「ゆ」音のここちよさ2008/02/27 18:55:18

『中原中也詩集』
河上徹太郎 編
角川書店 角川文庫(1968年改版初版、1979年改版24版)


高校の終わりごろからアングラ劇団に入れ込み始めて、その究極ともいえる寺山修司の世界にどっぷり浸かろうとしたのが大学生になってから……。でも、時すでに遅かった。寺山修司は1983年に亡くなってしまう。同様にどっぷり浸かっていた唐十郎の状況劇場は健在だったけど、私たちは心の支え棒を外されたように虚ろになり激しく落ち込み、親が死んでもそんな顔はしないだろうというような服喪中モードで授業に出た。寺山とほぼ同世代の教授たちも少なからずショックを受けていたようで、「これでひとつの時代が終わったってことだな」みたいな発言をしていたのを憶えている。演劇実験室・天井桟敷の公演はたった一度観た(寺山の追悼上演はその後何度もあり、幾度か足を運んだ)。私は、芝居は状況劇場のほうが好きで、寺山作品はどちらかというと映像のほうが好きだった。人力飛行舎だったか実験飛行機だったか、そんな名前のついた彼の映像作品群はどれも、関西弁でいうと「けったいな」「なんやようわからん」ものでありながら、胸にジーンと沁みてきて、払拭不可能な残像を刻みつけてくれるのだ。
寺山の長編映画作品も、そうした印象の延長線上にある。彼の長編は先に『ボクサー』を観た(これが私の「初」寺山だったが、観賞当時はその意識はなく、主演の清水健太郎が好きだったのである)。その後『田園に死す』も観て、とにかくこういう映画でないと受けつけない身体になろうとしていた、それを自覚しつつあったとき、『草迷宮』を観た。「こういう映画でないと受けつけない」、『草迷宮』を観つつそのことは再確認したんだが、同時にこの映画は「こういう映画以外だって観ていける」ように私に道筋をつけてくれたのである。なぜならそのスクリーンには若き日の三上博史がいたからだ。
撮影時に15、6歳であったろう三上クンは、主人公「明」を演じて美しすぎた。色っぽすぎた。私は、私以上に寺山フェチの女友達とその上演会場にいたが、二人して垂涎とどまるところを知らずという体(てい)であった。寺山の映像美を堪能した以上に、私は三上クンに完全ノックアウトされた。友達のほうは、終わってしまえば俳優陣のことなど忘れたようだが、私は彼女とは異なり、寺山修司を引きずるのを止めた。三上クンは(三上博史さん、失礼。私はずっとこう呼んでいるのです)『草迷宮』で注目されたのか、その後しばらくして一気にスター俳優となった。メジャー扱いされると距離を置きたくなるという哀しい性(さが)で、人気者になった三上クンなんか見たくなかった私は、三上クンの動向を追おうとしなかった。

ある日、中原中也を描いたドラマがテレビで放映された。(注:かなり昔です)

私は中也の詩が好きである。はっきり言うが、何を歌おうとしているのかわからないもののほうが多い。それでも好きになったのはたぶんクリクリおめめの中也の肖像写真のせいである(可愛いもん)。中也を知るきっかけは、学校の国語の授業に違いないが、教科書(もしくは参考書)に採用されていたのが「サーカス」だったか「汚れっちまった悲しみに…」だったか忘れたが、この二つの詩が好きで、中也の詩集を文庫本で買い求めた。
詩は、わからない。リズミカルに韻を踏んでいたり、言葉遣い文字遣いが面白いともうそれでよし、と思ってしまう。「サーカス」の「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」のくだりの「ゆ」の音がこの上なく愛しく、よくぞ彼は「ぶらーん」とか「ぐりーん」とかそういう書き方をしなかったものだと、それだけで中也は唯一無二の存在になりうるのである。「サーカス」は「幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました」と現代人にとっては胸を刃物ですうっと刺されるような始まり方をするのに、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」で読み手の胸の刃物はとろけてしまう。きちんと読む人はさらにその先へ深読みをするのであろうが、私は「だから中也って可愛い」と片付けてしまうのであった。
中也は若くして亡くなった。赤子を愛でる詩もあるので、放蕩した時代もあったが最後は家庭人として振る舞っていたのかな、つまんねと、本書巻末にある大岡昇平も制作に参画したという年表を眺めながら適当に想像していたが、ある日、件のドラマを見てしまったのである。

このドラマのタイトルは「汚れちまった悲しみに」。中原中也を演じるのは三上博史。

大人になった三上クンは、中也を超越してオトコマエだった。うーん、色気ありすぎるんじゃないか……などとあーでもないこーでもないといいつつ、ものすごく楽しくこのドラマを見た。
中也がのちに小林秀雄にとられてしまうという恋人・長谷川泰子を樋口可南子が演じていたと記憶している。
三上クン演じる中也は、今わの際で妻(女優は忘れた)に手を握られて、苦しい息の下から子どもを頼むとか何とかいいながら、最後の最後に、「やすこぉ……」。
このときの、妻役の女優さんの演技がとってもよかった。直前までぼろぼろ泣きながら、中也の手に頬ずりしながら、あんたあんたっていってたのに、「やすこぉ……」を聴くや、すーっと真顔になって手を離し立ち上がり、冷徹な視線を上から中也に投げるのである。このドラマのクライマックスは彼女の表情にあったといっていい。
三上クンは、ことこの場面に関する限りこの女優さんに存在感で負けていた。三上クンは中也を表現して余りあったけど、この今わの際のシーンでは、残念ながら妻役女優の演技の前に鈍くかすんで見えた。
ドラマのほとんどのシーンは忘れてしまったが、ここだけは、『草迷宮』の妖艶な少年「明」と同じくらい強烈な印象で私の脳裏に残ったのであった。マイナス評価とはいえ。

で、去年だったか、ジャニーズ系アイドル(ウチの娘はやまぴーと呼んでいる)の主演連ドラを一瞥して思わず私は「うわ、久しぶり!」と叫んでいた。
そこにはええオッサンになった三上クンがいた。
「うわ、久しぶり!」と叫んだけど、一瞬名前が出てこなかった。道で昔の同級生に出くわしたときのあの感じ。こいつ知ってるけど誰やったっけ、みたいな。
三上クンは不思議な立ち回りをする役どころで、やまぴーに「最後のチャンスを与えよう」とか何とかいっていた。ドラマの内容はどうでもいいんだが、彼を三上クンと認識するやいなや、中也の臨終シーンと『草迷宮』が眼前に走馬灯のごとく浮上して、進歩のない自分を苦笑した。私の中で三上クンは永遠に「妖艶な明」で「冴えない死に方をした中也」でしかないのだろう。テレビの中の三上クンを見ながら、中也があと十年生きていたら、こういう色気も渋みもあるええオッサンになっていたであろうに、などと思った自分が中也の肖像写真をかなりいいほうに解釈していることにも気がついた。

テツポーは戸袋
ヒヨータンはキンチヤク
太陽が上つて
夜の世界が始つた
(『ダダ音楽の歌詞』より 本書214ページ)