Eh bien ― 2018/02/11 12:36:21

La neige est devenue des glaçons qui pendent des toits... ― 2015/01/03 22:29:54











Tout blanc... ― 2015/01/01 17:54:06











Les espérances ont fondu comme neige au soleil. ― 2014/12/21 21:59:47








Il fait froid, mais très beau! On va se promener, Maman! ― 2014/12/14 12:08:07
みなさん、ほんまにおおきに。なまけもんですんません。そやけど、なまけもんなんは、ブログだけですねん。自分のブログに触る暇、1分もあらへんの、毎日。働きまくってますねん、毎日。何の仕事か、て言うたら家事と介護ばっかしなもんで、生産性は全然あらへんの、毎日。蓄えの底の尽きる日の到来がリアルになってきて、笑てられへんけど、今の暮らし、気に入らんこともないし、けっこう穏やかな気持ちで家事と介護三昧してますの、毎日。
面白い本、連日たくさん読んでて、記録しときたいわあという気持ちはいっぱいあるねんけど、言いたいこと書きたいこと考えたいこと次から次に湧いてきて、いつもタイムリミットで「ああまた今度にしよ」とつぶやいて一日終わる。
面白いことがたくさんある。ハマってしまうと抜け出せないくらい、面白そうなことが、おいでおいでと手招きしている。誘惑に負けると容易にその世界に溺れてしまうので、ぐっと心の歯を食いしばって(リアルの歯は歯茎が不健康なので食いしばってはいけませんと歯医者にいわれている。笑)手招きに背を向ける。ああ、くやしい。試食してみたいあの世界……なんていうことがほんましょっちゅうある。
なんでこの世にはこんなに面白いことがゴロゴロ転がってんのやろ? なんで、そやのに、面白いことがみんなに行き渡らへんのやろ? お金がなくても、仕事がなくても、友達がいなくても、家族がいなくても、心の琴線に触れる何か面白いことに出会えさえすれば、自ら命を絶つなんて選択をしなくても、生き延びることができたはずなのに。
母は昔、よく「もうわたし首吊る」と口走った。本気でそんなことができるわけはないのに。でも、それほど辛かったのはたしかだ。それでも、思いとどまった、というか、実践場所がなかったというか、とりあえず「首吊る」気配はまったく見せないまま辛さをやり過ごして、その主因たる夫も見送り、現在に至る。
母は今思うように身体を動かすことができないため、私が介護しているが、ときどき、首を吊らずに生き延びてきたことを、この人はほんとうに幸いだと感じているのか、とふと思う。孫娘が送ってくれたバースデーカードには、「私の引退公演まで生きててね」と書いてあった。引退公演って、まだデビューもしてへんのになあと涙声で笑った。辛い毎日だったけれど、娘や息子の、高校合格、大学合格、就職決定、海外旅行の土産、著作の出版、結婚や孫の誕生などなど、欲張らず生きていれば訪れるささやかな出来事の喜びを積み重ねることで、自身を納得させてきたに違いないと、母を眺めていて思う。生きているせいで、こんなに世話をかけているし、こんなにお金も遣わせているし、勤めまで辞めさせてと、自分を責めることもたびたびあるだろうけれど、なんだかんだいいながら私たちはべつにさほど苦にもせず母を抱えているのである。
それはときに、子育てよりも、未来が洋々とはしていない分しんどいし、猫の世話よりも、物理的に重くて、しっかり文句を言われたりすることもある分いまいましい。だけど、たぶん、いろいろなことがあったけれども終(つい)の記憶に残るかもしれないと思うと、とっとと忘れ去られそうな子育てよりも、全然覚えてくれるわけない猫の世話よりも、気持ちを込めてできることでもあるのである。
寒いなあ。
でもとても天気がいい。どこまでも澄んだ青空のもと、散歩がてら商店街を歩きに行こう。母の身支度も、万端のようだ。昨日は事始めだったし、お正月準備の話でもしながら歩こうか。
Mon chat qui dort comme un bébé ― 2014/11/07 21:39:38









L'âge de chat ― 2014/11/07 01:53:55
少し待合室で待った。クリニックのケージから出されて、預けてあるバスケットに入れられて連れてこられるだけで、べつに私めがけて飛びついてくるとか、すがりついて会いたかったとニャンニャン泣くとか全然するわけがないのだが、それでも再会が待ち遠しい。最初にどんな言葉をかけてやろうか、ただいま、お母さんよ、かしこうしてた? などと思い巡らす。
持ち帰り自由のフードサンプルの入ったかごのそばに、小さなフライヤーが置いてある。猫の飼い主に宛てたその内容は、猫も年をとるにつれ病気になる確率が高まりますよ健診を受けましょう、というありきたりなものだったが、猫と人間の年齢比較表がついていて、見ると愛猫と私は今ほとんど同い年なのだった。我が愛猫は来月またひとつ歳をとるが、すると私より四つも「お姉さん」になる。しかし、とりあえずそれまでは同い年なのだ。なんだか最近私たち仲良しだと思ったわ、ねえ、りーちゃん。娘がいなくなってから、じゃれる相手が猫だけになり、以前にもましていっそう私は猫といつもじゃれているのだが、猫のほうが私に対して寛容になったというか、包容力が増したというか。二年くらい前まではくっつきにいくと嫌がって逃げることのほうが多かったような記憶があるのだが、最近は、しょうがないわねはいはい一緒に居たげるわ、と受け容れてくれるのである。猫はしょっちゅう私の膝に来るけれども、私も、床や椅子に丸まって寝る猫のそばに頭を置いてしばし休憩することがある。猫は薄目を開けて私を一瞥し、ふんと鼻息をひとつたて、またくるると丸まり直して私の耳のそばで寝息を立てるのだ。
「お待たせしました」
獣医院に勤務する、獣医以外のスタッフをなんと呼称するのだろう。看護師さんでいいのかな。ともあれ看護師さんがバスケットを抱えて待合室に現れた。
「にゃー」
かごの中から愛猫のいつもの声がした。大きな安心感に満たされる。
「にゃー」
「帰ろうね」
「にゃー」
同世代の者どうしだけが共有するある種のシンパシー、たとえ知り合いや友達でなくても同い年だというだけでわかりあえるような錯覚を覚えるあの感じ。愛猫と自分の間にそんな呼吸を感じながら、曇った夜空のもと帰路につく。
Super Moon ― 2014/09/09 20:42:13
月もこのうえないほど綺麗やし。今夜8時頃の東の空。物干しから撮りましたの。

あーあ。周りは小汚い四角いビルばかりになりまして候。
ぼやくのはやめて、望遠でスーパームーンに肉迫っ。

ヘンゼルとグレーテルだって、月に光る小石を頼りに、森から家に帰ったんだ。
でも、昔はこうだった、だとか、もともとこういうもんだった、だとか、そんなことあまり言いたくないもんな。時間は必ず過ぎていて、ひとは誰でも同じように年をとり、世の中は変わる。変わっては、いきなりおとずれる揺り戻しに戸惑い、どう振る舞えばいいのか迷いやためらいを見せる。その都度人びとが知恵を絞って、その時点での最適の答えを出してきた。その時点での最適の答えが、振り返ってみればまったくよくなかったということは多々ある。気づけば軌道修正をするとか、同じ轍は踏まないとか、先人の死を無駄にしないとか、道の採りかたはいろいろさまざまだろうけど、つまりノスタルジーやそもそも論で「昔はよかった」を繰り返す愚とは、歴史に学ぶとか経験知とかって対極にあるはずやん。扱う対象の存在が大きければ大きいほど、積み重ねて結集されてきた叡智に負うところ大のはずやん。育児、教育、研究。経営、行政、政治。
右翼あほぼんはアベとかアソーだけやと思てたけど、じつはぎょうさんやはるねんて! びっくり。てか、ハーケンクロイツ掲げる日本人の団体があるなんて私は全然知らなかったんだけれども、そいつらとハイポーズで満面の笑みたたえた記念写真撮るってどんな現代の政治家なん。その噂の写真、何日か前にほかのブログ経由で見て吐きそうになったけど、外国メディアにも見つかっちまったぜ。恥!
内田樹@levinassien
La myrtille ― 2014/09/03 20:59:52






O là là!!! C'est un beau jour, le mardi 1er juillet 2014!!! ― 2014/07/02 13:54:56


