Les fleurs les fleurs les fleurs... ― 2013/04/04 18:33:25






Le lac des cygnes ― 2013/04/07 04:32:49



Merci! ― 2013/04/08 18:33:06
会場まで足を運んでくださったかた、応援メッセージをくださったかた、黙って見守ってくださったかた、みなさんありがとうございました。
「白鳥の湖」は3年に1回のペースで発表しています。さなぎが習い始めてからは、今回が4回目の「白鳥」。
毎回、前回の反省を反映して、より工夫を凝らし、「子どもたちの発表」にとどまらない、大人の鑑賞に堪えうる舞台を目指して練習を重ねます。今回も、舞台全体として前よりクォリティも上がったと思います。毎回子どもたちの技術レベルが違うのを、何とかフラットにしようと先生方が知恵を絞り、振付・演出に手を加えてなんとか形をつくっていきます。先生方の要求も結構なもんですけど、よく子どもたちがついていきます。たいしたもんだなあ、それぞれにと感心します。
さて、さなぎは(本人いわく、「ちょっと間違うた。てへへ」)情感たっぷりにオデットを踊り、技術の拙さを演技でカバー(笑)。観覧くださったお客様に「素晴らしかった」とお褒めいただきました。
いつもの10倍くらい多い(笑)ブーケの数々。

キッチン前に並べて記念撮影。





さなぎのいちばん好きな花はひまわりなのです♪

ありがとうございました。皆さんの温かい励ましを糧に、これからも精進いたします。
Et le Math perd son caractere, c'est ca? ― 2013/04/16 21:51:11
『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)
私たちは著名人に弱い。ジャンルを問わず、弱い。私など、取材で名の知れた人に会うことが決まった時は周囲に言いふらすし(おいおい、守秘義務は? 笑)、印刷物が上がったら上がったでニーズのない人にまで配りまくって不思議な顔をされる(「これ、何? この人興味ないんですけど?」)。「その道」の権威から売れない芸人まで、世界を股にかける芸術家からローカルな地元の名士さんまで、これまでさまざまな人に会ってじかに話を聞く機会に恵まれた。それで感じることは、いったん名が売れてしまったら、その名が独り歩きし勝手に当人の人格をつくりあげて流布する危険性とつねに背中合わせで、その事実がその人を強くもするし、潰しもするということだ。私のこれまで会った人たちは幸いその世界で生き延びておられるようである。会って初めてとても素敵な人であるとわかったケースもあれば、あんなに憧れていたのに今日の取材をあんなに楽しみにしていたのに幻滅したあ~、なんてケースもある。最初から「好かんなー」と思っていて、やはりその気持ちを変えることができなくて「やっぱし好かん」人もある。
ダンサーを目指す娘には、範としたいダンサーが何人かいて、DVD鑑賞したりYouTubeで動画を観たりしてつねづね意識している。それ以外にも、評判をとるダンサーには必ず素晴らしい長所があり、部分的にも見習う点がいくつもあるのでこれまたよく見て勉強している。だが、いくら世界が「現代のトップ」「彼女の右に出るもの未だ皆無」と称賛しても、娘にとっては「あんまり好きちゃうねん、この人の踊り」的な、あるダンサーがいる。超ビッグネームのプリマである。バレエを好きな人はみんなこのプリマを好きと言う。でもでも、娘は「好きちゃうねん」。そりゃ、しゃあない。誰にでも何にでも好き嫌いはあるっつーこった。
たとえば、日本女性全員がイエスといっても私だけは絶対ノーというであろう問いに「キムタクはイケメンか?」というのがある(誰も問わないけど)。仮に、ウチの三軒隣に呉服屋とか乾物屋があったとしてそこの若旦那がああいう顔をしていたら私は彼がイケメンであることを大肯定したであろう。しかし、そうではない。キムタクは芸能人で、ジャニーズで、トップアイドルなのだ。こういう世界に生きる人が「イケメン」であるというとき、一般人を「イケメン」というとき、その「イケメン」の基準は同じであってはいけないと思う。ま、それはどうでもいいが、全員が是としても自分だけが非ということはよくある。
このケースと同じで(同じか?)娘はその「世界が認めるプリマ」の舞台映像を見ても「なんか違う」と感じ、好きになれないでいたのだ。
だが、その当のプリマに先月の海外遠征で指導を受ける機会があった。スタジオで指導をする彼女の一挙手一投足、その声の透明さと張り、明朗で説得力のある言葉、どれもが娘を魅了した。白鳥や妖精や王妃を踊る舞姫ではなく「一指導者」としてそのダンサーを仰ぎ見たとき、「なにがなんでもこの人の持ってるもん全部吸収せな、と思った」そうである。
私だって、そんなキムタクのインタビューがもし実現したら小躍りするだろうし、全然関心なかったくせに一瞬にして「キムタクは超イケメンよ」と目をハートにして周囲に言いふらす、そんな自分を想像するのはあまりにたやすい。とりあえず誰であれ著名な人物には弱い(笑)。
写真や映像による情報はけっしてすべてを言い尽くさない。その人がその人である実際、その存在理由の核心といったものは、実物に接して初めて、たぶん、体感する。その人を理解するまではなかなか遠い道のりかもしれないけど、何か強烈に迫りくるものをじーんと感じることはある。
《小林 岡さんがどういう数学を研究していらっしゃるか、私はわかりませんが、岡さんの数学の世界というものがありましょう。それは岡さん独特の世界で、真似することはできないのですか。
岡 私の数学の世界ですね。結局それしかないのです。数学の世界で書かれた他人の論文に共感することはできます。しかし、各人各様の個性のもとに書いてある。一人一人みな別だと思います。ですから、ほんとうの意味の個人とは何かというのが、不思議になるのです。ほんとうの詩の世界は、個性の発揮以外にございませんでしょう。各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。個性はみなちがっているが、他の個性に共感するという普遍的な働きをもっている。それが個人の本質だと思いますが、そういう不思議な事実は厳然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳と思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのままでないと、出しようがないと思います。一人一人みな違うから、不思議だと思います。漱石は何を読んでも漱石の個になる。芥川の書く人間は、やはり芥川の個をはなれていない。それがいわゆる個性というもので、全く似たところがない。そういういろいろな個性に共感がもてるというのは不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感がもちやすいのです。》(「数学も個性を失う」26~27ページ)
わかりにくかったと思うけど、キムタクやプリマの例は、彼らにすでに強烈な「個」が備わっていて、唯一無二であることは否定しようもなく、しかも多くの共感を得ており、彼らに付随するもの、関わり産みだされるもの、そうしたすべてが彼らの「個」を離れていない、ということに、上記引用箇所で岡潔の言及していることが符合すると思ったのである。強い個性を放つ漱石や芥川の小説を嫌いな読者もいるだろうが、そのようなことをものともせず、漱石や芥川の小説は存在する。私がキムタクをどう思おうと、そんなこととは別の次元で彼が日本のトップアイドルであるという事実は存在する。キムタクが今後どうなるかはわからないけど、時代が唯一無二と認めたものは歴史に残る。逆に言えばそれほど個性が強く発揮されなければ、「千篇一律」「どんぐりの背比べ」で埋没してしまう。そうしたことは数学という学問、あるいは数学者個人の論文にもいえるのだと、岡潔は言うのである。
で、我が身を振り返ったりするわけである(笑)。
べつに時代が認めてくれんでもいいけど、今生きる世界で、唯一無二といえる仕事をしているだろうか、私は?