Tu peux enlever de la peau de pomme sans cassée? ― 2013/10/31 20:02:26
『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)
ある知人が、齢93になるさる御方から茶を習っている。93という御歳で人にものを教えることができるという、その事実だけでもうひれ伏したいくらい尊敬に値する。わたしは茶道はまったく門外漢だが、そのことは今さらどうしようもないので恥じることはないと思っている。しかし茶道を心得た人(にもいろいろあるので一概には言えないけれども)はおしなべて態度が謙虚で(態度だけだったりもするけど)、気働きにすぐれている。気が利くのである。みなまで言わずとも判じるのである。冴えているわけである。さらに、茶を嗜む人は食事の時など手の動作が美しい。もちろん立居振舞もたおやかできれいだ。それは、舞踊をする人のピシッと背中の伸びた美しさとはちょっと違う。もう少し、体の重心が下に位置しているような、そして危なげなく、しかしけっしてどっしりしているのではなくて、和服の裾さばきも軽やかに、しなやかに動作されるのである。凛々しさとなよやかさが共存し均衡した美しさを保つのは日本人のなせる業だと思うのだがどうであろうか。
知人が知る茶人には90を超えた人がぞろぞろいるといい、どの御方もしゃきっとなさってて頭脳明晰言語明瞭、茶の湯の心を後世に伝えねばという使命感の強さには圧倒されるという。知人の師匠も、そうと知らずにそのかたを街角で見かけたらたぶんただの縮こまったお婆さんにしか見えないのだ。見えないのに、ひとたび茶室に入ったら彼女は縮こまった婆さんなどでは全然なく、360度の視界をもち些細な瑕疵も見逃さず間髪入れずに叱咤するスパルタ師匠なのである。怖い(笑)。
美を愛でる、美を追求するということは特別なことではない。足元に落ちてきた枯葉の色に季節を感じたり、絵具では出せない微妙な色を見出したり、その葉にもかつて命が宿っていたことに思いを馳せたり。だか、といったようなことは、いちいち言葉にするとめんどくさいが、人であれば瞬時に心をよぎるのである。きらりん、とからだのどこかに響くなにものかだ。理屈でなく、情緒なのである。いい男とすれ違うその瞬間に胸キュンとなるその感じ、それはただキュンとするだけである。ただううっとかおおっとか胸に迫るものがあったり、ぎゅっと心をつかまれたりぐりぐりされたりする感じ。おお、前からよさげなスーツを着て歩いてくる30代後半とおぼしき青年は目鼻立ちがすっきりくっきりしていてなかなかイケメンな感じだわおいしそうだわつまみぐいしたいわ、なんて、言葉にしてしまうとたしかにこれくらい、あるいはこれ以上の感動(?)を、0.001秒くらいの間に胸に響かせているにしても、言葉でなく情緒で人は喜怒哀楽を素直に感じては吐露するものなのである。毎秒のように。
情緒豊かな人は、生命の尊さにあふれているのである。それは純粋である。
《岡 情緒というものは、人本然のもので、それに従っていれば、自分で人類を滅ぼしてしまうような間違いは起きないのです。現在の状態では、それをやりかねないと思うのです。》(「人間と人生への無知」45ページ)
《岡 (前略)欧米人には小我をもって自己と考える欠点があり、それが指導層を貫いているようです。いまの人類文化というものは、一口に言えば、内容は生存競争だと思います。生存競争が内容である間は、人類時代とはいえない、獣類時代である。》(「人間と人生への無知」48ページ)
《岡 (前略)何しろいまの理論物理学のようなものが実在するということを信じさせる最大のものは、原子爆弾とか水素爆弾をつくれたということでしょうが、あれは破壊なんです。ところが、破壊というものは、いろいろな仮説それ自体がまったく正しくなくても、それに頼ってやった方が幾分利益があればできるものです。(中略)人は自然を科学するやり方を覚えたのだから、その方法によって初めに人の心というものをもっと科学しなければいけなかった。それはおもしろいことだろうと思います。(中略)大自然は、もう一まわりスケールが大きいものかもしれませんね。私のそういう空想を打ち消す力はいまの世界では見当たりません。ともかく人類時代というものが始まれば、そのときは腰をすえて、人間とはなにか、自分とはなにか、人の心の一番根底はこれである、だからというところから考え直していくことです。そしてそれはおもしろいことだろうなと思います。》(破壊だけの自然科学)55~58ページ)
《岡 (前略)つまり一時間なら一時間、その状態の中で話をすると、その情緒がおのずから形に現れる。情緒を形に現すという働きが大自然にはあるらしい。文化はその現れである。数学もその一つにつながっているのです。その同じやり方で文章を書いておるのです。そうすると情緒が自然に形に現れる。つまり形に現れるもとのものを情緒と呼んでいるわけです。
そういうことを経験で知ったのですが、いったん形に書きますと、もうそのことへの情緒はなくなっている。形だけが残ります。そういう情緒が全くなかったら、こういうところでお話しようという熱意も起らないでしょう。それを情熱と呼んでおります。どうも前頭葉はそういう構造をしているらしい。言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる、それは情熱なのです。そして、ある情熱が起るについて、それはこういうものだという。それを直観といっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人ともいっておるのです。(後略)
(中略)
岡 きょう初めてお会いしている小林さんは、たしかに詩人と言い切れます。あなたのほうから非常に発信していますね。》(「美的感動について」71~74ページ)
情緒豊かな人は、詩人でもあるだろう。やなせたかしは詩人だった。わたしは、たった1冊持っているやなせたかしの詩集の中の、りんごの皮を切れないようにむく、という短い詩が好きだった。切れずに長く手許から下がっていくりんごの紅い皮、それはまるで赤い川のようでもあった。彼のその詩を読んで以来、わたしはりんごの皮を剥くときはただひたすら切れないように剥くことだけを念頭において剥くようになった。あとから実を切り分けること、芯を取り除くこと、食べること、料理に使うことなど何も考えず、巻きぐせのついたリボンのようにくねくねと垂れ下がるりんごの皮の姿を想像しながら(だってそれをリアルに見ながら剥くことはできないから)。何年も何年もあとになって、小学校の家庭科の宿題にりんごの皮むきをマスターせよといわれた娘が、不器用な手で、無心に、りんごの皮を切れないように丁寧に剥く、その剥かれて垂れ下がるりんごの皮を見てわたしは、昔好んだやなせたかしの詩の数々を思い出した。今は我が家では、りんごは皮を剥かずにいただくのを常としているので、もうりんごの皮を切れないように剥くことはしなくなった。それでもわたしはりんごを使って料理をするとき、やなせたかしの詩のフレーズと、切れることなく剥けたりんご1個分の「赤い川」、得意げにそれを両親と弟に見せる自分、娘に見せる自分、わたしに見せる娘、そしてそれぞれの感嘆の声などが、ひゅんひゅんと脳裏を交錯するのを感じる。だからどうだということはない。これまでもなかったし、いまもない。やなせたかしさんは矍鑠としていつもお元気そうだった。おそらく亡くなる間際まで、しゃきっとして、りんごの皮を切れないように剥いておられたであろう。きっとそうに違いない。詩人だったから。
コメント
_ コマンタ ― 2013/11/13 08:53:13
_ midi ― 2013/11/14 11:46:00
えっとね、2006年の12月から始めてるから丸7年になろうとしているよ。と、真面目に数えて真面目に答えてしまいましたけど(笑)。なかなか更新できないねーまだ11月になって書けてないんだよね。そうだ、今日書きますよ。昨日母の誕生日だったんだ。
ツイッターとかフェイスブックとかどうしても好きになれなくてさ。友達や仕事仲間の営業FBや識者の実名オピニオンツイートとかは見る読むに耐えるんですが……。私は絶対あの中には入らないぞと頑なまでにブログオンリーですけど。更新しなきゃ存在価値なしだな。
寒いです。でも、好きな寒さやわこれ、とつぶやく余裕のある寒さです、まだ。コマンタさんもご家族もお体大事にね。