Et le Math perd son caractere, c'est ca?2013/04/16 21:51:11

史上最強の雑談(4)

『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)


私たちは著名人に弱い。ジャンルを問わず、弱い。私など、取材で名の知れた人に会うことが決まった時は周囲に言いふらすし(おいおい、守秘義務は? 笑)、印刷物が上がったら上がったでニーズのない人にまで配りまくって不思議な顔をされる(「これ、何? この人興味ないんですけど?」)。「その道」の権威から売れない芸人まで、世界を股にかける芸術家からローカルな地元の名士さんまで、これまでさまざまな人に会ってじかに話を聞く機会に恵まれた。それで感じることは、いったん名が売れてしまったら、その名が独り歩きし勝手に当人の人格をつくりあげて流布する危険性とつねに背中合わせで、その事実がその人を強くもするし、潰しもするということだ。私のこれまで会った人たちは幸いその世界で生き延びておられるようである。会って初めてとても素敵な人であるとわかったケースもあれば、あんなに憧れていたのに今日の取材をあんなに楽しみにしていたのに幻滅したあ~、なんてケースもある。最初から「好かんなー」と思っていて、やはりその気持ちを変えることができなくて「やっぱし好かん」人もある。

ダンサーを目指す娘には、範としたいダンサーが何人かいて、DVD鑑賞したりYouTubeで動画を観たりしてつねづね意識している。それ以外にも、評判をとるダンサーには必ず素晴らしい長所があり、部分的にも見習う点がいくつもあるのでこれまたよく見て勉強している。だが、いくら世界が「現代のトップ」「彼女の右に出るもの未だ皆無」と称賛しても、娘にとっては「あんまり好きちゃうねん、この人の踊り」的な、あるダンサーがいる。超ビッグネームのプリマである。バレエを好きな人はみんなこのプリマを好きと言う。でもでも、娘は「好きちゃうねん」。そりゃ、しゃあない。誰にでも何にでも好き嫌いはあるっつーこった。
たとえば、日本女性全員がイエスといっても私だけは絶対ノーというであろう問いに「キムタクはイケメンか?」というのがある(誰も問わないけど)。仮に、ウチの三軒隣に呉服屋とか乾物屋があったとしてそこの若旦那がああいう顔をしていたら私は彼がイケメンであることを大肯定したであろう。しかし、そうではない。キムタクは芸能人で、ジャニーズで、トップアイドルなのだ。こういう世界に生きる人が「イケメン」であるというとき、一般人を「イケメン」というとき、その「イケメン」の基準は同じであってはいけないと思う。ま、それはどうでもいいが、全員が是としても自分だけが非ということはよくある。

このケースと同じで(同じか?)娘はその「世界が認めるプリマ」の舞台映像を見ても「なんか違う」と感じ、好きになれないでいたのだ。
だが、その当のプリマに先月の海外遠征で指導を受ける機会があった。スタジオで指導をする彼女の一挙手一投足、その声の透明さと張り、明朗で説得力のある言葉、どれもが娘を魅了した。白鳥や妖精や王妃を踊る舞姫ではなく「一指導者」としてそのダンサーを仰ぎ見たとき、「なにがなんでもこの人の持ってるもん全部吸収せな、と思った」そうである。

私だって、そんなキムタクのインタビューがもし実現したら小躍りするだろうし、全然関心なかったくせに一瞬にして「キムタクは超イケメンよ」と目をハートにして周囲に言いふらす、そんな自分を想像するのはあまりにたやすい。とりあえず誰であれ著名な人物には弱い(笑)。

写真や映像による情報はけっしてすべてを言い尽くさない。その人がその人である実際、その存在理由の核心といったものは、実物に接して初めて、たぶん、体感する。その人を理解するまではなかなか遠い道のりかもしれないけど、何か強烈に迫りくるものをじーんと感じることはある。

《小林 岡さんがどういう数学を研究していらっしゃるか、私はわかりませんが、岡さんの数学の世界というものがありましょう。それは岡さん独特の世界で、真似することはできないのですか。
 岡 私の数学の世界ですね。結局それしかないのです。数学の世界で書かれた他人の論文に共感することはできます。しかし、各人各様の個性のもとに書いてある。一人一人みな別だと思います。ですから、ほんとうの意味の個人とは何かというのが、不思議になるのです。ほんとうの詩の世界は、個性の発揮以外にございませんでしょう。各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。個性はみなちがっているが、他の個性に共感するという普遍的な働きをもっている。それが個人の本質だと思いますが、そういう不思議な事実は厳然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳と思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのままでないと、出しようがないと思います。一人一人みな違うから、不思議だと思います。漱石は何を読んでも漱石の個になる。芥川の書く人間は、やはり芥川の個をはなれていない。それがいわゆる個性というもので、全く似たところがない。そういういろいろな個性に共感がもてるというのは不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感がもちやすいのです。》(「数学も個性を失う」26~27ページ)


わかりにくかったと思うけど、キムタクやプリマの例は、彼らにすでに強烈な「個」が備わっていて、唯一無二であることは否定しようもなく、しかも多くの共感を得ており、彼らに付随するもの、関わり産みだされるもの、そうしたすべてが彼らの「個」を離れていない、ということに、上記引用箇所で岡潔の言及していることが符合すると思ったのである。強い個性を放つ漱石や芥川の小説を嫌いな読者もいるだろうが、そのようなことをものともせず、漱石や芥川の小説は存在する。私がキムタクをどう思おうと、そんなこととは別の次元で彼が日本のトップアイドルであるという事実は存在する。キムタクが今後どうなるかはわからないけど、時代が唯一無二と認めたものは歴史に残る。逆に言えばそれほど個性が強く発揮されなければ、「千篇一律」「どんぐりの背比べ」で埋没してしまう。そうしたことは数学という学問、あるいは数学者個人の論文にもいえるのだと、岡潔は言うのである。

で、我が身を振り返ったりするわけである(笑)。
べつに時代が認めてくれんでもいいけど、今生きる世界で、唯一無二といえる仕事をしているだろうか、私は?

コメント

_ コマンタ ― 2013/04/17 15:36:00

ふ、深い。彼はイケメンじゃないんだなあ、イケメンというのはね、なんというか、コレ、こういうひとのこと。というコレ。それに出会ったときのおどろき、それまでの概念(たとえばイケメン)が刷新されてしまうような出来事。それにしても娘さん、自分の極めたい分野でそんな超一流のひとと出会うなんて、かんたんに読んじゃったけど、感動的な経験でしたね。やっぱり心を動かしてくれるもののそば(物理的な近距離というわけでもなく)で生きていきたいと思う、ぼくも。蝶子さんの仕事はわからないけど、蝶子さんの存在は唯一無二だと思います、忘れがちだけど(笑)。唯一無二というのは、世界に一人しかいないという意味じゃないんだけど、うまく説明できない。

_ midi ― 2013/04/18 02:16:04

コマンタさん、こんばんは。
しょっちゅう忘れ去られそうになる唯一無二の存在、蝶子です(笑)。そうですねえ、唯一無二っていうのはオンリーワンってだけじゃないですね、たしかに。唯一無二の中には、比類なき、という意味があるでしょうね。あるいは代替不可能、という意味も。私たちは誰もが世界に一人しかいないオンリーワン「世界にひとつだけの花」ですけど、ある種の場面では代替可能な存在です。コマンタさんにとって、忘れられがちな(笑)私は代替不可能ですか?

_ コマンタ ― 2013/04/18 15:35:46

蝶子さんに向けてなにかを書こうとすれば、ネットで出会ったときのことや京都駅脇の中華料理店ではじめてその姿かたちを見たときのことやブログで読んだ記事の数々やが、意識にのぼらずとも、聴こえない音楽のように鳴ってぼくのタイピングを方向付けていると思います。代替は不可能でしょう。ことばで(蝶子さんの存在を)とらえることができないだろうから。蝶子さんの読了本のなかにウィトゲンシュタインの本がありましたが、すべてのものを同じにしてしまう言語の暴力、なんてことを彼がいっているとツイッターで流れていました。言葉を使わずに生きていくことはできないけれど、言葉を使わない理解というのはあると思います。

_ midi ― 2013/04/18 19:29:54

コマンタさん
ウィトゲンシュタインの本はたしか「色彩について」を読んだと思うんだけど、難しかったですね、難しかったけど、なんだか気持ちわかるよ、みたいな感覚でした。色について言葉で言い表そうとすることは、極端だと批判されるのを覚悟でいえば、色への冒涜だと思うのです。印刷の仕事していると、黒を黒といわずスミという慣わしに疑問を感じなくなりますが、でも、美しい長い髪を見れば黒々とした髪、というし、眉墨に真っ黒けのペンシルを使う人は少ないのではないかしら。なんだかんだゆっても言葉がなくちゃ取っ掛かりもないわけだけれど、言葉なしに伝わるもの、わかるものはありますね。それが昇華すれば芸術なんでしょうね。私はイヴ・クラインの青が好きですが、あれは唯一無二の青です。コマンタさんの「イクラ」という掌編も、唯一無二です。

_ コマンタ ― 2013/04/19 13:22:11

最終的には芸術なんだと思う。芸術オンチだけどそう思う。とくに考えもなくスマホの待ち受け画面、ピカソの「泣く女」にしてるけど、なんか落ち着く。イヴ・クライン、ぼくの持っている本のなかに作品がありました。これがクライン・ブルーか。ソメイヨシノなんて桜じゃない(by小林秀雄)って、こういうことなのかなと連想された。「イクラ」のこといってくださってすみません(笑)。もう小説は書けないけど、またなにか書きたいと思った。

_ midi ― 2013/04/19 21:49:39

コマンタさん
どんな死にかたをしたいかと問われたら、絵筆をもってキャンバスに向かっている途中で、なんとなく息絶えた、みたいな、椅子に座ったまま未完の絵のほうに顔を向けたまま、足元に指からすり抜けた筆が落ちている、そんな最期でありたいなって、漠然と思います。
絵を描きながら死ぬためにも、もう一度絵の勉強しなくちゃね。後期高齢者になったらアトリエへ通うつもりなのよ。これって「終活」かな? いくつか描けたら個展を開いて、友達の写真家にきちんと撮影してもらって、そしたら画像送るから、コマンタさんのスマホの待ち受けにしてね(笑)。
そして私の絵に詩をつけてください。それができたら本にするよ、手製本。あ、手製本の制作中に、貼り合わせたページに頬を寄せて死ぬのもいいな。
よし、今から30年計画で頑張るぞ(笑)。

_ コマンタ ― 2013/04/20 12:33:50

なんという、かなしくも美しいヴィジョン。望みどおりの最期がむかえられたらいいなあ。もちろん、画像は待ち受けにさせていただきますよ。そのときその画像にいい言葉が思い浮かぶようにいまできることを考えなきゃ(笑)。

_ midi ― 2013/04/23 00:06:36

コマンタさん
こんばんは。その昔日本人は月月火水木金金と働いて、その後とりあえず日曜は休日ということにして、長いことそんな習慣だったのに、いつしか土日を休日にするようになりましたけど、良し悪しですね。得意先が土日休んでくれるから、私も土日を休むことができ、しばしの非日常を満喫することができます。でも、土日を休むのに必死にならないとしたら、6日間の平日は今よりもう少しのんびりした、もう少し早く家に帰れるウイークデーだったかもしれないもんね。良し悪しだよ(ところでこの「良し悪し」を「ヨシワルシ」って読む人、いい年したオッサンにもいるんだけどさー誰か教えてやんなよ、ねえ)。なんてボヤキとも愚痴ともノスタルジーともつかないつぶやきはこの辺で切り上げてお風呂入って寝ます。あ、その前に明日のお弁当の用意しなきゃ。寒いですねえ、4月の下旬ってほんまかいなって感じ。コマンタさん、この秋は京都で会えそうですか?

_ コマンタ ― 2013/04/28 00:01:13

蝶子さんはつねに忙しいね。しかも頭を使う仕事で。時間がたっぷりないと頭が使えないぼくには信じられないようなライフスタイルです(笑)。ぼくも若いころは物書きにあこがれたことがあったけど、とてもじゃないけどつとまらなかった。では秋に京都で会いましょう。蝶子さんの都合のいい日を土か日で教えてもらって、その日程で宿をとってから、みんなにも声をかける、というのでどうでしょう? 先日クレモンティーヌの記事を読んで京都のことを思ったばかり。

_ midi ― 2013/04/29 14:35:15

コマンタさん
わーい♪ ほんとにホント? よっしゃあ〜〜(笑)
たぶん、11月ね。一緒に紅葉見よー♪♪♪
暖かいGWで、人混み嫌いな私は家で……お仕事です。シーン。
ったくなんとかしたいよこのライフスタイル(笑)

トラックバック