止めるというのも、一案 ― 2007/09/25 17:59:45
ここ数日、右目の下瞼の痙攣が止まらない。いや、全然止まらないでずっと痙攣しているわけじゃなく、正確には頻繁に痙攣するという状態だ。やだ、これ。しばらく治まっていたのに、なんだよ。四六時中、ぴくぴく。パソコンを見つめてタイプしているとき、検索しているとき、オセロしているとき(おい)。ぴくぴくぴく。図書館で書架を見つめるとき、取り出して本の頁をめくるとき、借りる本をカウンターに差し出すとき。ぴくぴくぴく。チャリで街を疾走するとき、競技場で子どもたちを声援するとき、人にお礼や挨拶を述べるとき。ぴくぴく、ぴくぴくっ。やーん、対面してるときだけは止まっててくれよお(泣)。
最近書くのが嫌である。
たぶんこれは、好きでもないこと、賛同できないこと、理解してもいないことを大量に書かされたせいである。
書く内容がなんであれ、説明する対象がなんであれ、書く自分のことは横に置き、読む最終顧客、つまり読者の身になって書くのがいちおう私の仕事である。でも、でもでも、そんなこと、書きたくないのだ。こんなこと、私の筆から発信したくないのだ。あんなこと、いくら名前が出なくても自分が書いたって記憶に残るのが嫌なのだ。
と、仕事のせいにしてみたが、違うのである。
最近、書くのが嫌である。
その理由は、体力の衰えである。持久力の減退である。私はもとより集中力はないが、つらつらたらたらと起伏のない緊張状態(ってあるのか?)を持続する術はどういうわけか心得ていて、糸を張ったり弛ませたりまた張ったり、することで当面のハードルをよいしょと越えるようにしてきた。
でも、これができないのだ。今。
張って、張り詰めっぱなしで一気に駆け抜けないと、いったん弛ませたらもう復活できない。疲れた、という思いが頭や身体を駆け巡っても、それにしたがって糸を弛ませたが最後再び仕事モードに戻れないとなったらやはり、疲れた、という思いに逆らってむりやり頭と身体を張り詰めさせることになる。
そうしてどうにかひと仕事終えたときの、疲労が半端じゃない。
ただでさえ重いのに、身体の重さが二倍にも三倍にも感じる。おお、それは重い。関取マッツァオ。
肩や背中や手首の痛みは昔からのことだが、身体全体をただならぬだるさが襲い一日をふいにするなんつうことは、やはり四十路を過ぎてからである。しかもそのように一日をふいにすると、その翌日に確実に影響が出る。捌かねばならないことを持ち越すので勢い短時間で多くのことがのしかかり、またしても疲れるのである。
そして、瞼もぴくぴくを止めないのである。
そして、書くのが嫌になるのである。
書くのが嫌なのである。
「書く」ことが日々の主幹作業であるからだ。これ止めたら、一気に楽になるのだ。わかっているのだ。
そういいつつ、ブログを書いている。
こういうぐだぐだを書くのも、きっと止めたほうがいいのであろう。
何も書かない日々をどのくらい過ごしたら、瞼の痙攣が止まり、身体が軽くなるのだろうか(←こっちは物理的にはできない相談だが、ま、感覚として)。