかしら(笑)
いろいろ小細工したけどどうしても正しく乗っかってくれへん(怒)
もううっとうしいからいじるのはやめたから、もういいけどね。
他のブログではうまくいくのに。

たくさんの花束、食べきれないほどのお菓子、可愛い小物など、抱えきれないほどの贈り物をいただきました。ええ、ええ、抱えきれないけど全部私が持ちましたっつーの。

ほんとうにありがとうございました。

娘は今回重要な役どころをいただいたので、なにかと学ぶこと多く、途中でううううううううと唸っておりましたが、自分なりに消化して演じきりました。本番2週間前になって修学旅行で1週間、米国旅行を経験したのも、よい方に働いたみたいです。アメリカがどうこうということではなくて、少しレッスンから離れる時間があったことが、です。旅行中だからと暴食せぬよう自己管理できたし、レッスンから離れているぶん余計にストレッチなどを入念にし、体調管理に努めたと言っていました。
……我が子ながら、えらいなあ(笑)

さらに精進してダンスのテクニックと表現にみがきをかけていきますから、また次も、ご覧いただける機会のありますように。

おつかれ、さなぎ。




Renaissance...2012/04/10 23:24:01


ポートタワー。


『復活の日』
小松左京著
ハルキ文庫(角川春樹事務所/1998年)

神戸へ行ってきた。
小松左京は神戸の人なんだそうだ。本書が草刈正雄とオリヴィア・ハッセイ主演で映画化されたとき私は高校生で、たしかバスケット部で仲良しだったよしえちゃんと観にいった。


昼間昇ったタワーがライトアップされた。ベイエリアのレストランの窓から。

伝染病のせいで人類が破滅に向かう話だ。ウイルスに感染した人がどんどん死んでいく。死体からも感染するのでどんどん焼却する。遺体が山と築かれてそれをまとめてバーナーで焼き尽くすシーンが気持ち悪かったことをよく覚えている。ウイルスを密封してある試験管が誤って山中に投げ出されて、その中身が一気に拡散して感染が広がって、人々をパニックに陥れるさままでは、よく描かれていたように思う。人類がほぼ死滅して、南極にいたわずかな人々だけが生き残り、さらには核爆弾の乱発とか、草刈正雄がオリヴィア・ハッセイのもとまで戻る道程とか、そのあたりがつまらなかった。つまり、よかったのは物語の序章だけでおおかたがダメだったということだ。スケールの大きい話でたいそうな俳優陣を起用していたように思うが、シナリオと編集がマズかったんじゃなかろうか。当時の私はただただ映画が大好きな子どもだったが、今よりはずっとハイペースに劇場へ足を運んでいたので、今よりはずっと映画作品を観る目が肥えていたんじゃないかと思う。今あの『復活の日』を観たら、ノスタルジーも手伝ってけっこう楽しめるんじゃないだろうかとも思う。

翌日は北野へ。


映画を観て何年もあとになって、小説『復活の日』を読んだ。当ブログレギュラーメンバーのみなさんはご存じだが、私はあまりSF小説は読まない。普通の小説も読まないけど。その全著作を余すところなく読むほどに愛した作家は横溝正史だけだ。ご想像いただけるかと思うが小松左京がいかに大作家でも、私はほとんど見向きもしなかったのである。『復活の日』を手にしたのは図書館で、たまたま、ホントにたまたま目に入ったから、というだけだった。ただ懐かしくて、それと、スクリーンで観たバーナーのシーンと、看護婦が患者とボートで沖へ出るシーンが不思議とリアルに思い出されて、あの駄作の原作はいったいどんな小説なのかという興味がにわかに湧いたのだった。

モーツァルトが考案したと伝わる黒鍵と白鍵を逆にしたピアノ。ピアニストの指を美しく見せるためだとか。


そのときからまた、何年も何年も経った。最近初めて知ったのだが、小松左京が本作を執筆したのは1964年だそうだ。誰かさんの生まれ年じゃないか(笑)。本作が書かれてからいくつもの年月が流れて、神戸が震災に見舞われ、その記憶も褪せないうちに東北が震災に見舞われた。小松左京は『日本沈没』という作品も書いている(もちろん私は読んでいないが)。描かれてきたのはあくまで虚構だったはずだが、確実に、この国は、沈もうとしている。ただ、日本が沈んで、世界中が核に汚染されても、生き残りたちがこの星を復活させることだろう。本作のほうはそういうふうに希望を持たせる内容だったと覚えている。

最近読み直したわけでもないのだが、神戸へ久しぶりに出向いて、若い時に観たさまざまな観光名所を娘とともに再び訪ねて、なぜか小松左京と『復活の日』を思い出したのである。


どこかな? 異国情緒が売りの神戸だけど、ここだけ見るとほんとに日本じゃないみたい。私はマントンを思い出したよ。ああ、古い記憶。



Qu'est-ce qu'ils sont beaux les cerisiers de la nuit illuminés...2012/04/16 02:03:44

『優雅なハリネズミ』
ミュリエル・バルベリ著 河村真紀子訳
早川書房(2008年)


著者夫妻は京都在住だそうだ。とはいえそれは2009年時点での話なので、今もずっと変わらずいらっしゃるのかどうかは知らない。左京区に家まで買って腰を落ち着けたという情報もあるし、著者本人のコメントとして「もうどこにも行きません。世界でいちばん好きな場所に住んでいるんだから」というような台詞が散見される。いいわねえ、よいご身分だわ、本が売れて儲かってそれまでの職を捨てることもできちゃって。なんてひねくれてみせるのはやめとこう。そこまで愛されるまちに住んでいるということを無邪気に喜びたい。

とかく私たちのまちはよその人に愛される。ここひと月ほど、休日平日を問わずまちは観光客と花見行楽客でこれでもかというほど賑わっている。一年前はあんなに閑散としてたというのに。数日前、悲しい事故がよりによって祇園の真ん中で起こってしまったが、一年前だったらこれほど犠牲者を出さずにすんだかもしれないのに、と不謹慎なことを思った私である。事故当時私はとある要人のインタビューのためにとある場所へ向かっていたが、上空を旋回する何台ものヘリコプターの轟音に辟易した。応接室へ入ってもヘリの音は窓ガラスを突き破るかと思うほど大きく響いていた。録音に差し障るじゃないか。私が考えたのはそんなことだった。どうせまたどこかの位の高いかたが御苑へ向かっているのだろう……。要人は奇しくも、京都が愛されるのにはわけがあるんです、だってね……と、我がまちの魅力について切々と語っていたのだが、同じ頃、わがまちを愛して観光に来てくださったかたたちが亡くなったのである。理不尽である。

いっぽうで、わがまちは、けっこう毛嫌いもされる。たぶん、ジモティーがいちばん毛嫌いしてるんじゃないか(笑)。私もこのまちを出たくてしょうがなかったが、先祖代々のDNAは恐ろしいもので、あんなにあちこち旅をしたのに、もはやここ以外で暮らすことはできなくなっている自分にふと気づいたのはいつのことだったか(笑)。京都人はどこまでいっても京都人であることをやめられないから(いや、どこの人だってその点は同じなのだが)どこへ行っても水が合わずになんだか座り心地のよくない椅子に長時間座らされているような、居合わせる人たちとは「間」の悪い会話しかできなくて、あけすけで、ざっくばらんで、歯に衣着せぬ、直球勝負の、正直な人たちってなんてつきあいにくいのだろう(笑)ということを思い知ってスゴスゴと撤退するのである。京都でうまくやっているよその人は、その腹黒い京都人との会話のさじ加減をマスターした人々であり、素直な返事をよこさず考えている振りばかりして本心を見せずに取り繕ってばかりの煮え切らない態度に対して、ストレートな物言いで勝利した人々である。惨敗を喫した人々は四面楚歌に陥り村八分に遭い(申し上げておくがこのかたがたに非はないのである)、よりどころをなくして転出を余儀なくされ、二度と行くかあんなとこ、と悪態をつく。それがわがまちである。

『優雅なハリネズミ』を読んで、私のまちにも、あるやんか、よう似た話、と思ったのだった。下層階級は知性を持つ必要がないけれど、それなりの地位にある人が教養なく下品であることは許されない。成り上がりはその点で不足していることが多々あるので、取り巻きたちはうわべでは褒めそやしてみせるけれど裏では舌を出している。金はあっても礼儀と分別をわきまえない輩(この手がやたらと増殖中だが)は敷居を跨ぐことすらできない世界が歴然とある。じゃあ、教養豊かで礼儀作法もわきまえた知性あふれる貧乏庶民はオッケーかというと、もとより金がないと門前にさえ立てないので勝負にならず最初から問題外である。

本書の主人公、貧乏な下層階級出身のルネは高級アパルトマンの管理人をしている。この管理人をフランス語でコンシェルジュという。今日本では「コンシェルジュ」なんつう職業名が闊歩していて聞くたび私は笑いたい気持ちを抑えることができないのだが(早い話が聞くたび吹き出すのじゃ)、フランスでアパルトマンの管理人と言えば学のない貧困層出身者が他にできることがないからやる仕事なのだ。あの人ったらまったくコンシェルジュよね、というときそれは「がさつでおしゃべりな人よね」を意味する。「職業に貴賤はない」という言葉はかの国の辞書にはない。※「不可能」はある。

ところがルネは超一級の知性の持ち主。あふれる教養で高級アパルトマンの住人たちの程度の低いおつむの中を透視して憂う。このルネの独り語りに、もうひとりの主人公・12歳の少女パロマの日記が絡む。読者が読まされるのはどちらかというと二人のヒロインの頭の中ばかりで、よく憧れの対象として引き合いに出されるパリのアパルトマンの暮らし・その悲喜こもごも、みたいな空気は微塵もないのに、なぜかぐいぐいと引き込まれてページを繰ってしまう。

ただ日本人男性のオヅが出てくるところで、日本人としては嬉し恥ずかし痛し痒し(なんやそれ)、ちょっとなーちゃうやんなーこんな人いそうやけどいいひんで。とでも言っておこう。

この本のことを私の前で口にしたのはろくこさんである。たしかS高近くの小さなカフェで。知ってますかと聞かれて私はにべもなくううん知らんと答え、この本についてはその場の話題にすらならずに消えた。でも、じつはさ、それからずっと気にかかっててん。忘れへんかってん。やっと読んだのよー。というか、こないだ久しぶりに仏文学の書架の前に立ったら偶然目の前にあったん、ほいで、見つけたあーって思て。

毎年恒例、お城の夜桜を先週観に行った。よく見れば毎年桜の表情は異なるのだろうけれど、私たちは花を愛でるというよりは、夜の空気と薄暗いイルミネーション、青空の下で観たほうがはるかに美しいはずの数々の桜の、千年前にはあり得なかった「電気に照らされて闇夜に浮き上がる」幽霊のような立ち姿と、シルエットだけがかろうじて見える枯山水との奇妙な調和を、大勢の行楽客の砂利踏む足音をBGMにして、しばし非日常の休息を楽しんでいるのである。私たちもまた、知性ある下層民である。ルネのように知性のないふりまでしなくてもいいけれど、その人によりふさわしいしかたで表出されるべきものが知性であるのだからして、階級の上下を問わず、殊更にインテリぶるのは下品、というのは古今東西変わらない。

Présidentielle!!!2012/04/20 02:00:28

この日曜日、4月22日はフランス大統領選挙なんだけど……。
あのー、「大統領」をさ、国民直接投票で選ぶんですけどー。
……。
ぜんっぜん、話題にならないな(笑)。
みごとなくらい。
そら、そやな。
ウチら、それどころ、ちゃうもんな。

前回(5年前)に引き続き、過去最低の選挙かも。何が最低かって? そらアンタ、候補者のクォリティにきまっちょる(きっぱり)。

友達数人(フランス人)が京都へ遊びに来てるんやけど……。
キミタチ、不在者投票は済ませて来たのかね?(笑)

Fatiguée!!!2012/04/25 23:47:25

疲れた!

疲れた(-_-;) 疲れた(-_-;) 疲れた(-_-;) ⊂(_ _⊂⌒つドテッ

って、なんか娘のブログみたいになってる(笑)

1年半くらい前、とあることで医者に診てもらったがそのときひどく顔色が悪いと言われた。顔色が悪いというのはよく言われることで、私は若い頃からあまり血色は良くないし、低血圧だし、地黒だし。だからその医者にも「あ、あたし、いつもそういわれますよ」というと医者は私の言葉などまるで聞いてないように、その顔はかなり貧血だと思う、念のため血液検査をしましょうといった。
で、私の血液を検査に出してくれたんだが。
来週また来なさいと言われていたんだが。

別に他意はなく、検査の結果が怖いとかアテにしてないとかそんなこともまったくなく、ただただ仕事に忙殺されて、別に悪いところもないのにただ検査結果を聞くためだけに医者に会いに行くことにあまり重要性を感じなかったからに他ならないのだが、本当に余分な時間が10分もなくて、電話すらできないまま、1年半も経ってしまった。
で、別に検査結果が聞きたくて1年半ぶりにその医者に会ったわけではなく、1年半前にあった症状がまたちょい出たので薬を処方してもらおうと訪れたのである。

ありましたよ、検査結果。
ファイルをがさごそ探してくれていた助手さんが、数値を打ち出したレシートを手渡してくれた。
相当な貧血でしたね。今は少し回復されていると思いますが、この値はひどいです。
医者はそう言ったあと、「また1年半後ではなく、せめて半年以内になんとか時間を作って、きちんと検査を受けてくださいね」と無理に目元に笑みをつくった。
マスクをしているので顔の表情が半分しかわからない。
だからことさらおおげさに「目」で表情をつくろうとしているように見える。
いささか不自然だ。

もらった検査結果を調べると、赤血球の数は十分なのだが、赤血球の質がよくないようだった。ヘモグロビン(色素)が足りない、ヘマクリット(だったっけ? タンパク質)も全然足りない。
健康、というか正常な赤血球の状態が硬式野球ボールとしたら私の赤血球は空気の抜けたゴムまり、というところか。そんな品質でいくら数だけ揃っていてもしゃあないのだ。

んなこといわれてもなあ。

疲労感じたいはいつのときも何かに熱中したあとにはやってくるもんだから嫌いではないが、たしかにここ数年の、端的に仕事「だけ」が原因の疲労感は不快きわまりない。もうアタシには明日の朝は来ないわと本気で覚悟するほど困憊して床につく、そんな状態はたしかに精神衛生上もよくない。疲れても疲れても疲れても、今日はシュートを5本決めたわよ、とか、今日はこの子といないいないばあーして遊んだのよ、とか、泣き止まなくて困ったわ、とか、お喋りなおばさんにつかまっちゃって、とか、そんなことなら、私は健やかで快い眠りにすやすやとつくことができるであろう。疲労の大きな原因のひとつ花粉について思いをめぐらすと私の思考回路はこの国の政治の無策にまたしてもワープするのでそれはできるだけしないようにし、会社の仕事を思い出すと仕事ができないどころかひとりの社会人として成人としてその存在意義を疑わねばならないような面々がモグラたたきのモグラのようにぼこぼこ出てきて夢にまで出てうなされるだけなのでそれもやめるようにしなくてはならない。

いいことだけを考えるようにしよう。
今年もまたやって来たアシナガバチの巣作りとか。
今年もまた咲いた梅と桜とロマランとカメリアのこととか。
ローレルの枝をお裾分けして友達に喜んでもらったとか。
どうやらニコラが一期だけで退場するかもしれないとか。
申請していた奨学金の審査に通ったと聞いたこととか。
娘がお弁当をおいしいといってくれたこととか。

思考が上向きになったところで(笑)お米セットしてお風呂はいって寝ることとしよう。

それにしても疲れた。

疲れたっ……

いかんいかん。