かけがえがないことは、たしかだ ― 2007/04/24 16:05:15
巻頭ページ
「関係を対称なものにすること」茂木健一郎
年間定期購読している雑誌がいくつかある。実は、その出費はかなりデカイ。で、毎年更新時にはもう止めようと心が言う。なのに続けんさあいと悪魔が囁く。で、せっかく悪魔が言うのだから心に留まった記事の感想ぐらいは書こうと、「まがじん」カテゴリを作った。
当カテゴリ投稿1号が、年会費600円の『母のひろば』になるとは予定外ではあったが(笑)最近活躍目覚ましい(あ、いえ、前からご活躍なんですよね、言い換えます、最近になってメディアへの露出が甚だしい)らしい茂木健一郎さんなので取り上げさせていただいた。
らしい、というのは私自身があまりこの人物に関心がないためそんな有名人だという認識がないからである。
脳科学者の茂木さんがどういうお顔の方なのか、思いがけない場所で知った。
美容室でアタマをいじくられている間にぱらぱらと見た週刊誌『女性自身』(あるいは『女性セブン』だったか)のカラーページだ。「脳を幸せにする味噌汁」というタイトルの特集で、そこにはもじゃもじゃ頭の中年期の男性が味噌汁を作っている、あるいは食べているところの写真が掲載され、その男性である茂木健一郎さんのコメントが記事として添えられていた。
味噌汁が大変な好物、しかも赤味噌が好き、なんでも味噌あじにするのが好き、味噌ラーメンを作ると息子たちは喜んで食べる、味噌は偉大だ、お袋の味だ、毎朝味噌汁を作らないと僕は一日が始まらない……というような内容だった。
人が喜ぶことをすると自分の脳は喜ぶ、そうだ。だから、料理を作ってあげて、食べてくれた人が美味しいというと、いわれた人の脳は喜ぶ。だから僕は料理作るの大好きです、あんまり家にいないのでたまには作らないとという贖罪の気持ちもあるけど、と、書いてあったように思う。
学者さんとしてはもちろん、芸術家ですといっても通りそうな風貌だ。お役人や企業の平社員には見えないが、ちょっと変わった事業を手がけるベンチャー企業家でも通りそう。そうかそうか、ふうん、こんなひとなのね。
昨年だったかその前か、ある大企業の重役さんの講演録をまとめるという仕事があって、その方のお名前が、この脳科学者さんにそっくりなのだった(同姓同名ではないんですよ)。だから、その仕事と前後して、この脳科学者さんの名前が目につき、あのじいちゃん(失礼、件の重役さんは70歳を越えておられる)脳科学者でもあったのか! と、びっくりしていたのだが、今年に入って、また件の重役さん講演会取材の仕事があって再見した。そして、このじいちゃんはあの脳科学者氏ではない、との意を強くした。重役じいちゃんの講演(教育論なのだが)には、「やはり子どもを正しく導くべきは大人」という理論が根底にあったからである。
この『母のひろば』514号はその講演会取材よりも前にウチに届いていた。
《子ども時代は、本当にかけがえがない。》この一文でその巻頭コラムは始まる。
それは、大人になるための準備期間として大切だというだけでなく、《子ども時代には固有の価値が》あると現代の科学者たちは見ているという。
従来、発達というものは《白紙の状態》にさまざまな情報や《経験が書き込まれ、大人になっていく》というものだと思われていたが、現在は《成長のある時期にだけ現れて消えていく》ユニークな能力もあるといわれているという。老子があの時代にすでに、人間の最高期は5歳だといっていたそうだ。そして、コンピュータの進んだ現代において人間に求められるのは創造性である。だからこそ大人は《子どもから多くのことを得なければならない》《子どもの心を忘れてはならない》。それは《子どもと大人の関係を対称なものにすることによって》可能なことだ、という。
子どもの発育過程で、はっとさせられることはたしかにとても多い。しかし、たいてい親はその時期を無事に乗り切ることが精一杯で、垣間見える子どもの特殊なきらめきやユニークな能力など、それとはなかなか気づかないし、いちいち覚えてはいられない。覚えていたとて、それはここで述べられているように「現れてすぐ消える」ものだったら、そこに執着し続けるのは親としては危険だ。
そうではなく、大人は、ふんっ子どものくせに生意気な、という根拠のない高飛車な気持ちを捨て、子ども特有のきらめきを目にするたび謙虚にそこから学ぼうと思うべきなのだろう。
私のように、保育園の運動会でかけっこ一着になった娘に将来は五輪金メダリストなどと吹き込んではいけないのだ。はっはっは。
ただ、わずかな字数のこの巻頭エッセイで「うん?」と思うことがあったので書き留めておこう。
前半で《ある時期にだけ現れて消えていく、そんな特別な能力もあるのである。》と例を提示し、後ろのほうで、だから《子どもから多くのことを得なければならない》と結ぶのはよしとして、その中盤には《私たちもかつて持っていた素晴らしい能力を捨ててしまってはもったいない。》とあるが、その「能力」は先に述べた「そんな特別な能力」とは別ものなのだろうか。同じものなのか。このエッセイにはその説明がない。
「ある時期にだけ現れて消える能力」は、現れなくなったとしてもその人間の内にとどまるものなのか。それとも本当に消え去ってしまうものなのか。消え去ってしまうものならば、「捨ててしまう」も何も、大人になった人間にはもうどうしようもないもののはずだ。
茂木さんに限らず、《子どもの心を忘れてはならない》という人は多い。ここでいわれている、「ある時期に現れて消える能力」と「子どもの心」は同質のものではないと思うのだが。
そして、子どもの心を持ち続けるというのは、このエッセイの内容とは関係なく、普通の大人にとって至難の業である。
さて。
書かれている内容からは、筆者の年齢を推測しかねた。というのも、最後のほうに《冷たい水に足をつけて、夢中で魚をおいかけたあの遠い日》というくだりがあったからで、それはもう本当にいにしえの日本の子どもの姿のように思えたからだ。だからこれがウチに届いたときも、この人はやはりあの重役じいちゃんではないのかとの疑いを捨てられなかったのだった。
で、また別のことも考えた。
茂木健一郎さんはいまや超売れっ子プロフェッサーであるからして、たぶん、この短文エッセイをかなりやっつけ仕事で書いたのではないかと思う。子育て中の、一般の若い母親が主な読み手で、難解な理論を振りかざさず、専門用語も使わずに、子どもについてまたは子どもが読む本について書く。この手の仕事を嫌がる学者も多いと思う。しかし茂木さんはわかりやすく何でも解説するのが真骨頂で、だからこそ著作もご本人も売れまくっているのだから、『母のひろば』の仕事を断るわけにはいかないだろう、とはいえ時間がないよー、忙しいよー、えーい、ちょちょいのちょいと書いた、もしくは似たようなテーマで書いた過去のものを手直し・圧縮・アレンジした、……と想像する。
私は茂木さんを非難しているのではない。上のような状況で執筆依頼をパシパシさばく書き手は山ほどいる。もしご自分で書かれたとしたら素直に偉いよと申し上げたい。部下とか教え子に下書きさせたとしても、最後に自分がチェック入れることを常としているであろうと信じたい※(後述)。
学者さんは「自ら書いた」ことを重視する人種(例外も多し)であるので、仮に自分が筆を取らずに聞き手が代筆したものでも、必ず目を通し、自身の主張と異なる箇所は徹底して訂正を要求する。
この「関係を対称なものにすること」も、そのようなプロセスを経ているはず。
はずだが、先述した「子どもの心」の箇所などに、僭越ながら、詰めの甘さを感じたという次第である。
本エッセイの目的は親と子の「関係を対称なものにすること」つまり子どもの目線になってものを見なさいよ、ということをお母さんにわかってもらうことだと思うので、早い話が、能力が消えるのか捨てられるのかということはこの際二の次だったのだろう、と、原稿発注者側の気持ちになるとそう思う。
ともあれ。
世の中には発信者の意図を正確に示さない文章が氾濫している。そのことによって発信者から抗議が起こればよいのだが、発信者に主体性がなく、言動がどうとでも取れるようないいかげんなものの場合、活字や映像になってからおかしいことに気づいても「あれ? 違うような……まあいいや」で済まされる。結果、情報の受け手は、おかしいものや捻じ曲げられたものや曖昧なものを真っ直ぐに受けとめてしまう。
情報が膨大で多様化しているとはよくいわれるが、一つ一つの情報が見たままのかたちで脳に飛び込んでくることは今も昔も変わらない。最初のインパクトの大きさは同じだが、情報量が増えたぶん、受け手は取捨選択の労を強いられているだけのことだ。
私は、仕事とはいえ、「おかしいものや捻じ曲げられたものや曖昧なもの」といったろくでもない情報の提供に、顧客から制作を請け負うというかたちで加担している。日々、心が痛む。読んでくださる方、ごめんなさい。どうか賢い目で取捨選択し、バンバン捨て去ってください。
こんな自分だが、せめて、情報の質に敏感な嗅覚を持ちたい。
せめて自分の子どもには、見かけだおしの、耳に心地いいフレーズに惑わされずに判断させたい。コピーライターの甘いささやきに負けない健全な脳に育ってくれ。
※書けもせず、喋れもせず、原稿にだけケチをつける……
「○○の話も入れてよ」← え? だったら取材時にその話してよ。
「私の言いたいことってこれだったんだー」← 文章になってから気づくなっ。
……という輩ばかり相手にしているので願望が強く出ています……。
