Si ça vous intéresse...2013/10/03 11:50:44

正式には明日が発売日なのですが、すでにオンライン書店では注文可能となっており、また監修者さん主催の会合ではすでに出席者に配布されたとの噂が。

よろしければぜひお手にとってご覧くださいませ。
ご興味を惹きますようなことがありましたらぜひお買い求めくださいませ。
なお、記載内容につきましては当方は一切の責任を負いませぬ(笑)。
なにこれ? と不審に思われた点も、うっそー! と仰天なさった点も、その時どきの笑い話として後日の酒の肴に、いえ、いやいや何ゆうたはりますのん、そんなんいうたらお酒の席に失礼でっしゃろ、お認めにならはったけったいなとこは、そのつどせえだいこそっと水に流しとくりゃす。

とかなんとかゆっちゃってえー

そんなわけなので、ま、ひとつ騙されたと思って買うとくれ!!!
Merci beaucoup, merci mille fois!

Parce que c'est l'imagination, le math!2013/09/17 19:13:31

史上最強の雑談(5)

『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)


「史上最強の雑談」についてのコメントを再開。購入以来何度も繰り返し読み、ブログに感想を綴り始めてからも幾度となく読了しているし、読めていないわけではないのだけど、あまりにも内容が「この国の今」への忠言めいていて、ふんふんふーんと読み流し&書きなぐるわけにはいかないという意識が強く働いてしまって、ブログに書くならきちんと書かないとな、と思って先送りばかりしているのである。やっとアップできる程度にまとまった(かな?)。

まったくもって本当に痛快、半世紀前の対談とは思えないほど、現在に通じる。

数学者の藤原正彦さんが著書『祖国とは国語』のなかでさかんに「情緒」という言葉を使っているが、数学をやる人って、数字と記号と図形とx軸・y軸しか頭の中になさそうなのに(失礼。笑)、意外とロマンチストであり芸術家肌であり、花鳥風月を愛でる人だったり、センチメンタルで涙もろくて夢追い人だったりする。

高校時代に習った数学教師は二人いて、どっちの発言だったか覚えていないが、

「平行線は永遠の彼方で交わるんだよ」

私は耳を疑ったものだ。ほんとうに交わるのかどうかはどうでもいいが、そいつ(つまりガチガチの数学教師)の口から「永遠の彼方」なんつう言葉が出てくるなんていう事実に仰天した。
私はますます数学と数学者を敬遠するようになり、美大時代は、一年次で単位取得すべき一般教養科目群に数学も並んでいたし、デザイン学部はほぼ全員が選択していたが、恐ろしくて避けたのだった。何を恐れたのだろう? 数学教師に惚れてしまうのを恐れたのである。

人は見かけによらない、とよく言う。私は「見かけによらない内面」をもつ人にてんで弱い。顔はイケてないけどハートはイケメン、ガリガリ痩せっぽちだけど力持ちで寛容。そんな人、素敵やん。私の中でステレオタイプのように在る「Aの人はア」「Bの人はイ」という図式にあてはまらない、「Aなのにイ」みたいな人に出会うとわりかし簡単にノックアウトされるのである。ま、それで失敗も多々あるけれど。
(だって往々にして「Aなのにイとみせかけてやっぱしコチコチのア」だった、ってことはよくある。笑)

数学系の人を避けて生きていたはずだけど、まさかの留学中に引っ掛かってしまった。夏季集中講座受講のために滞在したグルノーブル大学の9月期のクラスで、ドイツのカールスルーエから来たステファンに出会った。隣り合わせに座り、会話のレッスンなどで組むうち意気投合してクラスの前後にお茶したり食事したりするようになった。ソフトな外観に舌足らずなドイツ訛りのフランス語がキュートだった。一緒に街を歩くときはよく画廊を覗いた。展示作品を観て「なんだか主張が感じられないわ」「観る人に媚びてるような受け狙いの作品ね」などと私が知ったふうな口を利くと、「僕は門外漢だからわからないなあ」「きれいなものはきれいだし、やあきれいだな、ハイ終わり、でも別にいいじゃん」なんて言う。ある抽象的な立体作品についてどう思うか聞いたとき。彼は「これ、作者の恋心だな、きっと。もやもやしてて不定形だけどカラフル。恋愛ってそういう感じじゃん?」と、ドイツ人にしては気の利いたセリフを吐いた。なかなかやるなおぬし、みたいな気持ちが私の中にむくむくと起き上がりつつあった。
でも、私はモンペリエに引っ越すことが決まっていたので、あまり親しくし過ぎないようにしようと思っていた。すでにグルノーブルにたくさん友達ができていて、彼ら彼女らと別れるかと思うとけっこう辛かった。ステファンは私に何度もホントにモンペリエ行っちゃうの?と訊いた。ステファンはグルノーブルに残って正規学部生として学業を続けることになっていたのだ。

「ここで何の勉強するの? 何の専攻?」
「数学だよ」

ステファンは数学専攻の学生だったのである。なんと、まあ。どうしよ。私は、自分の気持ちが歯止めの効かないほうに移動しつつあるのをはっきりと感じていた。ヤバい。

「数学を学ぶ者にとってフランスってのは特別な国なんだ」
「どうして?」
「有名な学者はみんなフランス人で、数学者か哲学者あるいは両方だろ」
「そうなん? 私知らない。あ、パスカルとか?」
「また大人物を例に出したもんだね(笑)。もっと近いところでもたくさんいるんだよ、○○とか△△とか……」
「ふーん」
「それに、フランスで数学を学ぶことにもすごく意味があるんだよ」
「なんで?」
「だって数学はイマジネーションだからさ」


  *

「だって数学はイマジネーションだからさ」

ゆってくれるじゃないの、ステファン。このときの私に、高校時代の教師の言葉「永遠の彼方」の記憶が蘇ったわけではなかったけれど、「印象を裏切る数学者の公式」が体感としてどこかに残っていたのだろう、私は自分で「今まさに数学者にノックアウトされかかっている自分」を感じていた。

本書『人間の建設』は、私の時空を超えたアイドル小林秀雄の著書だから買い求めたのだが、上で述べたような気持ちの揺れ動きを、雑談相手の数学者・岡潔に感じている。
というより、小林が数学者と対談していることは表紙にも帯にも明記してあるのだから、私は最初からそれと知ってこの本を読み始めたのである。つまり、青春時代、数学者に覚えたときめきを追体験したかったのだろうか。あの日あの時の数学系男子を捕まえときゃ、今の体たらくはなかったかもしれないなあ。
なんて悔恨を反芻するだけはつまらないから、ここはひとつ、めいっぱい岡潔にときめいちゃうことにする。おほほほほ。



《岡 (前略)欧米人がはじめたいまの文化は、積木でいえば、一人が積木を置くと、次の人が置く、またもう一人も置くというように、どんどん積んでいきますね。そしてもう一つ載せたら危いというところにきても、倒れないようにどうにか載せます。そこで相手の人も、やむを得ずまた載せて、ついにばらばらと全体がくずれてしまう。これ以上積んだら駄目だといったって、やめないでしょうし、自分の思うとおりどんどんやっていって、最後にどうしようもなくなって、朝鮮へ出兵して、案の定やりそこなった秀吉と似ているのじゃないですか。いまの人類の文化は、そこまできているのではないかと思います。(中略)欧米の文明というものは、そういうものだと思います。
(中略)
 小林 数学の世界も、やはり積木細工みたいになっているのですか。
 岡 なっているのですね。いま私が書いているような論文の、その言葉を理解しようと思えば、始めからずっと体系をやっていかなければならぬ。
(中略)
 小林 それが数学は抽象的になったということですね。そういう抽象的な数学というものは、やはり積木細工のようなものですか。
 岡 いろいろな概念を組合わせて次の概念をつくる。そこから更に新しい概念をつくるというやり方が、幾重にも複雑になされている。(後略)》(「数学も個性を失う」29~31ページ)


原発なんか張子細工やんけと思っていたが、積木細工のほうがぴたりとくるかもな。ジェンガみたいなもんかもな。


《岡 (前略)世界の知力が低下すると暗黒時代になる。暗黒時代になると、物のほんとうのよさがわからなくなる。真善美を問題にしようとしてもできないから、すぐ実社会と結びつけて考える。それしかできないから、それをするようになる。それが功利主義だと思います。西洋の歴史だって、ローマ時代は明らかに暗黒時代であって、あのときの思想は功利主義だったと思います。人は政治を重んじ、軍事を重んじ、土木工事を求める。そういうものしか認めない。現在もそういう時代になってきています。ローマの暗黒時代そっくりそのままになってきていると思います。これは知力が下がったためで、ローマの暗黒時代は二千年続くのですが、こんどもほうっておくと、すでに水爆なんかできていますから、この調子で二千年続くとはとうてい考えられない。徳川時代はずいぶん長いと思うけれども三百年です。このままだとすると、人類が滅亡せずに続くことができるのは長くて二百年くらいじゃないかと思っているのです。世界の知力はどんどん低下している。それは音楽とか絵画とか小説とか、そんなところにいちばん敏感にあらわれているのじゃなかろうかと思うのです。音楽だって絵画だって美がわからなくなっている。(後略)》(「数学も個性を失う」33~34ページ)


現代日本はローマ時代より明らかに知力が低いから暗黒時代なんてもんじゃないよね。ずっと先の未来で、人類が今の私たちの時代を振り返ったときなんと形容するだろう? 暗黒より暗くて黒い、闇夜より泥沼より奈落の底より暗い社会。首脳の「脳」の程度が低くて、人種差別や弱い者いじめは得意な国。金儲けが下手だから余計に躍起になってカネカネカネと目を血走らせる国。そんな国に洗脳され、人と自然が共存していた本来のこの郷土の美しさを忘却の彼方へ放り投げてしまった人々。


《小林 (前略)たとえばベルグソンがアインシュタインと衝突したことがあるのですが……。
(中略)
 ベルグソンに「持続と同時性」というアインシュタイン論があるのです。アインシュタインの学説というものは、そのころフランスでも、もちろん専門的な学者だけが関心をもっていたもので、ああいう物理学的な世界のイメージがどういう意味をもつかということは、だれも考えてはいなかった。はじめてベルグソンがそれに、はっきりと目をつけたわけです。
 岡 おもしろいですね。
 小林 それで批評したのですが、誤解したのですね。物理学者としてのアインシュタインの表現を誤解した。それでこんどは逆に科学者から反対がおこりまして、ベルグソンさん、ここは違うじゃないかといわれた。ベルグソンはその本を死ぬときに絶版にしたのです。
 岡 惜しいですね。それは本質的に関係がないことではないかと思いますね。
 小林 ないのです。というのは、私の素人考えを申しますと、ベルグソンという人は、時間というものを一生懸命考えた思想家なのですよ。けっきょくベルグソンの考えていた時間は、ぼくたちが生きる時間なんです。自分が生きてわかる時間なんです。そういうものがほんとうの時間だとあの人は考えていたわけです。
 岡 当然そうですね。そうあるべきです。
 小林 アインシュタインは四次元の世界で考えていますから、時間の観念が違うでしょう。根本はその食い違いです。
 岡 ニュートン以後、物理学でいっている時間というものは、人がそれあるがゆえに生きている時間というものと違います。それは明らかに別ですね。
 小林 そこが衝突の原因なんです。
 岡 そうですか。そんなところで衝突したって。絶版にする必要がないのに。
 小林 だから、おれとおまえとは全然ちがうのだ、といってしまえばよかったのです。》(「科学的知性の限界」35~37ページ)


雲仙岳噴火から22年、奥尻島の津波から20年、阪神大震災から18年が過ぎた。新潟中越地震から9年、台風23号からも9年、東日本大震災から2年半、台風12号から2年が過ぎた。
でも、数字は物理的時間でしかない。被災した人、災害で大切な人を亡くした人、生活を根こそぎ奪われた人たちにとっては、時間のカウントなど意味をなさない。私たちはコンマ01秒単位の世界で記録に挑むアスリートの活躍に一喜一憂するが、そこでカウントするタイムと日々生きながら流れる時間とは種類が違う。


《岡 (前略)数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない、銘々の数学者がみなその結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ数学だとはいえないということがはじめてわかったのです。じっさい考えてみれば、矛盾がないというのは感情の満足ですね。人には知情意と感覚がありますけれども、感覚はしばらく省いておいて、心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね。だから、その意味で、知とか意とかがどう主張したって、その主張に折れたって、情が同調しなかったら、人はほんとうにそうだとは思えませんね。そういう意味で私は情が中心だといったのです。そのことは、数学のような知性の最も端的なものについてだっていえることで、矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。そしてその感情に満足をあたえるためには、知性がどんなにこの二つの仮定には矛盾がないと説いて聞かしたって無力なんです。(中略)矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。(中略)人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです》(「科学的知性の限界」39~40ページ)


数学の世界だけではないだろう。iPS細胞とやらについても、はたしてみんな「感情」が納得しているのか? 山中教授はとてもナイスガイなので彼の業績にケチをつける気は全然ないけれど、私は、それでいったいヒトをどうしようというの? とでもいえばいいだろうか、ある種の、釈然としない何か、腑に落ちない何かがつっかえて、素直にすごいすごいといえなかったりする。

画期的研究についてさえ、そういうケースはあるのだから、あほぼんどものやってるママゴト政治なんざ矛盾だらけであり、それを解消する知性なんざ彼らにはかけらもない。ましてや誰の「感情」も、極右あほぼんどものお遊びを受容したりするわけはないのである。ああ、もういい加減にしてくれよな。

それにしてもときめくでしょ、岡潔!

Zut! Abe, toi, tu es vraiment un con!2013/03/13 16:53:28

「村野瀬玲奈の秘書課広報室」
http://muranoserena.blog91.fc2.com/
から、数日前のエントリをそのままコピペします。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4179.html


*********************************************
TPPについて覚えておきたい最近のツイッターを記録。短いツイートを集めたものなので、気軽に一個一個読み進めてほしいです。

TPPはとんでもないシロモノであることが一つ一つのツイートから読み取れます。


塩見俊次 @sshiomi
安倍首相、国民の命と健康を守ることが政府にとって「聖域」そのものであることをしっかり理解してほしい。日本の医療を売り渡してはいけません。国民皆保険制度を壊してはいけません。アメリカの保険会社や製薬会社の利益を優先してはいけません。
10:10 午前 - 25 2 13


想田和弘(@KazuhiroSoda) - Twilog
http://twilog.org/KazuhiroSoda/date-130224/asc
2013年02月24日(日) 34 tweets
反対する間も与えず、あれよあれよという間に日本を売ろうってんですね。これは計画的犯行。→安倍首相、施政方針での表明調整=TPP交渉参加(時事通信) http://t.co/hFZkeYiA3E
posted at 00:44:34
消費税とTPPペテン師的内閣続く日本国民の悲劇 http://t.co/YblP3riYLX
posted at 00:48:28
みんなが反対する隙を与えず、さっさと国を売っぱらおうっていう首相が「愛国者」の代表だっていうんだから、これがホントのアベコベ。
posted at 00:52:36
それにしても、「愛国者」を自称する人たちは、自分らのヒーローが白昼堂々国を売ろうとしていることに少しは反応したらどうなのよ。「愛国=中国と韓国に強い態度に出る」という尺度だけじゃ、国なんか守れないよ、みなさん。
posted at 01:03:23
そもそも、デフレ脱却を第一の目標に掲げる安倍政権がTPP推進って、下痢止めと便秘薬を同時に飲もうとするような行為なんだが。TPPに入れば外国から安い農産物が関税無しにバンバン入って来るわけで、物価が下がらないわけがない。その矛盾をどうするんだよ。
posted at 01:16:51
RT @mmasao: TPP交渉参加、安倍政権の裏切りは許さない!JA全中の会長が怒りの談話 http://t.co/qK1YYpTZz5
posted at 02:39:50
必読?→2013/02/21【ブログ記事:「TPPは現代の植民地政策」 米韓FTAの惨状からTPPを考える ~郭洋春氏(立教大学経済学部教授)緊急インタビュー】 http://t.co/b39GAL3YbL @iwakamiyasumiさんから
posted at 02:53:29
RT @magosaki_ukeru: ニコニコ動画発信2:日本にtppを最も強く働きかけているのは米国保険業界。国民健康保険が機能しなくなるとどうなるか。米国では3万ドル以下の層は健康保険なし。日本医師会や日本歯科医師会は反対しているが、国民のどれだけが知っているか。
posted at 03:10:35
福島第1原発事故が「第2の敗戦」であるなら、TPP参加は「第3の敗戦」といえるかもしれない。下手すると、この「第3の敗戦」がもっとも手痛い負け戦になるかもしれない。負けたという認識や実感すらなしに。
posted at 03:16:06
それにしても大半の日本人の無防備さ、危機感の欠落ぶりは、異常。生存を脅かす危機に対するセンサーが壊れているとしかいいようがない。積年の1億ノンポリ化・飼いならし計画の大きな成果ってやつか。
posted at 03:27:35
TPPに参加したら実際どうなるかなんて、実はいま正確に予測できる人なんていない。しかし、日本が国家主権を事実上失いアメリカの経済的植民地になり得る可能性は、少なくとも否定できない。これほど重大な危険性がある道はとりあえず避けておくというのは、生存戦略の基本ですよ。
posted at 03:33:08
TPPのメリットは「車とかの輸出が多少増えるかもしれない」ことくらい。それに対して懸念されるデメリットは、農業の壊滅、デフレの進行、国民皆保険制度の崩壊、食の安全が脅かされる、事実上の国家主権の喪失、などシャレにならんものばかり。どう考えてもリスクが大き過ぎる。
posted at 03:43:42
読むべし。→安倍首相がオバマ大統領にTPP交渉参加を約束し、国民皆保険・解雇規制など国民を守る制度を米国に売り渡す http://t.co/r1Oy6AerA8
posted at 04:11:14
RT @ja_tpp: 民主党政権で米国との事前協議などの最前線に立っていた大串博志元内閣府政務官は「共同声明に盛り込まれた文言の多くは民主党政権時代と基本的に同じ。これで「聖域」を担保できたとする理由が理解できない」と指摘。「安倍内閣は米国から何も譲歩を引き出せず逆に大幅な譲歩を取られただけ」
posted at 13:06:03
RT @ja_tpp: 日米首脳会談・ジェーン・ケルシー教授(NZ・オークランド大教授)「日本がTPP交渉に参加したとしても、現在の交渉内容に意義が唱えられるとは思えない。米国政府が日本の農業事情に配慮したとされるが、農産物が実際の交渉で配慮される保証はない」日本農業新聞
posted at 13:07:52
RT @ja_tpp: 日米首脳会談・ジェームス・シンプソン教授(米国ワシントン州立大学教授)「もし、米国が日本だけを特別待遇すれば他国から反発がある。実際の交渉で米国は従来の姿勢を保ち、全ての分野で自由化を迫る。日本の食料自給率は大きく低下し、中国など海外への依存が強まるだろう」日本農業新聞
posted at 13:08:09
「マスゴミに騙されるな!我らが安倍ちゃんはTPP交渉に参加表明したわけではない!」と言ってる人は、実際に彼が参加表明したら支持するの辞めるんだろうか。
posted at 13:36:19
RT @koike_akira: 昨日、紀伊國屋ホールで松元ヒロさんのステージ「ひとり立ち」へ。「安倍さんは選挙で『日本を取り戻す』といってたね。アメリカから取り戻してくれるのかなと思っていたら、今日アメリカで『日本は戻ってきました』って。アメリカが『日本を取り戻す』ということだったんだね」ヒロさん最高です。
posted at 14:01:06
ちょっと古い動画だけど必見です。非常にわかりやすいだけに、絶望的になるよ。→中野剛志氏が語る 米韓FTAよりひどいTPP交渉となるだろう http://t.co/iDZjM0OVFs
posted at 14:58:08
RT @saitoyasunori: #TPP に加盟すれば、 国の法律や条例よりもTPPルールが優先される。国民の命を守る皆保険制度も、農産物の安全基準も、相互扶助の理念で作られた共済も、TPPによって破壊。これは究極の売国政策で、これを推進する自称保守政治家はインチキ保守。
posted at 15:20:27
RT @mizuhofukushima: 総理は、聖域なき関税撤廃ではないとの感触を得たとして、TPP参加へ。しかし、聖域とは何か、関税以外の保険や医療などの制度はどうなるのかなど、不明。自民党が公約で示した6項目の判断基準が満たされたとはとうてい言えない。
posted at 15:24:04
それにしても、大新聞が軒並みTPP推進だっていうのは、ホント絶望的だな。記者って勉強しないんだろうか。どういうことなんだか、ちょっと理解できない。
posted at 15:41:47
RT @Risa_star7: 「まさかね。。」って事がここ数年現実になってるのが怖いです。。“@ainokuroko: そうかもしれませんよね…。 QT @Risa_star7: 健康被害が爆発的に増えた時には、TPPによる国民皆保険制度崩壊しちゃってるんだろうか。”
posted at 15:55:49
RT @TsutsumiMika: 米国では600社の企業顧問だけがTPP交渉内容をリアルタイムで読め、コメントをしたり内容改訂の権限を持っています。一方国会議員は決められた部屋で閲覧できるのみで、携帯、紙、筆記具の持ち込みと、メモ取りは一切禁止。マスコミも国民もアクセスできません。@takeshikunhi
posted at 15:59:01
国民主権から外資主権への移行を意味するISD条項 [重要:岩月浩二弁護士「法律家が斬るTPP、ISD条項」まとめ] http://t.co/XdLDi3zuvH
posted at 16:30:17
RT @tsuda: TPPに参加すると日本の著作権法はどのように「変えなければならなくなるのか」を解説した津田メルマガの記事を無料公開しています。TPP参加で知財周りにどのような変化がもたらされる可能性があるのか知りたい方はぜひ>http://t.co/7jjTBKi2MN
posted at 16:44:30
必読。→ニュージーランドは、初期のTPPを推進した加盟国だが、後から来た米国に滅茶苦茶にされている http://t.co/IZLUXsLb5o
posted at 23:41:40
Permalink - 2013年02月24日


http://twilog.org/KazuhiroSoda/date-130225/asc
2013年02月25日(月) 26 tweets
TPPのISD条項というのは無茶苦茶。例えばアメリカの投資家が金を出して日本に工場を作る。ところが工場が汚染水を垂れ流したので環境省から操業停止命令が出る。すると投資家は「利益が損なわれた」と私設の国際裁判所に日本政府を提訴できる。裁判は非公開。日本政府は汚染企業に損害賠償。
posted at 00:15:15
TPPでなぜ「共済」が問題になるのか?米国の保険ビジネスの狙い (農業協同組合新聞)http://t.co/GWemNu99hZ
posted at 00:39:46
加盟することに賛成の日本人がいる理由も謎なくらいですから、僕には分からないです。 @sadtky: @KazuhiroSoda TPPって良いことなしな気がするのですが何故あれだけの加盟国がいるのでしょうか?そして何故加盟国たちは抜けないのか…
posted at 00:49:51
はい。 @sicilian_: カナダがそのパターンでやられてましたよね RT @KazuhiroSoda: TPPのISD条項というのは無茶苦茶。例えばアメリカの投資家が金を出して日本に工場を作る。ところが工場が汚染水を垂れ流したので環境省から操業停止命令が出る。すると投資//
posted at 00:50:53
RT @kushiro_yasu: 「ギリギリの交渉」とか「日本政府の交渉力」とか「苦渋の決断」とか「コメは聖域」とかの大見出しが続くね@KazuhiroSoda: それにしても、大新聞が軒並みTPP推進だっていうのは、ホント絶望的だな。記者って勉強しないんだろうか。どういうことなんだか、ちょっと理解できない。”
posted at 00:51:11
この人には日本を守ろうなんて気は、ひとかけらもないんだよな。→「TPPの例外設定で自民追及」橋下・維新の会共同代表 - 朝日新聞デジタル http://t.co/Kvl0yuYJot
posted at 00:55:19
TPP推進派は日本企業のアメリカ進出も容易になると素朴に信じてるみたいだけど、アメリカは政治力を駆使して徹底的に例外を作って国内の業界を守る。逆に日本は政治力がないから全然守れずやられっぱなしになる。要するに旧ザクのくせにガンダムと勝負しようと言ってるようなもので、無謀極まる。
posted at 01:07:45
ナショナリズムっぽく聞こえると嫌なんだけど、アメリカの政治家がアメリカの企業を守るように、日本の政治家なら日本の農業や産業を守ることに力を注ぐべき。だけどこの人とか、アメリカと一緒に日本の農業を攻撃してるんだから、始末に負えない。http://t.co/13mFuN4t7F
posted at 01:14:45
ええ、でもTPPは生き残りを更に厳しくするだけです。 @enju1948: @KazuhiroSoda TPP、色々問題点があるのはわかりますし、参加しないならしないでいいと思いますけど、それならそれで、今後の世界経済の中で日本がどう振る舞うべきかは考えなければいけないと思いま
posted at 01:22:23
@enju1948 対案を示せ、ですか。貴殿らしからぬご意見ですね。対案は、こんな不平等条約みたいな協定には参加するな、です。貴殿はTPPで農業が再生すると信じてるのですか?
posted at 02:15:18
RT @levinassien: おはようございます。朝刊を開いたら、TPP参加に国民の47%が賛成、安倍内閣支持率は70%だそうです。国民経済の解体に、それで確実に被害をうけるはずの国民自身が同意している。なぜなんでしょう。ほんとうにわからなくなってきました。
posted at 23:06:57
RT @levinassien: でも、今思うと、菅首相の支持率が63%でしたね。それが急落するまで、ほんとうに短い時間でした。内閣支持率はほとんどが「期待」で構成されていて「同意」とは言いがたいし、ましてや「敬意」や「感謝」はほとんど含有されていません。
posted at 23:07:02
これ、必読。やっとISD条項についてマスコミが報じた。再三つぶやいた通り、ISDは国家主権と国民主権を凌駕する。【金融スクープ】日本のTPP参加を左右する「毒素条項」 韓国で初のISD条項発動 - ZAKZAK http://t.co/GB7O5JHQQB
posted at 23:13:52
全くだ。→TPP「うそは駄目」=改めて反対―万歳JA会長(時事通信) - Y!ニュース http://t.co/CEeEJTj7vV
posted at 23:17:45
TPPに反対して選挙で通った自民党議員は大人しく黙ってるわけ? ただの票合わせ要員ですか、皆さんは。→TPP交渉参加の判断、首相に一任 自民党役員会 - 朝日新聞デジタル http://t.co/UNCEepe71f
posted at 23:27:04
RT @hiramatsu_osaka: お気に入りに入れました。 RT @KazuhiroSoda: ちょっと古い動画だけど必見です。非常にわかりやすいだけに、絶望的になるよ。→中野剛志氏が語る 米韓FTAよりひどいTPP交渉となるだろう http://t.co/5u3aLSvMpm
posted at 23:28:39
時事ドットコム:自民反対派、勢いに陰り=TPP「聖域」へ条件闘争 http://t.co/rMeUcOLFbb
posted at 23:31:47
仰ることはわかりましたが、それに対する答えはTPPではないと思います。TPPの本質は、「アメリカのグローバル企業が利潤を最大化するために、参加国独自の法令や規制を撤廃すること」ですから。@enju1948
posted at 23:54:56
RT @hinatabokko_zzz: @KazuhiroSoda 韓国でも、すごく心配していた部分です。最初はISDについてなかなか知られてなかったが、後では韓国でも色々な議論はありました。まあ、結局そのままとおりましたが。政治家よりも、話の通じないのは、官僚達ですね!日本でもしっかりしないと。^^
posted at 23:55:30


http://twilog.org/KazuhiroSoda/date-130226/asc
2013年02月26日(火) 30 tweets
アメリカのグローバル企業に参加国の経済や労働力や環境を骨までしゃぶらせようというのが本旨のTPPに、日本人が賛成しちゃうのは、自分たちもしゃぶりつくせる側になれるんじゃないかというスケベ心があるからなのだろう。スケベ心があるから、これやると儲かりますよ?的な詐欺に引っかかる。
posted at 00:04:11
そう、「なんとなく儲かりそうだから」支持するのでしょう。「なんとなく電気足りなさそうだし」といって日本中が原発だらけになったのと同じです。 @waraino_naikaku: @KazuhiroSoda よくわかってなくてなんとなくよさそうて思ってるだけじゃないですか
posted at 00:15:50
TPPを推進するに当たっても、農業だけじゃ生活なんか成り立たない農家を標的にして「既得権益打破」的な語法が使われている。つくづく、「既得権益打破」というスローガンは万能だと思う。わたしたちは誰もが既得権益であり、打破すべき対象だ。みんな打破されて粉々になればよい!
posted at 00:20:10
日本では、公務員も、正社員も、教師も、農家も、高齢者も、障害者も、生活保護受給者ですら、「既得権益」だ。既得権益だらけの国ってわけで、永遠に攻撃対象があるので困らない。
posted at 00:25:11
結局TPP参加問題とは、新自由主義という「金だけがすべて」の拝金主義と、金儲けのために多様な文化や地域性や国民主権を蹴散らして世界を「消費地」として画一化することに対して、YESと言うか、NOと言うか、が問われているのだと思う。
posted at 00:35:10
彼らこそが「既得権益打破」のスローガンを連呼する側ですからね。 @masterneodio: @KazuhiroSoda 「裏の統治層である1%」は含まれないですね。本来ならそいつらが真っ先に糾弾断罪されるべきなのですが、「保守」「愛国」の方々は靴を舐め尻尾を振るばかり・・・。
posted at 00:37:16
つまり、公務員や、正社員や、教師や、農家や、高齢者や、障害者や、生活保護受給者らを「既得権益だ!」と攻撃しているのは、新自由主義で巨大な利益を貪る「1%」の側なんだよ。彼らこそが本当の「既得権益」であるにもかかわらず、この不条理。
posted at 00:41:41
うーん、TPPの問題を農業の問題だと勘違いされているんじゃないですか?農業の問題は、わかりやすい攻撃対象をつくるための方便であり、本質はそこにないですよ。日本の農業が厳しい状態であることに異論はありませんが、それはTPPとは切り離して考えるべきです。@enju1948
posted at 00:43:28
その認識が誤りだと申し上げているのです。ISD条項とか、国民皆保険制の問題とか、ご存じですか? @enju1948: @KazuhiroSoda 要は保護貿易か自由貿易か、ということだと思いますから、かつて護送船団といわれた日本の経済・産業のあり方が問われてるんじゃないですか?
posted at 01:38:33
それとも、国境を取り払って世界をひとつにするためには、国家主権も国民主権もいらないというお考えなんでしょうか。@enju1948
posted at 01:41:08
TPPは農業問題じゃない! 医療も、食も、まともな暮らしも、民主主義も、国民主権まで崩壊させる恐ろしい協定。加盟したら日本は終わり。「サルでもわかるTPP」で、今すぐその真実を知って! http://t.co/i22u2JXGr3 @MieYasudaさんから
posted at 02:25:28
RT @magosaki_ukeru: 日米・安倍:うまいうまい。安田雅則?@yasuta_masanori 「安倍は昔から日本を美国にすると言っていたでしょ。忘れた有権者のほうが悪い・・・か、なぁ」
posted at 02:45:40
RT @hirakawamaru: TPPはまさに米国の企業が推し進める政策であり、米国の企業の利益のための協定なのに、何故日本人は無防備に賛成してしまうのか。米国企業益と、米国の国益ですら相反するというのに、それが日本の国益に資するなどとどうして思えるのか。
posted at 02:47:10
うまい比喩です。RT @xiantao: TPP参加でフェアトレードって、ボクシングの階級取っ払うようなもんだと思うんだが、違うの? ちなみに日本はヘビー級じゃないと思いますが…
posted at 02:49:29
RT @project99jp: TPP参加表明で調整進行…JA全中会長が懸念 (読売新聞) http://t.co/OuI8YxaXuw JAグループは昨年末の衆院選で160人以上の自民党候補を推薦している。7月の参院選の対応については「判断する段階に至ってない」と述べるにとどめた。
posted at 02:51:29
RT @abe_yoshihiro: 「拙速な判断は国益毀損」全漁連会長がTPP交渉参加に反対コメント http://t.co/XtGqvbSz8g  「日米首脳会談の結果に対するJF全漁連会長談話」http://t.co/mX3KbcE24h
posted at 02:52:34
同意→RT @TPP_kantei: 全労連 【談話】日本政府のTPP交渉参加に強く反対する http://t.co/AsuwGZXXDZ
posted at 02:57:09
国民皆保険制の解体を危惧→RT @TPP_kantei: 民医連 【声明】日米首脳会談での国民を欺く安倍首相の態度表明に強く抗議する http://t.co/iPSgqnRYzf
posted at 02:58:40
RT @project99jp: 全国農政連(農協の政治組織)が、第46回衆議院議員選挙で「TPP交渉参加反対」を条件に推薦した議員一覧 http://t.co/PkxiGu2yS6  ここに名前のある議員が、本当にTPPの交渉参加に反対するかどうかチェックしましょう。
posted at 02:59:43
RT @project99jp: TPP参加の即時撤回を求める会 『新会員名簿(平成25年2月22日現在)』 http://t.co/BCx6Km3o5t 衆議院:184名、 参議院:56名、総勢:240名
posted at 03:00:45
「日本の農業は弱り切っているから、TPPという外圧で変革するしかない」といった言説は、重病人に対して「マラソンにでも参加すれば治るんじゃね?」と言うようなものである。その「鞭打てば奮起してなんとかなる」という発想は、生活保護カット論や体罰肯定論とも似通っている。
posted at 03:07:54
TPP参加問題は、煎じ詰めれば世界の富裕層1%に日本で好きなように制限なく儲けさせるかどうかっていう問題なんだよ。賛成するってことは、1%に日本人の主権と文化と国土と労働力と経済と健康を差し出すっていうことだよ。
posted at 04:10:05
「TPPに参加したいなら、日本は軽自動車を廃止しろ」とアメリカの自動車業界は主張している。なぜなら、彼らが作る大型車が不利だから。やめるの、軽自動車?→クローズアップ2013:日米首脳会談 TPPなおハードル http://t.co/a2isqqX4gg
posted at 07:48:07

金子勝 @masaru_kaneko
メディアのTPP大キャンペーンが始まった。ISD条項、国民皆保険や食の安全安心の基準を守る、政府調達や金融は我が国の特性を守るといった自民党の6原則の報道はほとんどない。関税撤廃を主張するニュージーランドを考えると例外は米だけ? http://goo.gl/GsTB0
2:06 午前 - 24 2 13
TPP、貿易以外にも幅広い恩恵 成長後押し期待
 【ワシントン=原田逸策】日本が環太平洋経済連携協定(TPP)に加われば、関税引き下げによる貿易の拡大にとどまらず、サービスや投資など幅広いルールの共通化で日本企業は海外の成長を取り込みやすくなる。安
日本経済新聞 電子版 @nikkeionline

Mnemosyne @sea_of_memory
ISD条項に基づいて投資家が政府を訴えた場合、数名の仲裁人が審査する。しかし審理の関心はあくまで「政府の政策が投資家にどれくらいの被害を与えたか」という点だけに向けられ「その政策が公共の利益のために必要なものかどうか」は考慮されないhttp://bit.ly/sHiZPX
3:44 午後 - 24 2 13

************************************

「ちっ。おい、アベ。お前ほんまに、カス!」(本エントリのタイトル和訳)

誰かコイツを燃やせるゴミ用袋に入れて燃やせるゴミの日に出してくれっ ゴミ収集車、さっさとそれ、持ってってっ

おい、ラジオっ「アベノミクス」「アベノミクス」「アベノミクス」言うなっ。安倍・蚤・屑! 耳腐るっ

A la recherche du nippon perdu2013/01/31 19:29:37




『美しき日本の残像』
アレックス・カー著
朝日文庫(2000年)
※単行本は1993年に新潮社より刊行、翌1994年第七回新潮学芸賞を受賞している。



毎朝、御苑の西側を走る。
全国都道府県対抗女子駅伝の、中学生区間になる道だ。
何年か前、とびきり速い中学生二人がこの区間を走り、ほかの区間を走った高校・大学生選手、実業団選手がピリッとしなかったにもかかわらず、京都が楽勝したことがあった。3区で走った子が先行ランナーを軽く抜き去り、6区で走った子は後続をぶっちぎった。当時はまだ使えていた我が家のアナログテレビで私はこの駅伝の実況を見ていた。高橋尚子か、増田明美か、誰か忘れたが解説をしていた元ランナー女史が、「あ、いまギアが入りましたね」と言った。その言葉どおり、まるでトップギアに入れたかのように中学生は速度をぐんぐん上げて前のランナーを捉えたかと思うと抜き去り大きく差を広げた。まったく、胸のすくような走りだった。痩せていて小柄で、素人目にもフォームはでたらめだ。しかしパワーに満ちていた。現在は大学生になったこれらとびきり速い元中学生たちの、あまり華やかな活躍は聞こえてこないが、つぶれることなくいつか本格的に開花してほしいと思う。ランナーとしてトップに君臨できる期間はとても短い。いきなり日本一、世界一になんてならなくていいから、無理なく成長し続けて、どこかで栄冠を手にできれば素晴らしいけどな。同世代の女子中学生陸上選手たちが、どれほど彼女たちに憧れ、その走りに励まされたことだろう。ウチの娘もその陸部仲間もみんな、彼女たちを見て「ウチらも頑張る」と、進む道は変わっても、心の糧にしたのだった。親として、彼女たちに感謝しないわけにはいかないのである。応援しないわけにはいかないのである。

……というようなことを、毎朝御苑の西側を走るほんの数分の間に考える。走るったって、あたしはチャリです。ええ、毎朝の通勤の話です。事務所が引っ越して御苑の東側まで行かなきゃいけないんだけどさ、ま、碁盤の目の京都、通勤路はどうでもとれるんだけど、西から東へ御苑内を突っ切って行きたいので、いちばん北の乾御門(いぬいごもん)まで西側の烏丸通の車道をぎゅいーんと走る。速度を上げるとき、先述の女子駅伝を思い出す。「あ、いまギアが入りましたね」。私も「キャー遅刻しそおおーー」と心中で叫びながらペダルをぐるぐるこぎまくる(笑)。

しかし、乾御門に到達する頃にはもう息が切れてて、御苑に入った途端、散歩モードに切り替わる。季節柄まだ木々の姿は寂しいが、それでもさまざまな鳥たちが、何をついばんでいるのか砂利道に覆いかぶさる枝の下に集まっている。ランニングする市民や学生の姿はいつもある。私のようにここを通学路、通勤路にしている人が徒歩や自転車で行き交う。ときどき猫も歩いている。カラスの群れで道が市松模様に見えることもある。右手に迎賓館の壁が続く。何にもないただの庭園のようで、実は厳戒警備エリアなのである。古びた東側の石薬師御門を抜けるとき、またつまらない憂鬱な一日の始まりを覚悟するとき、落ち葉を踏みしめながら、それでも私は日本人でよかったと実感する。なぜだか、わからない。市民が憩う庭園は、フランスはじめ異国でたくさん見たし、生活するうち、しぜんとその地に馴染んでいる自分を素直に受け容れることができたし、好きだったし、離れ難かったし、骨をうずめたいとも思ったし……。でも、けっきょくそうはせずに私は自分の生まれ故郷で子を育て、この地に根を下ろして生き抜こうとしている。面倒くさがっているだけかもしれないし、運命かもしれない。もしかしたらまた異国での暮らしを唐突に始めるかもしれない。でもきっと、またここに帰ってくるような、予感がある。御苑内をとぼとぼと散歩する老婆の姿に、簡単に自分を重ねることができる。年老いた私には、モンペリエではなく京都が似合うだろう。ともに古い歴史都市であり古い大学があって学生にあふれる街だけれど、すっかり腰と背中の曲がってしまった母が、30年後の私の姿だとしたら、やはり京都が似合うだろう。歩行器を押し歩く小さな老婆も、和服姿の凛とした粋な老婦人も、ともに偉そうに闊歩するのが京都である。

今週月曜夜、図書館からの帰り道。8時頃かな。月がすごく綺麗だったので思わず。ガラケーの写真はダメだな。


何年も前の話だが、東京から帰省した知人が、実に20年ぶりなんです帰ってくるの、京都ってこんなに夜が夜らしいまちでしたっけ、と言ったことがある。私たちはとあるビルの中庭に面したレストランで食事をしていたが、そのビルは繁華街のど真ん中にあり、私はつねづね、この煌々とした明るすぎる街灯、看板の照明、道を埋め尽くす自動車の上向いたヘッドライトに辟易し、星の見えない夜空にうんざりしていたので彼女の言葉に驚いた。東京は隅から隅まで不夜城のようです、どの店も24時間照明は消さないし、というか、営業しているし。そう、京都はずいぶんましなのね、私はそう言ったけど、もちろんだからって納得はしていない。歓楽街のけばけばしいネオンというのはそれじたいある種の文化かもしれないので、そういうもんには寛容な私であるが、普通の道、普通の住宅街に、不要な光が多すぎる。事故や不審者出没を防ぐためにもある程度の光は必要だが、それにしても灯りの明るすぎる道の多いこと。光源が明るすぎると、かえって陰影に潜むものが見えないこともあるしさ、危ないんだよ。
……その点、たしかに御苑内は、夜は真っ暗である。漆黒の闇である。さすがに、嬉しがって通る気になれない。厳重警戒エリアだから、安心して通れるはずなんだけど、恐怖が先に立つ(笑)。

アレックスは日本の美しさと醜さを率直に綴っている。最初の執筆がもう1990年のことだというから、当時のことを書き記したといってももうかなり古い話だ。バブルの絶頂で、そろそろ危なくなって下り坂にさしかかった頃の日本。カネにもの言わせた派手な醜い箱が全国に、いくつも建った。歴史を湛える有形無形の文化遺産を潰して「更地」にした。したところでちょうど泡がはじけてなくなって、ゴルフ場のバンカーのように、悩める思春期の子の円形脱毛のように、えぐられたままの地面が裸体のまま各地に残った。けっきょく、引き続き醜悪なものが建つか、コインパーキングになるか、そのまま裸をさらすか、している。

途上国を訪問したある人に、以前と今と状況はどうですかと尋ねたら、事態はますます悪化しているようですと顔を曇らせた。このケースは深刻だ。人命と国の行く末にかかわるからな、もちろん。


日曜日には、上賀茂手づくり市へ行った。とてもニッポンな風景。

こちらもニッポンな園部(そのべ)の風景。取材しに行ったはいいけど、えらい雪に遭った。12月の初めだったかな。



アレックスに、京都は、日本は以前と比べてどうですかと尋ねてもきっと、やっぱり「事態はますます悪化していますね」と言うだろう。この「悪化」には緊急性もなければ人の生死とのかかわりもない。ないけど、ある豊かな文化がちりちりと、剃刀で削り取るように、彫刻刀で切り抜くように失われてゆくというのは、確実に、安心して大きく深呼吸したり、大の字になって寝転んだり、日がな一日読書に耽ったりという、暮らしの「無駄」な「遊び」の部分を奪ってゆく。のほほんと、警戒心なく、環境に身を委ねることをいつのまにか不可能にしてしまう。いずれ、ここは、人の住める場所ではなくなってしまう。そのことは、生存率も識字率も低く当たり前の生活も保障されない途上国と比べても、かなり深刻である。いっとくが、今、放射性物質による汚染は考慮していない。


あけぼの。電線もべつに、嫌いじゃない。


電線を地中に埋めるのはたいへんな工事だ。ないと空はすっきりするだろうけど、代わりに醜悪な看板や外壁が目についたのでは元も子もない。見上げた時に電線しか見えないなら、まだましだ。めっきり減ったが、スズメもとまるし。それよりも、守るものが星の数ほどある。もちろん、改めるもの、除くものも、山のようにある、電線より先に。

Fâchez-vous, mais avec une façon élégante...!2013/01/24 21:42:54

『美しく怒れ』
岡本太郎著
角川書店(角川oneテーマ21)(2011年)


太郎が好きである。
古くはウルトラマンタロウ。続いてドカベンの山田太郎。我が家の風呂にはなぜか「太郎と花子」というあだ名がついている。
そして岡本太郎。幼少期に大阪万博を経験した私の記憶にこのうえなく「かっこええもん」として焼きついたのがご存じ太陽の塔である。その頃、何のコマーシャルだったかは覚えてないが、岡本太郎がくっと空(くう)をにらんで「芸術は爆発だ!」と叫んだアレ、アレも好きだった。私の記憶の中で、岡本太郎はいつも背広を来ていたが、いわばそういうまともな恰好をしているくせに、彼は芸術家で、しかもかなり変わった人で、おもしろいモノをつぎつぎに生み出す人なのであった。しかし、岡本太郎の作品は、例の太陽の塔のほかには、ほんの数点、美術の教科書の類いに載っていたか、雑誌に掲載されていたか、印刷物を介して絵画作品を観たことがあるだけだ。タイトルも覚えてないし。しかし、岡本太郎の作品に対し、非常に高い好感を覚えたという、これまた記憶だけだが、残っている。絵を描きたいという思いに駆られ、願わくば絵を描いて生きていきたいという意志を強くもつようになった頃、平凡な自分とヘンテコな岡本太郎との乖離にけっこう絶望した。偉大な芸術家には、変人でなければなれない。そんな誤解を抱きながら、だから普通の私には無理やんかぁとうなだれながら、それでも美術を学んでいたが、歳をとり、絵を諦め、デザインも手放して、それからさらにずいぶん時をおいてから、芸術家たちだってかなり普通の人間なのだなと思うようになったのである。
それは、こんな普通の私にも、私なりの紆余曲折や波瀾万丈や海千山千があるように、特異に見える芸術家の人生、奔放すぎたり苛酷すぎたりだらしなさすぎたりエロすぎたり、といった人生も、凡人のそれと紙一重に過ぎない。
人間として特殊でもなく、人生も特別ではない。ただ、表現者としてコンテンポラリーに評価される術をたまたま身につけていた、あるいは努力して獲得した、どちらでもいいが、つまりは表現者として別格だったのである。
岡本太郎は、表現者としては、芸術作品を生み出すことにおいて超一流だった。

で、今回の本である。
おばはんになったせいか、いちいちアタマにくることが増えて(笑)、気がつくとひとりでぼやいていたりイライラしていたりする。「あああああーーーーったくもおおおおおおおっ」と、主にクライアントからのメールに向かって叫ぶ私。ああ、こんな生活が何年続いていることだろう。いまさらだけど、眉間の皺は、満面の笑顔でいる時でさえ消えないし、芝居がかった作り笑顔でうなずいても、口角はなかなか上がってくれない。しかめっつらでいる時間が増えちゃって、美容にも健康にもよろしくない。わかってるさ。だけど怒るネタに事欠かないので困るのである。楽しく笑えるネタをくれっ。っても、誰がしたのかこんなひどい世の中にって状態だもんなあ、にこやかでいたいのは山々だけどさ、この際あたりかまわずわめき散らすほうが心身の健康にいいかもなあ、なんてぶつくさアタマの中でつぶやきながらうろついていた本屋で見つけたのが『美しく怒れ』。しかも岡本太郎。買わないわけがないざましょ!

「怒らないのは堕落である」
帯のセリフがいいねえ。

しかし。
しかしである。
私は思った。「岡本太郎は文章を書く人ではない」。本書は、太郎が書き下ろしたものではなくて、岡本敏子編纂によって成立した新書である。だから、一冊の書籍として散漫な感じがあるのはしかたがないし、いま言及したいのはそこではない。
岡本太郎の感性が冴えわたり、鋭利に研がれた精神そして頭脳がフル回転していた頃のニッポンには、その時なりの問題が山積していたことだろう。彼は、世の中に巣食う怠惰や狡猾、蔓延する先送りや後回し、無駄な迂回や時間潰し、あからさまな無視や見て見ぬ振りに対して憤る。実に正直に、憤っている。だが、そのように言葉で憤りを書き留めるよりも、一枚の絵や一点の彫刻にしたほうが、彼のいらだちや憤りは、美しい怒りとして人の心に届いたのではないか、と思うのである。
なぜかというと、どう読んでも、「美しく」「怒って」いるようには感じられないからである。なんだかうるさいオッサンがぼやいている、ようにしか読めないのである。ううむ……。
彼はどんな時も全身に力を込め、エネルギーをみなぎらせて表現していたと想像する。
本書に書かれた言葉のひとつひとつも、文の一行一行も、たしかに真っ向勝負で力強い。しかも、けっして汚くはない。清廉で丁寧である。
けれども、美しく怒るというのとはかなり異なるように思われる。
それはたぶん、現在のニッポン社会に否応なく横たわっている厭世観、目に見えないものへの恐怖や不安、そして自分たちだけでは何ひとつ解決に結びつかないあまりに数多くの事どもへの怒りが、あまりに大きすぎて、いま本書を読むことが何の慰めにも励ましにもならないからだろう。
太郎の時代の理不尽はいまも理不尽なまま残っているし、不条理はますます顕著になっているし、腐敗にはますます重い蓋がなされて無臭なまま、だから人々は気づかず、気づいた人にも重すぎる蓋をどける力はない。あまりに大きすぎる怒りという凸は、大きな絶望という凹と共存しているため、プラマイゼロになり露にならない。だから、私たちだって、美しく怒れるものならそう在りたいが、どう表出すればそう在れるのかは皆目わからない。そして、本書は、その指南書にはならない。ま、それは、年代のずれゆえ、トピックがずれていることもあるだろう。太郎のせいじゃない。
しかし、岡本太郎は、やはり、おっさんのぼやきにしろ、芸術でそれを表現しなくてはならなかった。彼は文章だってエッセイだって芸術だといったかもしれないが、いや違うよ太郎さん。通底するものは在るかもしれないし、絵も文も優れた人だっているだろうけど、あることに突き抜けるほどの表現者で在れる人は、ほかのことではたいしたことないってのは、世の習い。

石川九楊という書家を、これまた私はたいへん愛しているのだが、彼の書の素晴しさといったら、もう、言葉にならないんだけど、舌鋒鋭いことでたいへん人気の彼の講演も、私には平成の人生幸朗にしか聴こえなくて、いや、喋るんじゃなくてそのボヤキ、書こうよ九楊先生、と聴講中、私は心の中で叫び続けたものだ。

美しく怒るって、どんなことだろう。
なんとなく、この人のこの態度がそうじゃないのかな、という例を見つけたので、全文を引用する。

********************
2013年01月23日12:30
こちら特報部東京(中日)新聞

原爆、原発へ対抗するために「人間信じたい」
被爆作家・林京子さんの思い


長崎で被爆した作家の林京子さん(82)。その体験をつづった作品「祭りの場」で1975年に芥川賞を受賞し、その後も被爆体験を抱えて生きることの意味を問い続けてきた。


「原爆と原発はイコール。人間と核とは共存できない」。そうした思いを作品を通じて発信してきた林さんの目にいま、福島原発事故とその後の日本社会はどう映っているのだろうか。(出田阿生)


神奈川県逗子市の自宅に近いJR逗子駅前に現れた林さんの背は、すっと伸びていた。ジーンズにブーツ姿。赤で統一された首飾りやマニキュアの差し色が美しい。

「福島の事故が起きてから、一度はもう核のことは一切考えまいと思った。被爆者全体が裏切られたのだ、と知ったからです。もう国に何を言ってもダメだと…。これほどの落胆はなかった。(長崎に原爆が投下された)8月9日以上のショックだった」

被爆者たちは長年、残留放射線による内部被曝や低線量被曝の存在を無視する国に、原爆症認定の申請を却下され続けてきた。
ところが、福島原発事故の記者会見を見て、政府の担当者が「内部被曝」という言葉を使っていることに気づいた。つまり、国は内部被曝の被害を知っていて、原爆症認定を却下し続けてきたのだ─と気づかされた。
林さんが被爆したのは、長崎県立高等女学校の3年生のとき。勤労奉仕先だった長崎市内の三菱兵器工場で爆風に吹き飛ばされた。3日歩いて帰宅すると、手足の毛穴全てから黄色い膿が噴き出した。被曝の急性症状だった。

【少女たちもモップ状になって立っていた。肉の脂がしたたって、はちゅう類のように光った。小刻みに震えながら、いたかねえ、いたかねえとおたがいに訴えあっている】(「祭りの場」より)

◆詳細な被爆描写 カルテのつもり

自身の被爆体験を詳細に記した「祭りの場」は、カルテのつもりで書いたという。「わたくしは自分がモルモットになってもいいと思っている。死んだときは骨を砕いて調べてほしい」

奇跡的に生き延びた同級生たちは、30〜40代になると次々と亡くなった。がんや甲状腺の病気が多かった。通院や入院が相次ぎ、一時は「病院で同窓会が開ける」と言い合うほどだった。
林さんが14歳まで暮らした中国・上海の同級生たちには、そんな年齢で若死にする人はいなかった。被爆の影響と考えるのは当然だった。

「原爆症が認定されれば、少なくとも死の間際に、自分の人生を嫌々にせよ、肯定できると思う。友人たちは却下、却下で影響を曖昧にされたまま、小さな子らを残して死んでいった」

林さん自身も、白血球の減少などの症状に苦しんだ。「体の中に時限爆弾がある」という恐怖は結婚して子供ができるとさらに切迫した。
原爆症の遺伝を恐れ、妊娠8カ月で医者に「勇気がありません。処理していただけますか」と頼んだ。しかし、紹介された大学病院の待合室に行くと、泣き叫ぶ幼児や懸命にあやす母親たちが大勢いた。

「ああ、この命を産むんだと思って、そのまま帰ってきた。帰ってきてよかった。息子には言ってないんですけれど…。やはり産まない選択をした人もたくさんいる」

出産直後、赤ん坊の体の薄赤い斑点を見て、思わず「先生、これは紫斑(被曝による皮下出血)ですか」と聞いた。息子が鼻血を出すたびに原爆症を疑い、病院に連れて行った。夫に恐怖をぶつけ続けた。「離婚するとき、夫に『君との結婚生活は被爆者との生活だった』と言われた。被害を周囲にばらまいているようなものですよね」
放射性物質がどれだけ人々の健康と命を脅かすか。作品を通じて、静かに訴え続けてきた。「私たち被爆者は、核時代のとば口に立たされた、新しい人種なのだと思う。わたくしは作品で、原爆と原発とは同じだと訴えてきたつもりでした」
人間は核をコントロールできない。科学の進歩に倫理が追いつかない─。福島原発事故での東京電力のテレビ会議映像を見て、がくぜんとした。水素爆発を防ぐため、自衛隊に建屋を破壊させる提案を「危険だ」と指摘された本店幹部が「どのみち吹っ飛ぶぜ」と捨て鉢な発言をしていた。
日本よりも世界の危機感の方が強いのでは、とも感じた。福島の事故から半年もしないうちに、ドイツでは林さんの短編「トリニティからトリニティへ」 と 「長い時間をかけた人間の経験」が緊急出版された。
「トリニティ…」は99年秋、米国・ニューメキシコ州の核実験場を訪れた体験を書いた作品。広島と長崎への投下直前、人類が初めて原爆実験をした場所だ。

◆初の原爆実験で まず自然犠牲に

そこは生き物が消えた世界だった。バッタ1匹飛ばず、空には鳥の影もない。最初に核の被害を受けたのは自分たち被爆者だと思っていたが、人間より先に焼き尽くされた自然や生き物を思い、涙があふれたという。
福島原発事故後、気力を失っていた林さんが前を向こうと思い直したきっかけは、昨年7月、東京・代々木公園で催された「さようなら原発10万人集会」に参加したことだった。
杖をついた同世代の老紳士は、入院先を抜け出してきたと話した。「最後に子どもたちに何かいいことを一つだけでも残したくて」と言った。

「核の問題を命の問題と捉えてやって来た人が大勢いた。ああ、核と人間の問題はここに落ちてきたと実感しました」

日本は今後、変われるのだろうか─。そう質問すると林さんは、米国の大学生に自らの被爆体験について講演したときのことを話し始めた。
話に聞き入る若者たちの青い目は、見る間に充血して赤くなった。最後に一人の男子学生が「林さん、世界はこれからどうなると思いますか」と質問した。
林さんは「政治家でもないし、分からない。でも、人間を信じます。あなた方を信じます」と答えたという。
全員が立ち上がって拍手をした。「彼らは何かを信じたかったんだと思います。そして、『自分自身を信じよう』と思ったのだと思います」
そして、こう付け加えた。「日本がこれからどうなるのか、分かりません。でも、全てを金銭に置き換えようとする今の『悪い平和』は変えたいですよね」

[デスクメモ]
林さんはぶれない。芸術選奨の新人賞に選ばれた際に「被爆者であるから国家の賞を受けられない」と拒んだ。人は死から逃れられない。だから、国家や神に自らを委ねがちだ。だが、彼女は「命一つあれば十分」と言い放つ。再び国家やカネの論理が頭をもたげてきたいま、彼女の存在は重い。(牧)

[はやし・きょうこ]
1930年、長崎市生まれ。三井物産に勤める父の転勤で、1歳になる前に中国・上海へ移住。14歳で帰国し、被爆した。53年、長男を出産。主な作品に「祭りの場」「上海」(女流文学賞)「三界の家」(川端康成文学賞)「やすらかに今はねむり給え」(谷崎潤一郎賞)「長い時間をかけた人間の経験」(野間文学賞)など。

2013年1月21日 東京新聞[こちら特報部]

阿修羅掲示板より
投稿者 みょん 日時 2013年1月21日 07:59:27: 7lOHRJeYvJalE
http://www.asyura2.com/12/genpatu29/msg/770.html
*******************************

C'est quelque chose pour la vie...2013/01/10 18:38:51




『辰巳芳子 スープの手ほどき 和の部』
辰巳芳子著
文藝春秋(2011年1月)

料理の本である。でも、基本タテ組み、料理の手順を示す写真の横に時折ヨコ組みで説明が入る。書体は基本、明朝体。細明朝、太明朝、見出し明朝とヴァリエーションをフル活用しているが、ゴシック系のサンセリフ書体は皆無。アルファベットのあしらいも一切ない。アラビア数字は随所に使用されているけれど……材料の分量を表記する際くらいである。なんとも潔い、日本語の本。


料理本の多くはヨコ組み、左開きの体裁だ。人数分や、材料の分量、また1、2、3……と作りかたを箇条書きにする場合、ヨコ組みのほうが誌面が落ち着く。昨今の、レシピサイトや料理ブログ大流行りとあいまって、まるでウエブサイトをそのままもってきたような、ページを繰ると著者のブログをスクロールしているような、そんなつくりの料理本もはびこる。
そして多くの場合、料理本は写真にモノをいわせる。器、クロスなどとともに美しくあるいはセンスよくスタイリングされた料理写真満載の本は、レシピの記載が多少不親切だったり、料理じたいに新味なくありきたりであったりしても、よく売れる。
でも辰巳さんの本は、記憶する限り、すべてタテ組みだ。

タテ組みであっても、レシピが読みづらいとか、手順がわかりにくいといったことはまったくない。それは、辰巳さんの文章が必要十分であるからだ。余計なことを言わないけれど、辰巳さんの想像を超えて現代人は料理を、食を知らないので、そうした初心者の心をわしづかみにする「ツボ」を押さえるひと言がさりげなく添えられている。


「レシピ」なんて外来語は使わない。レシピってどこからきていつの間に料理の作りかたを指すようになったのか。語源の英単語はrecipe。調理法のほか、医療用語の処方箋の意味もある。日本では「処方箋」を指す外来語はドイツ語のRezeptを「レセプト」と読んで採用しているけれど。ちなみに仏語では調理法はrecette。recipeはラテン語由来のようだけど仏語にはない。いちばん綴りの近い語「recipient」は「容器」のことだ。
話が逸れたが、つまり今さら和訳不可能な用語をカタカナ表記する以外には(たとえば「スープ」ね)、氾濫し蔓延るけったいなカタカナ語は用いないのである。したがって、調理上注意を促す必要のあるプロセスについても、「ここがポイント!」なんて表現はしないのである。
なんと「かんどころ」である。ブラヴォ!

いつか辰巳さんのエッセイ本について書いたことがあるけど、とにかく現代人の食生活に危機感を覚え、日本人の食文化の衰退を憤っておられる。時の流れは残酷なほど人間に変化を強いる。人間は変化に抗ったり応じたり、一緒に変わってみたり頑固に変わらなかったりして、生き延びている。そのことを辰巳さんは否定しない。ただ、間違ってはいけないというのだ。
《文化のなかには手放してよいものと、
 頼らなければならないものがある。
 伝えなくてもよいものと、
 伝えなければならないものがある。》(32ページ)


「わきまえ事」である。
人が人であるために、なによりもわきまえておかねばならないことがある。
ずっと昔、当時の男(仏産)に「人間は自然に生かされている」と言おうとしたことがある。それを、このままの日本語ニュアンスでどうしても言えなくて、文法的には「自然のおかげで生きることができている」というような言いかたになったと思う。するとその仏産の男は言下に否定した。「それは違うな。人間は自然を制御しなきゃな」。もう記憶が曖昧だが、その時彼はcontrolerという動詞を「支配する」「制圧する」という意味でなく、「管理監督する」「操る」「うまく利用する」という意味で用いたんだなと、その時の私はとっさに解釈したんだが、のちに、そいつとの月日に幕を引くと同時に、さまざまな発言や文献を見聞きして、やはりあの時彼は「人間が自然を支配する」と言ったのかもしれないと思った。私たちは、土にも石にも水にも樹木にも稲穂にも神が宿ると思っているが、奴らの神はイエス・キリストただ一人。地面とか海とか山とかは、人間が住みつき切り拓き、知恵を絞って有効に使い、支配下に置くものだと考えているのである。
フレンチもイタリアンもおいしいけど、その料理の根本にある姿勢に、「いのちをいただく」といった精神は全然ないように思う。「食べてやる」という気持ちのほうが強いと感じる。
そのことが悪いというつもりはない。人の心身は風土でつくられる。日本人には日本の風土において形成された心身が、西洋人には西洋のそれがある。それでよいと思う。



辰巳さんのスープづくりにおける信念は、「いのちをはぐくむ」ことだ。動植物の命をいただき、人の生命に活力を吹き込むための、かけがえのないひと口のためのスープ。愛する人の命を育み、はばたかせ、永らえて、やがて迎える終焉にも穏やかに寄り添うことのできる、スープ。
和食における料理のイロハ(だしの引きかたなど)をきちんと押さえてあるので、レシピ本としてとても応用の利く一冊。加えて、自身の、家族の、地域の、社会の食生活・食文化を見つめ直すにもよい本である。
本書は東日本大震災の起こる前に出版された。
もはや、日本の「食」は取り返しのつかないところまで退廃しているといっても過言ではないが、私たちが「健康に」「生き延びて」「時代へ伝える」ために、知っておかなくてはならないことの、いくつかが書かれている。
子どもたちのために、そして私たちの親世代のために、読みたい本である。

Oui, je t'aime!2012/11/15 19:49:11

『沈む日本を愛せますか』
内田 樹、高橋源一郎著 (対談)
(進行:渋谷陽一)
ロッキングオン (2010/12)



眼がね……疲れるのよね、とても。この頃すっごく。PC見ている時間も、本読む時間も以前に比べて別に増えてはいないのに。これも老化現象かなあ。老眼が進んだから、コンタクトやめてメガネに替えたけど、だんだん度が合わなくなってきてるし。年中、皮膚の乾燥がひどいんだけど(これって昔はなかった症状なのよね、ほんの数年よ乾燥肌デビューして)、とうとう眼にも来たかあ? ドライアイって、どの程度でドライっていえるのかな? 来春が思いやられるよ~~(超ど級花粉症)

本書の続編『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか』が出版されてるのに第一弾について今頃言及するのはたいへん遅きに失した感があるのだが、昨日、ノダヌキが「解散してもいい!」なんてゆっちゃったよニュースを読んで、なんだか感慨深いものを感じたのである。

写真に写っている本書は図書館で借りたもの。発売後すぐは例によって予約が殺到していた。しばらくして予約数ゼロになって借りて読んだが、大震災の後だった。だから、けっして読後感は悪くなかったが、ちょっと虚しかった。大震災の後って、なんであれ、俎上に乗っているあれやこれやすべてどうでもいい、東北を何とかしようよって、日本中が思ったよね。

民主党ってなんだったっけ? みたいな、政治スライム状態の今、政権交代直後からを扱っている本書を読み直すとけっこう面白いかも、と思った。で、もう一度借りて読んでみたのだ。



私は「ロック」という分野にとんと疎いので、一部のロック野郎さんたちにとって『ロッキング・オン』や「渋谷陽一」という名詞が 「=神」に等しいということも、最近知ったのである。最近といってもまあこの2年ほど、なんだけど。というのも『SIGHT』という、『ロッキング・オン』別冊という位置づけの雑誌にたびたび愛するウチダが寄稿したり、対談したりしているのを何かで見て『SIGHT』を借りて読んだり、ある号は購入したりするようになった。東日本大震災以降は、やはり反核反原発志向を明快にしているので、手にしても違和感がなかった。ただ、『ロッキング・オン』や「渋谷陽一」って何?誰?の域を長いこと出なかった。というか、どうでもよかった。いまでも、どうでもいい。
本書で渋谷陽一は司会進行役であり、随所で長い発言もしているのだが、ちょっぴりずれていて悲しかったり、ウチダや高橋源一郎に「いや、違うよ」と完全に否定されるならまだいいほうで「そうかもね」「それは置いといてさ」とスルーされたり、あるいは相槌すら打たれた気配なく次の発言に移ってしまったりするのが滑稽であり、ときどき「渋谷くんの言うことはこういうことなんだよね」「それは確かに理解できるよ」なんて二人から助け舟出されたりしているに至っては、ある人々はたぶん「渋谷の発言はすべて削って編集すべきだった」という感想をもつに違いないと思わせるに十分だ。でも、私は滑稽さもご愛嬌だと楽しめた。本書は政治の専門家が真面目に議論をしているわけではない。武道家+小説家+音楽評論家なんて、レツゴー三匹の漫才のほうがましだよ。
その程度だと思って読めば、十分に面白い。

私は対談本は好きではない。編集されてきれいに整えられているに決まっているし、しかもそれは喋ったメンバーの都合よりは出版社(主催者)の都合だったりするからだ。愛するウチダがいくら「この対談本には危ない話も暴論も脱線も全部入ってます」と言っても、そこは必ず「ここから先はアウト」の線引き、校閲なしには進まないのだから、すべてありのままというわけにはいかない。
本書でも、たぶん渋谷はもっともっと頓珍漢な発言を多々していたに違いないけど、それは対談の体裁を向上させるために削除されているはずだ。
対談の臨場感を残すことと、読みやすく整えることは相反する。
ウチダが、ブログに書き連ねたことを再編集して出した本でなく、まさに「本を書く」ために書いた本には、彼の渾身の愛がこもっていて、重く、厚く、深い。何度読んでも、涙が出る。ゆっておくが、文章のうまさに感動するとか、真実を突いてるから得心するとか、そんなことで出る涙ではない。彼の思考の軌跡をたどることで私の思考が奇跡に達するから、とでもいえばいいだろうか。彼の1行1行が、「今」の「私」の思いの筋にぴったり呼応する。このことは、同じ本でも、読む時期、読む時間、読む気持ちによって異なるのだ。

そういうウチダの本を読んだ者(と一般的な書き方をしたが、先のような感想をもつのは私くらいだろう)にとっては、ウチダの対談本は、彼が遊んでいるようにしか見えない。時にそれは不愉快である。だが、長年自称ウチダの弟子をやっていると、彼の遊びの範囲もわかる。彼は極端な表現をし、それを暴言と批判されたりもするが、そんなの全部「シャレ」である。それは、ウチダばかり読んでると、肌でわかるようになる。活字の並び方でわかる。


本書は、高橋源一郎ファンにとってはどう位置づけされるのだろう。私はこの小説家の小説を一度も読んだことがない。以前購読していた新聞にコラムを交代で連載していたことがあったが、その文体も話題の取り上げかたも好きではなかった。新聞をきっかけにその作家の小説を読みたくなる、ということが私にはよくあるのだが、高橋にはそういう欲望を覚えずじまいだった。

対談を素直に読み進んでいくと、舌も滑らかに高橋が話題を提供する横で、時に鋭い指摘とともに持論を展開するウチダ、外れた合いの手を入れて無視される渋谷、という図があまりに明快なものだから、あまり余計なことを考えないで、まさにトークを聞く感じですっすっと読んでしまう。300ページをはるかに超えるが、あっという間に読める。そして、えっと、何の本だっけ? と、内容については思い出せない。たしかあれについて書いてたけど、どこだっけ? ま、いっか。みたいな読後感。
そんな本なので、一気に読んだけど全然眼は疲れない。

対談は2009年から2010年8月に行われたもので、政権与党が民主党になってから、首相が鳩山から菅に代わったあたりまでである。そしてページの多数を小沢一郎について割いている。小沢シンパの私にとって、楽しい内容であった。小沢大嫌いの渋谷が本の最後のほうで「小沢さんってすごいですね」というのを目にすると、ちょっと渋谷が気の毒に感じた。だってこの人、「みんなの党」支持者なんだよね。

Il a fait une averse, ensuite une autre, le temps se refroidit de plus en plus...Brrr!!!2012/11/14 18:32:21

ひと雨ごとに寒くなる。夏は冷房器具なしでやり過ごせた我が家も、冬は暖房器具を使わずして過ごせない。さわやかで心地よかった秋の空気とその匂いはあっという間に冬将軍の足音にとって代わられる。昨夜、入浴後に再び椅子に腰かけ、針と糸を手にして縫い物を始めると、テーブル下のホットカーペットに寝そべっていた猫が湯気の香りを嗅ぎつけて私の膝に乗ってくる。そのまま熟睡モード。カーペットよりも私の膝のほうが温いだろうし、私も猫が膝にいてくれたほうが、重いけど暖かい。

『現場に生きる 子ども支援・家族支援――ケースアプローチの実際と活用』
小木曽 宏著
生活書院(2007年)


児童虐待の現実や対策を取材したり、また児童、若者を受け入れる養護施設や援助ホームを訪ねたりといった仕事が、ある。多くはないが、一度経験するとそのインパクトは大きい。これこれこういう施設を訪ねます、虐待問題に詳しいホニャララ先生に話を聞きに行きます、援助ホームで社会復帰に向けて頑張る若者を取材します……というような要請が来るたび、問題の所在まで遠回りせずにたどり着くため類似文献や事例報告を下調べする。取材対象者の著作にあたる。虐待ってなんなのか、その境界線ってあるのか、あるいは境界線を引くことに意味はあるのか。疑問がいくらでも湧いてくるのだが、自分の疑問の解決に割く時間はあまりない。とにかく文献をあさって「理論武装」して、「わかったふり」をするために、にわか仕込みで「日本の児童虐待問題を追いかけてン年の凄腕ルポライター」を装う(笑)。いつまで続くかな、こんなこと。
子どもを育ててみれば、虐待してしまう親の気持ちはわからなくもない、という気がするときもある。子どもという生き物は、まぎれもなく進行形で発展途上中、急成長中である。生き物としてもうとっくに退化段階に入った大人たちみんながみんな、その成長ぶりに目を細め笑みを湛え心からの喜びに歓喜の声を上げるかと問えば、んなもん、そんな大人ばっかりじゃねえべ、って答えが返ってくるだろう。小さくても自分の意志で泣く。わめく。むずがる。悪態をつく。ったくこげな可愛げのねえもん誰がよこしたんだべえ、ここへっ。あ、あたしが産んだんや。みたいな。
しかし、「ここまでやるには相当な覚悟がいるよな、ここまで苛め抜くにはとんでもなく膨らんだ憎悪があるんだろうな」と思わずにいられないさまざまな事例のオンパレードを読むうちに、やはりとうてい理解に至れない複雑な感情が親の心に絡み、もつれていることが想像され、単純に生きてきた私は「虐待する親の気持ちがわからない」ほうへ結論がいってしまう。
だが、子ども支援、家族支援の現場は非常に理論的かつ科学的に、観察および記録、事例研究およびワークショップが重ねられ、たいへん合理的に、多くの子ども、その親、配偶者、祖父母、ひいては家族全員を、救うに至るケースがとても多いのである。ワーカーたちは誰もが「虐待する親の気持ちがわかる」わけではない。むしろ「わからない」から始まる人たちのはずなのだが、学習と実務を経てプロフェッショナルになっていく。小さな子どもの虐待死などがあると、報道はこぞって児童相談所や養護施設、福祉事務所や学校や幼稚園の側を責め立てる論調で記事を書き、読むほうは「またか」との思いを抱くのだがそれは誤りである。事なきを得て、綱渡りながらなんとか親子、家族関係の再生を果たす途上にある子どもと親のほうが圧倒的に多いのである。だが、「家族仲良く」「絆大切に」の大合唱かまびすしいこの国の社会では、うまくいって当たり前。破たんした家族の再生がどんな困難な道のりであろうと、成功事例はニュースにはならない。
本書に収められているのは成功事例ばかりではないし、出版時には成功したかに見えても後年破たんした家族もある。だが、凄まじく荒れていた生活と精神が奇跡のように落ち着きを取り戻す瞬間が見えるとき、読者は安堵を覚える。どん底へ落ちても這い上がる力があれば、引き上げる力を持つ者に出会えば救われ、道は拓かれる。

章題をいくつか並べてみる。結構エキサイティングである。
*********************************
家族援助の方法と実際
事例「誘拐されたリカちゃんのママ」――階段のない2世帯住宅のナゾ
ステップファミリー研究――「離婚」「再婚」ケースの支援と施設職員の役割
「被虐待」と「非行」問題の世代間連鎖
「放火」事例から考える
母子の「怒り」と「表出」
問題行動の「言語化過程」
児童相談所と母親支援
「不登校・引きこもり事例」と世代間連鎖
不登校の事例──摂食障害の母親と長期不登校のR子
****************************************
事例は、上記のほかにも、夫による妻へのDVとそれが引き起こす子ども虐待、また虐待の事実はないのに子どもが非行に走るケースなど、多岐にわたる。気が萎えるが、家庭ひとつひとつに対し、また家族構成員ひとりひとりに対し、きめ細かく向かい合っている様子も窺い知れる。



『施設でくらす子どもたち』
平湯 真人著
子どもの人権双書編集委員会編
明石書店(2000年)

こちらは、養護施設を舞台に子どもの側の視点で著されたもの。生まれてきたからには必ずあるはずの「家族」という器、あるいは柱、あるいは手すりなしに、独りで生きることを強いられる子どもたち。その生活の場である養護施設がどう機能しているかをレポートする。
この国ではけっこうたやすく誰もが「人権」を口にする。人権教育などと銘うって、思いやりの心大切に、なーんて、授業で教師が話す。人権って、私、思いやりとか優しさとは関係ないもんだと思うんだけど、どう?


『施設で育った子どもたちの語り』
施設で育った子どもたちの語り編集委員会編
明石書店(2012年)

壮絶なバトルの末、養護施設や里親に引き取られて成長した子どもたちの語り。彼らの多くが福祉や援助の現場で働いている。社会復帰のプロセスはさまざまだが、共通してあるのは「自分のようにあんな辛い思いを他の誰にもさせたくない」という気持ちだ。よく、大きくなってくれたね。おばちゃんは、お礼を言うよ。

下記は目次の一部、順不同。
*********************************
居場所をなくす不安と闘いながら(小林大)
夢はあきらめるものではなく、つかみ取るもの(瀬川舞佳)
俺の「ろくでもない人生」からの逆転(松本明祐)
面白くかっこええ大人を目指して(あらいちえ)
生きるために必要なことは施設で学んだ(松井啓介)
「いい経験ができた26年間」と言えるようになって(成田雄也)
世界は、愛で満ちていてほしい(鎌田成美)
****************************************

愛で満ちていてほしい。
本当にそうだね。
シャガールも言ってたさ。
すべては愛なのです。真の芸術は愛にある。愛を描かずに何を描くというのでしょう。
これも愛。たぶん愛。それも愛。きっと愛。
生きとし生けるものの在るところ、多寡はあれど愛に満ち満ちているはず。
愛を糧に、生きていくわよ。
愛のかけらもないところ、それは、言わずもがなだけど原子炉。
こんちきしょーめ。負けないわっ

Il fait beau en ce moment, mais selon la météo il va pleuvoir cet apres-midi.2012/11/13 11:16:29

サイドバーにリンクは張っていないけど、時々読みに行くブログから引用3件。

***********************************

小沢氏、2審も無罪 検察と記者クラブによる冤罪に終止符を
2012年11月12日 15:28

(写真)
小雨の降るなか無罪判決を待つ小沢氏の支持者。=12日午前10時、東京高裁前。写真:田中撮影=


 政治資金規正法違反で強制起訴された「国民の生活が第一」の小沢一郎代表に控訴審判決が言い渡される東京高裁102号法廷に入るや我が目を疑った。
 傍聴席の半分に、「報道記者席」と書かれた白いビニールシートが麗々しくかけられているのである。正確に言うと全98席のうち41席が記者クラブ様御席だ。普通の国民は早朝から並んでも、傍聴券を手にするのは宝クジに当たるようなものだ。法の下の平等が裁判所から崩れているではないか。
 怒りが脳髄にこみ上げた筆者は声をあげた。「裁判長、傍聴席の半分が記者クラブ席というのでは、公判廷とは言えないではないですか?」。一般傍聴席からも「民主的にやってくれよ」との声が飛んだ。裁判長はすかさず「静粛にして下さい」と注意を与えた。
 それにしても司法から記者クラブへの便宜供与には驚く。判決文の朗読が始まってもクラブ詰めの記者たちはペンを走らせない。判決文は後ほど検察あるいは裁判所からもらえるのだろう。30年前は裁判所が判決文のコピーをクラブ詰めの記者に渡していた。
 期日簿をノートに写すことができるのも記者クラブの特権だった。期日簿とは民事、刑事問わず、今後の裁判予定がすべて書き込まれている帳面のことだ。
 記者クラブは裁判所から多大な便宜供与を受ける代わりに判決について批判めいたことは書かない。判決を批判したような記事を見かけたことはほとんどない。
 裁判所は検察の主張をほぼ認める。記者クラブは検察リークを受けて書き飛ばす。抑止機能なんてあったものじゃない。この国の司法はほとんどすべて検察の言いなり、と言ってよい。

(写真)
東京高裁。向こうの赤レンガは法務省。=写真:田中撮影=


 陸山会事件で東京地検は小沢氏に有利な証言は隠し、不利となる証言を捏造した。捏造に関与した現職(事件当時)の検事や次席検事が公文書偽造などの罪で逮捕、起訴されている。
 検察が捏造調書を検察審査会に送り、検察審査会はそれをもとに小沢氏を強制起訴したのである。デッチあげ裁判そのものだ。検察による捏造が明らかになってからもマスコミは小沢氏を限りなく黒に近い灰色のように扱ってきた。
 小沢氏が検察と記者クラブの両方から目の敵にされていたので、検察審査会を利用したイカサマが罷り通ったのである。陸山会事件は検察と記者クラブが一体となって作り出した冤罪だった。
 小沢氏の控訴審判決公判はきょう午前10時30分に開廷した。小川正持裁判長が「被告人は前へ出て下さい」と小沢氏を促した。裁判長が「控訴を棄却する」と告げると小沢氏は軽く一礼した。
 検察官役の指定弁護人らは一様にがっくりきた様子だった。ある者は天を仰ぎ、ある者はうなだれた。いずれも苦渋の表情を浮かべた。
 紺のスーツに青と赤のレジメンタルタイ姿の小沢氏は、背筋を伸ばしたまま表情ひとつ変えず判決に耳を傾けた。
 検察側(指定弁護人)からは一審を覆すような新しい証拠は何ひとつ出ず、法廷はたった一度開かれたきりだった。無罪は素人目にも明らかだった。
 西松建設事件(2009年3月)に端を発した陸山会事件は、3年近い膨大な時間を無駄に費やした。政権交代をはさんだこの間の政治的混乱を考えれば、無駄などという言葉で括れないほど日本の政治を傷つけた。
 検察官役の指定弁護人には、徒に上告しないことを願うのみである。

 《文・田中龍作》

政治カテゴリのその他の記事
デモ禁止された市民が包囲 霞が関、国会に響く「再稼働反対」
【第一報】 集会デモ禁止の日比谷公園 警察隊が入口でピケ
11・11 日比谷公園 “散歩”多数集まれば…都「警察出動要請もありうる」
生活・小沢代表 「フジTVの世論調査は不可解だね」
都が日比谷公園からのデモ出発を許可せず 危機に晒される「集会の自由」

Copyright c2012 Tanaka Ryusaku Journal. All Rights Reserved.

***********************************
(midiより)
「田中龍作ジャーナル」は:
http://tanakaryusaku.jp/

***********************************

2012年11月13日 (火)
小沢一郎氏は不死鳥の如く蘇り政権奪還を実現す

「国民の生活が第一」代表の小沢一郎氏に対して東京高裁が無罪判決を示した。
4月26日の第一審無罪判決に続き、控訴審でも小沢氏は無罪を勝ち取った。
全国紙各社は号外を発行してこの重要事実を伝えるべきであるが、号外を発行した社はない。
2009年から2011年にかけて、日本のマスメディアは小沢一郎氏を極悪非道の犯罪人として報道し続けてきた。
2009年9月14日に検察審査会が二度目の起訴議決をしたことが10月4日に公表された。
このとき、日本のマスメディアはどのような報道をしたか。
忘れたとは言わせない。
1789年に定められた「フランス人権宣言」。
その第9条は次のものである。

第9条(無罪の推定)
何人も、有罪と宣告されるまでは無罪と推定される。ゆえに、逮捕が不可欠と判断された場合でも、その身柄の確保にとって不必要に厳しい強制は、すべて、法律によって厳重に抑止されなければならない。

「無罪推定の原則」は基本的人権を守るための対応である。
無罪の人間を間違っても犯人視報道することのないように、有罪の宣告、あるいは有罪の確定までは、無罪を推定する。
人を呼ぶときにどのような呼称で呼ぶかは、報道において極めて重要な問題だ。
「被告」の呼称は、もしこの人物が無実の人間であれば重大な人権侵害となる呼称である。
スマップの草薙剛氏、作曲家の小室哲哉氏などに対して、マスメディアはどのような呼称を用いてきたのかを検証するべきである。
無実潔白の小沢一郎氏を、日本のマスメディアは極悪非道の犯罪人として報道し続けてきた事実を忘れたのか。
本日の控訴審で小沢氏に対して再び無罪判決が示された。
上告の理由は、重大な判例違反か憲法違反であり、今回の事案で上告する理由は存在しない。
指定弁護士が上告を行わない可能性が高い。
その場合、小沢氏の無罪が確定する。
その可能性が極めて高いにもかかわらず、マスメディアの多くが、本日の判決報道においてさえ、「被告」の呼称を使い続けた。
日本のマスメディアが腐り果てていることを知る国民が激増しているが、ここまで来ると、もはや病的である。
いま日本の主権者国民に必要なことは、日本のメディアがすでに死亡しているということを正しく認識することだ。
メディアは3年半の間、小沢一郎氏を極悪非道の犯罪人として報道し続けてきた。
その事実の肯定、事実の検証、事実の評価、自己批判が不可欠だが、この期に及んで、自己の誤りさえ認めようとしない姿勢である。
自己の誤りを認めないどころか、「小沢代表、政界での「復権」険しく」などの見出しを付けて報道する大馬鹿三太郎新聞まで存在する。
ちなみに、この大馬鹿三太郎新聞とは日本経済新聞のことだ。
殺人犯人として収監されていた菅家利和さんがいた。
実は冤罪だった。
冤罪が明らかにされ、菅家さんが釈放されたとする。
そのときに、
「釈放された菅谷元受刑者、社会での「復権」険しく」
などと報道する大馬鹿新聞がどこにあるというのか。
司法当局といっしょになって菅家さんを犯人視報道し続けた自らの報道姿勢を検証し、謝罪をするのが最低限の行動ではないのか。
つまり、この国はいま、完全に腐っているということだ。
腐っているのは権力だけでない。権力に群がるマスメディアにも腐敗臭が立ち込めている。
一連の巨大謀略の裏側に恐らく米国がいる。
その米国に魂を売り渡している日本人が多数存在する。
米国の指令に基づき、本当の愛国者を破壊する腐敗した官僚機構がある。
カネのためなら何でも協力する守銭奴大資本が存在する。
これと結託する利権政治屋と腐敗しきったマスゴミ。
米・官・業・政・電の既得権益が日本を暗黒社会にしてしまっている。
この現実を変えることのできるのは、主権者国民しかいない。
主権者国民が次の選挙で世直しに動かなければ、この国は本当に滅びてしまう。
本日の高裁判決は適正なものであった。
まともな裁判官が担当者に充当された。
裁判を操作できるのは、担当裁判官を選別できるからだ。
無理を重ねれば、有罪判決を示す裁判官を担当者に起用することもできたはずだ。
それをしなかった。
考えられる理由は、

1.有罪判決を出すハードルが高すぎたこと。
2.これ以上無理を重ねると、日本の裁判制度そのものの崩壊を招くと判断されたこと

の二つだ。
まともな裁判官が担当者に起用されたもうひとつの背景は、小沢氏に対する「人物破壊工作」の目的がすでに達成されたことでもあると思われる。
しかし、「小沢の息の根を止めた」と考えているのかも知れない。
そうだとしたら甘すぎる。
小沢一郎氏は不死鳥の如くによみがえる。
そして、三たび政権樹立に成功するだろう。
この政権樹立が「フェニックス革命」である。

続きは本日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」第403号「陸山会事件の事件性を全面否定した東京高裁判決」でご購読下さい。

***********************************
(midiより)
「植草一秀の『知られざる真実』」は:
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/

***********************************

2012年11月13日
衆院解散報道は小沢無罪報道つぶしだと明言したサンデー毎日編集長 

 小沢二審無罪判決を報じる記事は検察批判や司法改革についてばかりを書くが問題の本質はそこではない。
 小沢裁判とは政治家、官僚、メディアがグルになって意図的に一人の政治家の
政治生命を奪おうとしたという最も深刻な権力犯罪ではなかったか。
 この事が解明されない限り小沢裁判は終わらない。
 それは関与した者たちは知っているはずだ。 そして国民の多くも感じている。
 口に出さないだけだ。口に出しても婉曲的に表現するのが精一杯だ。
 小沢二審無罪判決が出た翌日のきょう11月13日のTBS「みのもんたの朝ズバ!」で象徴的な場面があった。
  午前6時半ごろだったかと思う。
 杉尾 秀哉TBS解説委員や三屋裕子元バレーボール選手らが野田首相の解散・総選挙宣言に関する報道についておざなりのコメントを繰り返していた時だ。
 サンデー毎日編集長というゲスト解説委員が二人の後で、私は少し違った印象を持っているといってこう言ったのだ。
 衆院解散・総選挙の記事は小沢無罪判決にあわせてぶつけてきたと。
 正直な三屋裕子はこのサンデー毎日編集長のコメントにのけぞり、テレビはすぐ
にコマーシャルを流した・・・

 この続きはきょうの「天木直人のメールマガジン」で書いています。
 申し込みはこちらから ⇒ http://goo.gl/YMCeC

***********************************
(midiより)
「天木直人のブログ」は:
http://www.amakiblog.com/blog/

***********************************

C'est le vrai art de vivre!2012/09/06 20:09:05



『暮らしに生きる刺し子―鈴木満子コレクションから』
鈴木満子、林ことみ共著
文化出版局(2005年)


学生時代から駆け出し社会人の頃にかけて、何度も東北へ旅をしたが、とりわけ津軽がお気に入りだった。いつも同じ民宿に泊まって、そこを足場にある年は東へある年は西へ南へと、東北各県のあちこちを訪ねた。なぜそんなに津軽が好きだったかというと、大きな理由が三つある。(1)城下町の名残があって、古くさいまちの住民である私には大変落ち着く空気をまちが持っている。(2)有名なねぷた祭りは、弘前のそれは青森のねぶた祭りの勇壮さと対照的にたいへんエレガントで、これも私の土着的背景と一致して心地よい。(3)子どもの頃から手芸好きだったが、雑誌などで「こぎん刺し」なるものを発見して以来、その産地を訪ねることが当時の私の大目標であった。

記憶がもう曖昧だが、弘前にはこぎん刺し作品を展示販売しているような民俗館みたいな施設がたしか存在して、そういう場所で、むかしむかしのこぎん刺しの袢纏(はんてん)など防寒着、仕事着を見た。厳しい冬を越すために、また農作業をはじめ重労働にいそしむため、民は、貴重な布で仕立てた仕事着が一日でも長く保(も)つように、その身頃や肩やひじの部分を丁寧に刺して補強した。なおかつそれは意匠としても非常に優れていた。むかしのこと、誰かが起こした図案集があるわけではない。女たちは、布の織り目の規則正しい繰り返しに沿って運針した。昔の女たちには針と糸を持つことは特別なことでもなんでもない。針に糸を通し布に刺し始めたら、夫の働く背中を思い浮かべてどんな模様に刺していけばカッコいいか簡単に絵が浮かんだであろう。どこで糸を引っ張り、どこで緩めれば、刺した柄に緩急がついて表情豊かになるかとか、空気の層ができて防寒効果が上がるかとか、そんなことは幾針も幾針も刺し続けるうちに手と体が覚えていったに違いない。現代人はスマホのアプリの操作はわけなくマスターする。新しい技術、新しい機種が押し寄せてもものともせず使いこなしてゆく。しかし自分がゼロから何かを生み出せるかというと、それをする人間はたいへん少数の、ごく一部の突出して優れた能力を持つ人だけに許される特権的行為となってしまった。突出した一部の者たちによるテクノロジーの洪水をただ享受するだけの私たち。むかしむかし、刺し子の腕を磨くには何年もかかっただろうが、ひとたび刺し子を覚えた女たちは、自分だけの図案を生み自分にしか刺せない着物を刺して、愛する者たちに着せ、愛された者たちは世界でたったひとつの刺し子の仕事着を何年も何年も愛用した。男も女も、子どもも老人も皆が、モノをつくる人であると同時に使い続ける人であった。

私はこぎん刺しのふるさと津軽を幾度も訪れたが、ため息が出るような手仕事の素晴らしさを眺めるだけで、その作品を買うことはできなかった(当時の私には高価すぎた)。たったひとつだけ買ったのが名刺入れである。ようやく社会人となり、会社からもらった名刺を入れるためである。買ったばかりの頃は、名刺を出すたび名刺入れを誇示して、これ素敵でしょう、と、いちいち名刺交換した相手に念を押したものだった。誰もが社交辞令的に素敵ですねと言ってくれたが、まったく興味を喚起していないのは明快だった。こぎん刺しの美しさや、手仕事の重さを、だからって私は熱弁ふるって周囲に理解を求めようとはしなかった。それよりも、掌の中にこぎん刺しの名刺入れをすっぽり入れた時に感じる人の手の温もりに似た手触りの至福を、誰にも知られたくなかった。

本書は読み物ではなく実用書である。前半には著者が保管している古い時代の刺し子の衣料品の写真が並ぶ。見事な刺し子の、その正確を期した運針ぶりを見るにつけ、東北の女たちの根気よさ、辛抱強さ、器用さと、高い美意識に感嘆する。後半は、それら刺し子の図案と刺し方の解説が少し。小物に刺すことは、手芸に長けた人にはわけないだろうが、モチヴェーションの違いはあまりにも大きい。刺し子が刺し子であるゆえんを思えば現代人が刺し子作品を創作しようというのはある意味おこがましいというのか厚かましいというのか、身の程知らずというのかお気楽でいいわねというのか。いや、それでも、ひと針ひと針刺すことをしなくてはならないのかもしれない。本書を眺めながら、いつも古タオルを適当に縫い合わせていた雑巾を、今回はちょっと色糸でお洒落にステッチかけてみようかなどと思う私なんぞはたしかに「お気楽」のたぐいだが、ミシンがまともに動かなくなって以来、やむを得ないとはいえすっかり手縫い派になっているのである、実は。そのうち電気が足りなくなったら真っ先に駆逐されるであろう家庭用ミシン(だって、もはやプロ or セミプロ手芸家しか使わないでしょ)。何年も前から新しい上質のものが欲しくて物色していたが、ここ数年すっかり手で縫うことに慣れてしまって、へたくそだけど、この際だから手縫いに専念して腕を上げようと誓うのだ、本書のような本を見るたびに(そして喉元過ぎれば何とやら)。

著者の鈴木さんは福島市に古布の店を持っておられるらしいが、今も営んでおられるのだろうか。