Il fait froid, mais très beau! On va se promener, Maman!2014/12/14 12:08:07

ほったらかしにしているブログに、それでも訪問してくださっているかたがいらっしゃると見えて、管理画面を開けると出るアクセス順位がいつも100番台である。ありがとうございます。

みなさん、ほんまにおおきに。なまけもんですんません。そやけど、なまけもんなんは、ブログだけですねん。自分のブログに触る暇、1分もあらへんの、毎日。働きまくってますねん、毎日。何の仕事か、て言うたら家事と介護ばっかしなもんで、生産性は全然あらへんの、毎日。蓄えの底の尽きる日の到来がリアルになってきて、笑てられへんけど、今の暮らし、気に入らんこともないし、けっこう穏やかな気持ちで家事と介護三昧してますの、毎日。

面白い本、連日たくさん読んでて、記録しときたいわあという気持ちはいっぱいあるねんけど、言いたいこと書きたいこと考えたいこと次から次に湧いてきて、いつもタイムリミットで「ああまた今度にしよ」とつぶやいて一日終わる。
面白いことがたくさんある。ハマってしまうと抜け出せないくらい、面白そうなことが、おいでおいでと手招きしている。誘惑に負けると容易にその世界に溺れてしまうので、ぐっと心の歯を食いしばって(リアルの歯は歯茎が不健康なので食いしばってはいけませんと歯医者にいわれている。笑)手招きに背を向ける。ああ、くやしい。試食してみたいあの世界……なんていうことがほんましょっちゅうある。

なんでこの世にはこんなに面白いことがゴロゴロ転がってんのやろ? なんで、そやのに、面白いことがみんなに行き渡らへんのやろ? お金がなくても、仕事がなくても、友達がいなくても、家族がいなくても、心の琴線に触れる何か面白いことに出会えさえすれば、自ら命を絶つなんて選択をしなくても、生き延びることができたはずなのに。

母は昔、よく「もうわたし首吊る」と口走った。本気でそんなことができるわけはないのに。でも、それほど辛かったのはたしかだ。それでも、思いとどまった、というか、実践場所がなかったというか、とりあえず「首吊る」気配はまったく見せないまま辛さをやり過ごして、その主因たる夫も見送り、現在に至る。
母は今思うように身体を動かすことができないため、私が介護しているが、ときどき、首を吊らずに生き延びてきたことを、この人はほんとうに幸いだと感じているのか、とふと思う。孫娘が送ってくれたバースデーカードには、「私の引退公演まで生きててね」と書いてあった。引退公演って、まだデビューもしてへんのになあと涙声で笑った。辛い毎日だったけれど、娘や息子の、高校合格、大学合格、就職決定、海外旅行の土産、著作の出版、結婚や孫の誕生などなど、欲張らず生きていれば訪れるささやかな出来事の喜びを積み重ねることで、自身を納得させてきたに違いないと、母を眺めていて思う。生きているせいで、こんなに世話をかけているし、こんなにお金も遣わせているし、勤めまで辞めさせてと、自分を責めることもたびたびあるだろうけれど、なんだかんだいいながら私たちはべつにさほど苦にもせず母を抱えているのである。

それはときに、子育てよりも、未来が洋々とはしていない分しんどいし、猫の世話よりも、物理的に重くて、しっかり文句を言われたりすることもある分いまいましい。だけど、たぶん、いろいろなことがあったけれども終(つい)の記憶に残るかもしれないと思うと、とっとと忘れ去られそうな子育てよりも、全然覚えてくれるわけない猫の世話よりも、気持ちを込めてできることでもあるのである。

寒いなあ。
でもとても天気がいい。どこまでも澄んだ青空のもと、散歩がてら商店街を歩きに行こう。母の身支度も、万端のようだ。昨日は事始めだったし、お正月準備の話でもしながら歩こうか。

Penser et réfléchir. Ce sont seuls ce que je puisse faire.2014/12/17 23:57:14

相変わらず購読しているメールマガジン「チェチェンニュース」から抜粋、一部改行等編集して転載。

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差出人: チェチェンニュース編集室 mag2 0000093520 <mailmag@mag2.com>
件名: チェチェンニュース#443 最近の銃撃戦とグローズヌイ
日時: 2014年12月7日 6:09:43 JST

チェチェンニュース(転送・転載・引用歓迎)

12月4日に、チェチェンの首都グローズヌイで、ゲリラと治安部隊の戦闘がありました。日本語の報道でも流れていたので、知っている方も多いかと思います。10月にも大規模な爆破事件があり、不穏な情勢は続いています。
これらの件についてはそれ以上の情報はありませんが、最近チェチェン人から直接聞きとったインタビューをお伝えします。事件の背景や、今のグローズヌイの雰囲気が少しでも伝わるといいのですが。ご一読ください。(大富亮)

(中略)

■最近のグローズヌイ

チェチェンとヨーロッパを行き来している、ビジネスマンのチェチェン人、Dさんに話を聞きました。ちょっと尻切れトンボになってしまいましたが、情報として紹介します。

チェチェンニュース(以下CN):10月5日にも、グローズヌイで爆破事件があって警察官5人が死亡しましたが?

Dさん(以下D):その時、たまたまグローズヌイにいました。大きな爆発音が聞こえたけど、「男が外に出たら危ない、すぐ拉致される」と言われて、家の中にずっといました。
 カディロフ首長の誕生日で、いろいろな有名人を呼んでイベントをやっていました。クリミアから政治家も来ていましたね。その最中の自爆攻撃だから、カディロフはかなり恥をかかされたわけですが、「祭りは祭りだ」とか言って、続けました。その後花火の打ち上げもあったみたいだけど、さすがに警官も殺されているのに、それはないだろうと、警察関係の人たちは怒ってましたね。

CN:チェチェンでのビジネスの可能性はありますか?

D:チェチェンと今の国の間でビジネスができないかと、いつも考えながら行くんですが、人は消されたりするし、とても生活できないから難民化して出ていくし、政府の腐敗はひどい、とてもこれじゃ仕事になりそうにありません。今は、ただ家族や親戚の顔を見に行っているだけです。
 外からチェチェンに出入りしている僕みたいな人間は、いつもマークされてます。比較的カネも持っているし、カディロフにとって危険人物ではないかどうかが気になるんです。反抗しそうだったら、カネを取り上げたり、殺したりします。

CN:「イスラム国」にチェチェン人がいることが時々話題になりますが……

D:ヒゲを生やしたり、ヒジャーブを被っているだけで、イスラム過激派とみなされて逮捕されます。こんなひどい状態だから、人がどんどんトルコとかヨーロッパに逃げています。シリアでイスラム国(IS)に入っているチェチェン人は1,500人くらいいるとか。この人たちはほとんどヨーロッパ経由ですね。イスラム国の上の方の人たちが言っていることは正しいような気がするけど、実際に下の方の人がやっていることを見ると、ちょっとどう言っていいのか……。
 どちらにしても、シリアのチェチェン人たちからのビデオも結構ネット経由でチェチェンでも流通しているし、カディロフとしては、そういうところで訓練したチェチェン人がチェチェンに帰ってきて、反抗することを真剣に恐れているようです。

CN:最近、気になったことは?

D:今回、すごく面白いと思った話なんですが、リズワンなんとかさんという歴史家が、『チェチェン史』という本を書いて、出版したそうです。その本には、今のチェチェンのことも書いてあって、「今、巨額のお金をかけてスキー場などのリゾート施設や、グラウンド、音楽ホールが作られているが、この投資の本当の目的は、チェチェンのためではなく、全部揃った頃にチェチェン人を追い出して、ユダヤ人に入植させるためだ」という意味のことが書いてあったみたいなんです。
(中略)
 どちらにしても、この話は「いかにもありそう!」という感じでチェチェン人に受け止められてますよ。ユダヤ人? 昔はいましたよ。ドゥダーエフが政権を取る前は、グローズヌイの街にユダヤ人の町もあって、それが今のグローズヌイ・シティのすぐ近くです。このやり方、巧妙だと思いませんか? カディロフみたいな、バカなチェチェン人にたっぷりカネをやって、内戦で社会をめちゃくちゃにして、チェチェン人を追い出しながらも、その国自体は住みよいように改良する。時期をみて乗っ取る……。

CN:そういう公共事業もカディロフがらみですか。

D:もちろん。カディロフは相変わらずひどいですよ。ものすごいカネを持ってる。モスクワからくる復興資金の40%は、そのままモスクワに戻っていくんだけど、そこからリベートを取っていて、自分では何のビジネスも出来ないけど、金はたまる一方です。
 チェチェン中で働く人の給料からピンはねをしていて、自分の基金に入れさせます。カネをね、ルーブルとかドルじゃなくて、「トン」単位で計算して取引してる。それをドバイに空輸して、預金する。これもロシア政府が黙認しています。何にも使い道がないので、カディロフの取り巻きたちはフランスのニースに
行って超高級外車だとか、クルーザーを乗り回して遊んでます。
 チェチェンでは、カディロフツィ(カディロフ一派)が道を走るときには、何時間も前から道が塞がれています。本当に人の命が軽いから、カディロフツィの車に道を譲らなかったり、万が一かすったりしたら、すぐ銃で撃たれます。

(中略)

CN:虐待の情報はありますか?

D:拉致されると、ひどい虐待に遭います。家族を目の前でレイプすると脅されることも多いし、卑猥な言葉を浴びせられて屈服させられることを、チェチェン人は何より嫌うんです。ある知り合いは「もう何もかも嫌だ」と言って、ジャケットの下に銃を隠して歩いていました。自殺用? 違います。チェチェン人は自殺だけは絶対にしません。街でカディロフツィとトラブルになったら、それを乱射して、できるだけ相手を殺してから、自分も撃たれるつもりなんですよ。
 グローズヌイで、知り合いの2人兄弟が、家の前でちょっとカディロフツィとトラブルを起こしただけで車のトランクに押し込められて、行方不明になってしまったんです。3,4日してから、また家の前で放り出されているのが見つかったんですが、その時には大ケガをしていました。

(後略)

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チェチェンを追ってもう何年も経つ。敬愛していたアンナを殺されて、信じていい情報が何もないように感じられた時期もあったが、このメールマガジンのように、今なおチェチェンをウォッチングして伝えてくれる媒体がある。チェチェン人として誇り高く生きようとしている人びとを支援する動きは絶えない。頭が下がる。

それはそれとして、今回のDさんの談話を読んでいて、たいへん近しいものを感じたのだが……これはとてもよくない兆候だな?

私は、チェチェンでの出来事はなかなか日本人には理解しがたいものであり、ロシアという大国の底知れない不気味な力の、氷山の一角ほども実感できない現状では日本人が何をわーわー騒いでも何の力にもならないだろうと思っていたし、今でも思う。だから、アンナの本に書いてあること以上の情報を探し求めようとも思わなかった。
ふつうの人びと、町や、村で、働いて給料を得ている労働者、その家族、子どもたち、乳飲み子を抱える母親、息子や娘の世話になって余生を送る老人たち、そういう人たちが困窮して難民化し四方八方の国々へ逃げている。故郷ではもはやふつうには生きていけないのだ。いきさつはどうあれ、ふつうの人びとがそんな目に遭っているという事実だけでじゅうぶんだった。大国の利害が絡んでいるとか、スパイが暗躍しているとか、それはそうだとしても、傷つき、困窮しているのはふつうの人びとなのだ。
マララさんじゃないけど、子どもには学校が必要だ、学びの場所、子どもどうしが接触しともに育つ場所としての学校が。だからチェチェン支援活動の中でも、子どもたちの学びを支援している団体に協力するというかたちで、チェチェンとチェチェン人を見つめてきたのだった。インターネットを介して見たチェチェンのあどけない子どもたちは、無事でいればもうとっくに成人して、理不尽な場所に生をうけたことを呪っているかもしれないが、それでも顔を上げて希望を失わず、地球上のどこかに生きる甲斐を見いだして、地に足つけて生き延びているに違いない。

……と、このようなことは、地球の反対側で起こっている辛く悲しい出来事で、私たちにはなかなか、直接寄与することはできないし、また自分のこととして実感を持って見聞きし、語ることは難しいと思っていた。

だがDさんのいう「バカなカディロフ」を「アホなアベシンゾー」と置き換えたら、一気に、日本の近未来を語るインタビューに変身した。
アホなアベシンゾー政権は、まさに米国の傀儡政権なのだと言ってしまったら、話はとてもわかりやすくなる。
日本は米国に従属している、とか、日本は米国の植民地状態だ、という言いかたは、形式上はそうではないことになっている以上、ある種の人びとには腑に落ちない表現に違いない。でも、傀儡政権なら、簡単だ。辞書に載ってる意味のとおり。
そう、要は傀儡政権なのよ。今、アホのアベシンゾーが傀儡政権を始めたわけじゃない。第二次大戦後、日本はずっと米国の傀儡政権だった。でもそうじゃない振りをしてきたし、表向きはそうじゃないように振る舞うことを、米国も、日本にある意味一目置いて認めていたんだけれど、数年前から傀儡政権であることを恥だともなんとも思わない世代がボケナスジミントーに台頭してきて、いままさに傀儡政権万歳と言い兼ねない史上最低のドアホウが政権に居座っている。とそういうことである。

チェチェンの惨状は、日本の未来を映している。
バカをいいなさい、そんな、チェチェンのような小国と一緒にしてはいけないよ、日本がこんなことになるわけはないよ。だなんて、断言できるのか、この国の良心ある市民は?

「こんなこと」にならないように、できることはある。

思考し、熟考することだ。真剣に。

Les espérances ont fondu comme neige au soleil.2014/12/21 21:59:47

爆弾低気圧、だなんて直接的すぎて情緒もなければ風流(ふりゅう)も感じられない退屈なネーミングだが、ともかくその爆弾のせいで大寒波に見舞われ雪が降った。まったく寒かった。我が家の乏しい暖房器具ではとうてい追いつかないほど冷え込んだ。たくさん着込んだ母は縮こまるようにして椅子に座ったきりぴくりとも動かず(気温が高くても全然動かないんだけど)、動かないわけにいかない私はがたぴし鳴る床を踏みしめ膝を振り上げ腕をぐるぐる交互に回し大声で歌いながら台所仕事にいそしんだ。点けっぱなしのラジオからアップテンポの曲が流れる。おお今こそレッツダンスよ、知らん顔してうたた寝三昧の母と猫をほったらかしてランランランイエイエイエと歌詞はごまかしながら踊ったり飛んだり跳ねたりした。そんな滑稽な時間を過ごしても、からだは温まらなかった。寒かった。どうすれば温まるのか。答えは二つ。その1、体温のあるものを抱く。体温のある抱ける動物といえば猫しかいないので猫を抱きかかえるが猫がじっと腕の中にいるのはほんの数秒である。しょっちゅう膝に寝にくるくせに、それは私の忙しい時に限っていて、私が温めてほしいときは逃げるのである。飼い主不幸モノめ。さてその2。食う。明快だ、満腹は心身を温める。あまりの寒さに外へ出るのをきっぱりと拒絶した私のアタマとカラダは、今このとき家の中にあるものでほかほかに温まる食事を用意するためにフル回転するのだった。なぜ、人間のアタマとカラダは食うためにはこのように有効な仕事をするのだろう? なぜ、より稼ぐためのアイデアや、言い得て妙のドンピシャの訳語はちっとも浮かばないのに、信じられない食材の組み合わせを思いつき世界の果てのグランシェフも敵わない一期一会の珍味をうみだすのである。美味しいなあ。温まるなあ。母、猫、私、の寂しい食卓(しかも猫は足元で丸くなってるだけだし)も至福の時に変わるなら、爆弾低気圧も大寒波到来も悪くないのだった。

物干しから眺めた東の屋根


雪を冠った時、日本の瓦屋根は格別に美しい。すっぽり覆われるのではなく、うっすらと薄化粧したくらいがいい。組んだ瓦の陰影が透けるくらいが美しい。瓦の影は幼い頃のいたずら描きの線に似て目的地のないまま延々と続く。線の描くのは波。甍の波と雲の波、の歌を歌うまでもなく、穏やかな海岸に打ち寄せる波のようでもあり、光を浴びて揺れる湖面のようでもある。線の描くのは皺。帯を解き、きものを脱いで露になる襦袢についた縦や横の皺に見えたりもする。線の描くのは虫。もちろん、長い虫だ。いもむし、あおむし、けむし。みみず、やすで、ぼうふら、むかで。行列つくって歩いていると想像すればユーモラスで気持ち悪さなど吹っ飛ぶというものだ(だからといってウエルカムな気分にはなれないが)。


西の屋根

苺の鉢

苺に寄ってみた


寒かったのは木曜日だった。寒くても寒くても、家の外では普段どおりの日常が過ぎていた。お向かいも隣も三軒向こうも営業していた。郵便も宅配便も朝刊も夕刊も変わりなく届いた。これが去年なら私も寒さを呪い冷える手をこすり合わせながら、滑る路面にチャリを転がして職場へ疾走していた、寒さのあまりかじかんで思うようにならない手足を引きずり転倒するやもしれぬ母を家に残すことに罪悪感を覚えながら。今日一日休業したって世界は変わらない誰の命も取られないとわかっていても、勤め人は会社を休むわけにいかないのだった。遅刻や欠勤が許されるのは気象庁が警報を出しそのせいで交通が麻痺したことが原因となる時だけであって「寒すぎる」のはサボる理由にはならないのだった。私の経験から、木曜日というのは暇だ、いわば中日(なかび)で月曜や金曜の急き立てられ感や追い詰められ感がない、糸の緩む貴重な日。ヴィヴァ! 木曜日! それなのに勤め人は木曜だって月曜や金曜と同じように憂鬱な顔をして出勤し、ふた言めには忙しいと口にして、そのいっぽう、ほんらいどうでもいいはずの他人の愚痴を親身になって聞くふりをしたりして時間を潰すのである。そのような澱のごとき時間を消化する必要がなくなっただけでも、勤めを辞めた意義は有る。私は、今は、私が休むと決めた日に休み、働くと決めた時だけ働く。ご想像いただけるだろうけれども、働くと決めた時の、少なさといったら。怠惰だ。そこヘいくと植物の几帳面で勤勉で生きることに対し真摯なことよ。感服。


ローズマリー


ローズマリーは西洋の植物だと思うが、その花の清楚なことといったら。でぷっと厚い脂肪のついた、角質も厚そうな肌の西洋女とはかけ離れた、湯上がりの若い女のような、すっぴんチックな美しさ。ローズマリーは花をつけたらさっさと摘んだほうが若葉がよく伸びると昔聞いたけれど、花が美しすぎて摘む気になれない。なにがしかの変化が見えると必ず写真を撮る親バカ精神は音を立てることなく清々しく咲くローズマリーにもいかんなく発揮されるのであった。


バラン


椿




幸いにも私に踏まれず葉の上で少しだけ永い命を得た雪たち。雪は、解けてなくなるまでのあいだ、この下界の何を見て何を思うのだろう? 降り立つ世界の、変わり果てように呆れているのか、あるいはあまりの代わり映えのなさを鼻で笑っているのか。どこへ落ちてもそれが運命と納得ずくで解けていくのだろうか。こんなはずじゃなかったと、落ちた場所によっては空や風を呪うかもしれない。何もしてやれやしないじゃないかと、屍の上で泣くかもしれない。雪には雪の数だけ運命と経験があり、見た風景の数がある。汚いものをひととき覆い隠し、人びとの目を汚れから逸らし、よからぬ企みを潜行させる輩の助太刀を、望むと望まざるとにかかわらず、雪はしている。雪はあまりに美しくて、人を魅了するにあまりある。ぼーっと見とれているあいだに、雪に隠れた地下で悪事を働く者たちのあることを、私たちは必ず知ることになるだろう。私たちは雪の結晶のひとかけらほどの奇跡にすがったが、わずかな希望すら陽光を浴びた雪のようにとっとと解け去った。雪たちは、私たちを嗤うだろうか。それとも憐れむだろうか。