オサムのメグミ(1)2008/03/07 17:52:48


『小林秀雄の恵み』
橋本 治 著
新潮社(2007年)


小林秀雄といえば橋本治なのである。
小林秀雄の随筆に出会わなければ、橋本治など読もうと思わなかったに違いないのである……というのは真っ赤な嘘である。

と書いてふと思ったが、なぜ嘘は「真っ赤」なのであろうか。悪い奴のことを腹「黒い」といい、気分のすぐれなさそうな人には、顔が「真っ青」よ、などという。黒い嘘でもなく青い嘘でもなく、赤い嘘。嘘が黒いだなんて、もうサイテーの底なしのろくでなしだわっ……というくらいひどい嘘になるかしら。嘘が青いとしたら、はん、見え透いたことをいうわねバレバレよっ……のような未熟な嘘のイメージね。
しかしいずれも「真っ赤な嘘」ほどには罪がないように思える。「真っ赤な嘘」って、もんのすっごーい嘘、に思える。
だけど、上記で「……というのは真っ赤な嘘である。」と書いたのが、ものすごい嘘かといえばぜーんぜんっ、そんなことはなく、たぶんお読みの皆さんは「またテキトーなことを」くらいにしか思われないだろうから、真っ青な嘘、というくらいだろうか、と思ってみるのだが、しかしいまいちど、

小林秀雄といえば橋本治なのである。
小林秀雄の随筆に出会わなければ、橋本治など読もうと思わなかったに違いないのである……というのは真っ赤な嘘である。

という文を眺めたところ、ここでの「真っ赤な嘘」は、「黒」より、また「青」よりずっとライトな嘘に感じられる。慣用表現というのは不思議である。

えー、ところで、嘘の色は、どうでもよいのであった。
本書は、12月に当ブログにいらしたコマンタさんのコメントで知り、その日のうちに図書館にリクエストをかけ、年が明けてから我が手にやってきた。やってきてからの3週間ほぼ毎日、勤務中食事中入浴中睡眠中以外はほとんど本書と向き合っていたのである。といっても「勤務中食事中入浴中睡眠中以外」をざっくり計算してみたら数分だったんだけど(泣)

私にとって2冊目の橋本治である。
『「わからない」という方法』の読後感がすこぶるよかったので、巷で話題の『日本の行く道』にもそそられていたのだが、自分としてはいったん彼の小説を読んでみるつもりだったのが、本書の存在を知り、読まずにおらいでか(=読まずにはいられませんわよ)モードに突入した。
とにかく頭を使う本であった。
新聞の書評には、「考えるヒントがいっぱいの本である」などと、小林秀雄の著書名にひっかけてあったが、考えるヒントになんてできない。ただただ、橋本治の思考の跡を、こっちで間違いないよな、あれあっちかな、やっぱこっちか、などと迷子になりながら、たどるのが精一杯で、とても自分自身の思考にまでひっぱり下ろしてくることができない。
ひっぱり下ろすと書いたが、橋本治は高尚なことを述べているのではない。難解では、ある。それは当人も書いている。「難解である」とは、「解するのに難儀する」、つまりむずかしいというよりはわかりにくいということである。早い話が「ややこしい」であって、橋本治は話をややこしくするのがことほど左様に得意な書き手なのだということがよーくわかる本なのであって、読者は、行ったり来たりする彼にくっついて一緒になって頷いたりかぶりを振ったりしているうちに疲れてしまって、さてでは橋本治の論考について私はどう考えるのか、というところにまで達することができない(で、本の貸し出し期間が終了してしまう)。

本書で橋本治がやっていることは、橋本治にとってけっして親しんできたとはいえない小林秀雄というひとりの高名な書き手が著したさまざまな著作を、初読、再読、再々読し、小林秀雄という書き手を必要としていたある時代の日本人たちっていったいどんな日本人だったのか、という問いの答えに達しようとする試みである。
小林秀雄著『本居宣長』を題材に、小林秀雄が描いた宣長像に疑問を呈してみる。
宣長が詠んだ歌、『源氏物語』の読み解き方をたどり、ほんとうは宣長は○○と思っていたんじゃないか、小林の読みはちょっと違うんじゃないの、といった幾つもの仮説を立ててみる。
あるいは小林秀雄著『無常という事』を題材に、その収録エッセイの書かれた時期と内容をよく咀嚼し、小林秀雄の脳内を透視しようとする。
その時代の日本の気分と、その時代の小林秀雄の気分のズレと一致に思いを馳せてみる。
そんなことを幾つも本書の中で、トライしたとおりに書き連ねていくものだから、読み手には持久力が要る。「こういうもんは、好かん!」と思ってしまうともう1行も読み進めないだろう。でも「こういうのって、スキ!」と思っちゃうと、つまり迷路に片足突っ込んじゃうとなかなか逃れられない。橋本治という藻にからめとられて身動きできなくなる状態、そしてそれが快感な自分にまた悦に入る。

はっきりいうと、書かれていることの趣旨は『「わからない」という方法』と同じである。

『「わからない――』は彼自身のセーターの本や、昔手がけたテレビ番組の台本の仕事などがその(迷路の)道しるべ役を果たしていたのだが、本書ではそれが小林秀雄であるというだけのことである。小林秀雄であるぶん、それは少々「構えた雰囲気」を漂わせることになろうし、小林秀雄であるからには、道しるべがあまりファンキーだったりフレンドリーであったりするのも変であるから、若干襟を正して見えるだけである(正して見えるといったけど、本書には「じいちゃんと私」という章があるのだが、じいちゃんとはいわずと知れた小林秀雄のことである。小林秀雄を相容れない他者のように表現する一方でじいちゃんと呼ぶ。どこまで本気でそう思っているのかは、読者にはわからない)。
いずれの著書でも橋本治が言おうとしているのは、世の中に考え方っていろいろあるだろうけど、僕はこういう考え方でもって、考えるという作業をしているんだよ、ということである。読者に向かって、お前もそうしろ、とは言っていない。共感も求めていない。「僕はこうなんだ、以上。」である。
本居宣長や小林秀雄に関するおびただしい数と思われる各種研究書や論文を、チラ見くらいはしたかもしれないが、本書を著すにあたって大いに参考にしたとか熟読したとかいった様子はまったくなく、あくまで自分自身が向かったテキストから宣長本人、小林本人を見つめている。
橋本治自身は自分は学者じゃないというけれど、これってめいっぱい学者の態度じゃなかろうか? 研究対象に関して人が書いたものをコピペして体裁整えただけのエセ学者のエセ論文が世にはばかっていることを思えば、橋本治の仕事はなかなか「いーじゃん、いーじゃん、すげーじゃん」※だと思うのである。

※ウチの娘がヒマさえあれば聴いているCDの歌詞。母もヨコ聴きして一緒に口ずさんでいるのであった。いーじゃん、いーじゃん、すげーじゃん♪ ぎんなんさんちはどう?(えへへ)

本書は、私のようなレベルの読者には、考える「ヒント」なんかになってくれそうもない。でも、橋本治が小林秀雄から「恵みをもらった」といっているのと似た意味で、本書は私にたくさんの恵みをもたらしてくれた。その恵みとは、多くの知的水準の高い人々にとっては「そんなの、だんなさまあ、おめぐみくだされえって泣きついて恵んでもらえる程度のもんじゃねえか」てなもんかもしれないが、時間と知性と物質的豊かさに著しく不足のある私にはダイヤモンドを超える恵みなのである。

というわけでようやく「オサムのメグミ その1」を挙げるのだが、長くなりすぎたのでその内容についてはまた今度ね。
●オサムのメグミ その1 『窯変源氏物語』橋本治著 …… A suivre!

Son chemin2008/03/12 19:17:12

 膝に赤子を乗せた女が身を乗り出してジャンに訊ねた。
「その本の題名はなんていうんですか」
 通りの角に建った小ぶりなマンションに一昨年引っ越してきた若い夫婦のかたわれである。夫婦揃って愛想がよく、町内会にもすぐに馴染んで皆の評判もよかった。昨年子どもが生まれたが、この町内会も少子化の例に漏れず、したがってその赤子は近隣のアイドルであった。
「ソンシュマン、といいます」
 ジャンはなんとなくかしこまって、真面目に答えた。そんしゅまん、そんしゅまんだってうふふ、と女は隣に座った亭主に愉快そうな様子で告げる。その膝で赤子もソンシュマン、らしき言葉を口にし、ブラヴォー、とジャンの顔がほころんだ。
 今夜は町内会の飲み会である。表通りの小さな居酒屋を二時間半借り切って、寝たきり老人(これが少なくないのだが)とその介護者以外はほとんどが参加する大宴会。年に二度ほどこうした機会をもうけるのが慣わしだ。二、三年あるいは四、五年で町を出ていくような学生たちも必ず来てくれる。わけは、宴会の費用は町内会費から出るからで、ふだん町費を徴収されている者にとっては不参加の理由がないからであった。
「で、それ、どういう意味なんですか」
 女が再びジャンに訊いた。「みち、ですね」とジャンがいい終わらないうちに、離れた席から「誰の道? ソンって誰をさしてるの?」と声がした。宴席の隅のほうにいた、町内会長の次女だった。
 ジャンは意外な質問を受けたのがとても嬉しそうである。
「彼女の道、という意味です。彼女、は主人公ですね。それはたぶん、トミサンのこと」
 ほおお、とジャンの周囲がどよめく。誰かが、会長のお嬢さんは仏文科だったなあ、といい、再びどよめき。
 路地奥の長屋に老いてから住み着き、そして亡くなった富ばあさんこと山中富さんがかつて小説を出版していたことは、富さんと親しくしていたフランス人青年ジャンがその小説の翻訳本を自国で出版して持ち帰るまで、町の誰ひとり知らなかったことだった。
「物語の最初、小さな女の子が、います。ひとりで、裸足で道を歩くところ、あります。遠くに見える山は、桜がたくさん咲いています。とても、きれいな場面です」
 山桜が織りなす濃淡さまざまの紅(くれない)色を、皆がそれぞれ思い浮かべ、遠い目をしたり目を閉じたりしながらうんうんと頷いた。ひとり、会長の次女だけがジャンの表情をじっと見つめていた。幾分顔を赤らめて。その様子をまた会長が心配顔で見ていたが、ジャンは自分が訳した物語の世界に浸りきっているのか、心ここにあらずといった様子で、「早く春になるといいですねえ、桜のお花見、しましょね」といい、周囲の賛同を集めていた。

桃子2008/03/12 19:17:48

 昔流行った漫画のヒロインが桃子って名前でさ。その桃子が可愛くってお洒落で、おまけに頭もいいって設定でさ。あたし、夢中でその漫画読んだよ、桃子になりきっちゃってさ。桃子とあたしじゃあ、実際には全然違うんだけどさ。あたし、ブスだし、センスないし、バカだし。だけど、あたしも十代で赤んぼ産んだんだ。ヒロイン桃子と同じようにさ。子どもの父親とは別の男と暮らしていたのも、ヒロイン桃子と同じ。
 じつは、あたしの赤んぼ、「桃子」って名前なんだ。例の漫画読み始めたときに、あたしもデキちゃったのがわかってさ。まったくこの漫画、胎教代わりに読んだようなもんだよなあ。あとからそう思ったんだ。なぜって、あたしの桃子は漫画の桃子そっくりに、可愛くて、頭もいい子に育ったんだ。こんな親なのにね。願いは叶うんだなあと思ったよ。漫画の桃子にあやかって桃子と名づけたときから、桃子みたくなってくれって、念じながら育てもん。そしたら、年頃になるとお洒落もするようになって、それがまた、センスいいんだ。ウチは貧乏だからいい服は買ってやれないけど、チープシックっていうんだよね、安いものをうまく着こなすのが上手なんだ。わが娘ながら、感心感心。
 そのうち、デートなの、なんていって出かけることが増えて、まったくおませなもんだよ。悪い虫がついちゃ困ると思ってつい心配するんだけどさ、大丈夫、人柄は保証つき、なんて、あたしが訊くたびにいうんだよ。
 ところであたしの今のダンナは、ダンナといっても内縁関係のままだったけどね、見た目は冴えない男だけど、ふふ、ほら、夜の、アレのほうがテクニシャンだからさ、あたしも離れられなくてさ。とりあえずちゃんと食い扶持稼いでくれるんだから、いまどきよしとせにゃあ、なんだよ。
 ある晩、ダンナが給料日だからってんで上等のステーキ肉買ってきたんだ。大喜びで支度しようとすると、お前は座ってな俺が焼くから、とダンナがいい、桃子までが、そうそう休んでてよ、なんていう。それで座ったんだ。
 そしたら、悪戯っぽい眼で桃子が動かないでね、といって椅子に座ったあたしを紐で縛りつけるんだよ。そこまでしなくってもじっとしてるよって笑ってたんだけど、そのあとは本当に早かったね。両手両足縛られたあたしが最期に見たのは、桃子の、これ以上ないというほどきれいな笑顔。その口許は、ばいばいっていっていた。
 あたしは、いつのまにかあたしの後ろに来ていたダンナに、何か重いもので殴られて、絶命した、と思ったらあっという間に服を引き剥がされて、そのあといつのまにか敷き詰められてたビニールシートの上で、バラバラに解体されちまった。さすが上手ねえ、わあー、お肉ってピンク色ぉー、と桃子がはしゃいでいる。あったりめえよ、と得意げなダンナ。牛屠場で十五年のバリバリだもんなあ……やれやれ。
 あたし、享年三十二。ダンナ、三十三歳と桃子、十八歳は、あたしのおいしいところだけをジュージュー焼いて食べたあと、あたしの残りは密封ポリ容器に園芸土と一緒に突っ込んで、部屋をきれいに片づけて、二人で外国へ行っちまった。バカだねえ、今ちょうど、この部屋から見える川べりの桜が満開だってのに。

桜子2008/03/12 19:18:21

 百合さんが世界的に有名なコンクールに挑戦するそうだ。桜子の心は躍った。バレエを始めてからずっと百合さんをおいかけてきたから、いつか百合さんみたいに踊りたいと望んできたから、なんだか我がことのように嬉しかった。目標にしている人が高いところにいけばいくほど、自分もそのぶん向上するような気がするのだ。
 桜子は今夜も、百合さんのレッスンを見学している。百合さんは桜子よりも五歳年上だ。小学校一年のとき、このバレエ教室に入った。ここの六年生クラスに、百合さんはいた。自分たちよりずっと背も高く、スタイルもきれいなお姉さんたちのなかでも、群を抜いて上手な百合さんのことは、まもなく識別できるようになった。指先まで一寸残らず意識したしなやかな動き、優雅な微笑み。まっすぐな膝、美しく反った足の甲。百合さんは誰の目にも完璧だった。百合さんのプリエ、百合さんのシャッセ、百合さんのグラン・ジュテ。レッスンが佳境にさしかかると、百合さんの頬が、腕が、背中が紅潮してピンク色に染まる。桜子は、そんな百合さんを見ているとき、自分の頬も紅潮するのをはっきりと感じるのだ。
 コンクールの予備選を通過した百合さんに、特別レッスンプログラムが組まれた。桜子は欠かさず見学したいと思ったが、本人の気が散るし夜遅くまでかかるから帰りなさい、と先生にいわれた。だけど、見学室から通路に出るわずかな空間に、スタジオからは見えない死角があるのを桜子は前から知っていて、そこに身体を小さく丸めてひそんでいた。
 ある晩、フェッテを繰り返していた百合さんが突然倒れた。
 倒れる直前、ばちん、という強い音を聴いたような気がした。
 スタジオと見学室をさえぎるガラスは重厚で、遮音性が高い。
 だけど、百合さんの歪んだ表情からこぼれる苦しそうな呻き声が、はっきり聴こえる。百合さん。桜子の心は恐怖に震えた。心臓が破裂するかと思うほど激しく打った。まもなく救急車が来て、百合さんは担架で運ばれた。隠れていたのが見つかったけれど、先生は桜子を一瞥しただけで救急車に乗り込み、ドアが閉まる寸前、人差し指を立てて唇にあて、桜子を睨みつけた。怖い、怖い目だった。
 この夜以来、百合さんがレッスンに来ることは二度となかった。いま桜子は、先生の自分に対する指導がなんだか厳しく熱心になったような気がしている。見学室はいつも、桜子のクラスレッスンを見つめる小さな女の子でいっぱいだ。桜子は十二歳。桜子が初めて百合さんを見たときの、百合さんの年齢になっていた。桜子の心が、奮い立つ。

2008/03/16 17:40:13


——春という字を、賜りました。

 ああ、かの人の、なんと澄んだ朗々たる声……。
 宮がかすかに背を震わせたのを、隣におわす帝がお気づきになったかどうか。

尾上の花の散らぬまにまに
心とめけるほどのはかなさ
開かぬ花のいとおしい春
山端の風がほのめかす春

 かの人の響き渡る詠声に、満開の枝々も打ち震えているようだ。宮はからだの奥に熱を覚える。かの人のあの息遣いを、再び耳許に受けたかのように。
「中将、見事じゃ」
「勿体のうございます」
 宴では探韻と呼ぶ詩遊戯に興じるのが慣わしであった。ひと文字記した紙札がいくつか予め用意され、詠み手は籤を引くように紙札を探り、引いた文字で韻を踏み歌を詠む。詩式は自由だが、奔放に過ぎては失笑を買う。何しろ居並ぶ公達(きんだち)はそれぞれ衣束冠帯の正装に身を包んだ、文才(もんざい)疎かならざる面々である。
 つぎつぎと、文字を引いての歌詠みが進むが、宮にはもはや聴こえない。座に控える中将の視線を項に痛いほど感じながら、しかし見つめ返したい欲望を懸命に抑え、顔を庭の中央から逸らさず、聴き入るふりに専念する。
 ひとり詠み終えるごとに、楽の音が間奏を雅やかに披露する。
 笙や篳篥、筝弦に鼓。宮は、かの人との一夜に思いを馳せて瞼を閉じる。
「宮を見よ、よほど感じ入ったようであるぞ。その火照りよう、ほほ」
 帝の言葉に宮は我に返り、その頬はなおいっそう上気する。
「お、おそれながら」
 宮はやっとのことで言葉を発した。「舞が見とうございます」
「ほほ、よろしい。探韻はしまいなされ。で、宮のご所望はどの舞かの、どの舞い手かの」
「いつぞやの……」
「青海波かの。ならば中将じゃ」
 帝は花枝を折らせ、宮にとらせた。

——賜りましてございます。

 枝のとり際、中将の指が宮の掌をこそっと愛おしげに撫でた。
 枝を唇にかの人は、ぴんと袖を張り、返す。たったそれだけの所作の、なんと美しいこと。春はそなたのためにあるようじゃ、と思わず口にしそうになる宮。
 楽奏が高まり、中将の瞳が宮を射抜く。いいえ、我々ふたりのためにどの季節も美しいのです、宮さま。
 宮の皮膚が、かの人の唇を思い出す。空の青はますます冴え、花膚にいっそう紅が差す。

さよならのこちら側2008/03/25 20:50:35


春は別れと出会いの季節ですね。
私たちにも、いくつか別れがございました。

先日、娘は小学校を卒業いたしました。
まったく、本当に、あっというまの六年間でした。
保育園には一歳の春から五年間預けたんですけれども、その五年間は本当に長い五年間でした。
しかし、その五年間よりも、娘が生まれてから保育園に入園するまでの一年と二か月はもっともっと長かった。
目の前の対象がめまぐるしく変化を遂げゆくのに自分の精神が追いついていかないとき、時間は長く感じるんです。
同じような感覚を、社会人一、二年生の時にもったおぼえがあります。
あの頃、シゴトもカイシャも初めてづくしで、苦楽はフィフティ・フィフティ、稼いだ給料はすべて遊興につぎ込んで(バブってましたから)、たぶんあんなに仕事に打ち込んだ時期もないけれど、あれほど遊んだ時期もありません。眼前に立ち現れるものすべてを記憶の襞に刷り込みけっして忘れるものかともがいていた、そんな精神状態が時間を長く感じさせたのです。
子育ても、同様に、それにたずさわる者を夢中にさせます。単に夢中になるだけだったら、むしろ時間は短く感じますが、対象である子どもの様子を、親は眼で、耳で、皮膚ですべて記憶しておこうと必死になるものです、知らず知らず。だって、今日のこの子は、明日はもういない。明日は明日の、この子であって、今日のこの子よりうんと成長しているのです。そう思うと、一秒一秒がいとおしくなり、一秒一秒を手離したくなくなり、一秒一秒を脳に、心に染みつけようと、無意識に精神が働くのです。
だからとても時間を長く、感じるんですね。

成長(変化)がゆるやかになるにつれ、過ぎゆく時間が早く感じる。
入学式の翌日、自分の身幅よりも大きいランドセルをしょい、玄関で待ってくれている六年生のりなちゃんを前に、いよいよ登校するんだという不安に駆られて大泣きした朝。
集団下校週間が終わって、ひとりで帰宅し、出迎え「お帰り」といった私の顔を見たとたん大泣きした午後。
それはほんのこの前のことのように思えるのに、あれから六年も経ったのです。
頬と鼻を真っ赤にして大口を開けて泣く顔は今も変わらないのに、あれから身長は40センチも伸びているのです。

私はといえば、娘が小学校にいる間に二度も職場を変えたというのに、もはや社会人一年生のときのような新しいものごとに向かう気概や仕事への期待感などはなく、変化を変化とも思わず淡々と押し寄せる事どもを捌き、払いのけ、先送りし、丸めて捨ててきた六年間でした。
たぶん、私の時間は、この六年間と同じように、波瀾なく、その日その日を凌ぐためだけに過ぎてゆくのでしょう。
24歳だったのはついこの前だというのに、いまはアンタ4●歳ですからねえ。

卒業式の日、二、三の女子児童が涙に暮れていましたが、ほぼ全員がとても晴れやかな満面の笑顔で小学校生活の締めくくりをいたしました。
精神的にタフな担任の先生に恵まれて、娘たちのクラスは幸せだったといえるでしょう。いろいろなことがあったので、実際にダウンしてしまった教員も一人二人でなかった状況で、失敗もやらかしたけど最後まで子どもたちの面倒を見てくれた先生に、親としても感謝の気持ちでいっぱいです。私自身は、小学校生活最後の担任の先生にいい思い出がまるでないので、娘は幸運でした。先生のことを忘れずにいような、さなぎ。

この六年間で、娘に濃密に関わってくれた先生、つまり担任だったり副担任だったりした先生は、その担当を終えると異動、というケースがほとんどでした。低学年時の担任はさなぎが三年に進級するときに結婚・懐妊で休職、のち退職、中学年の担任・副担任ともさなぎが五年に進級するときに異動、慕っていた校長先生は市教委へ異動、友達みたいに思っていた養護の先生も異動。
だから、五、六年の担任をしてくれたこの先生も、新年度は異動されるんじゃないか、そんな予感がします。また、陸上の指導にあたってくれた派遣講師の体育の先生も、毎朝のランニングにつきあってくれた副教頭先生も。
馴染みの先生が異動されてしまうと、母校を訪ねても、寂しいね、きっと。

卒業式では泣かなかったさなぎですが、この月末の離任式ではきっとまた、大泣きします。初めての登校で泣いた朝と同じ顔をして、泣きます。
泣いてこい、泣いてこい。
今日の涙は、明日はもうけっして流れない。だから存分に、泣くがいい。

私にとって、おそらくこれまでの子育て時間の中で最も早く過ぎゆく三年間+三年間がやってきます。
その時間、おそらく娘にとっては、喜怒哀楽極彩色の、長い長い、おそらく初めてそうと感じるほどの長さの時間となることでしょう。

続・さよならのこちら側2008/03/26 23:33:38

卒業式に胸につけた生花のコサージュ。有志ママたちの手づくりなのよ。


予感が的中して、娘の担任をしてくださった先生は異動されることになった。今日、その通知と離任式の案内が届いた。あいにく娘はファームステイに隣県へお泊まり。明日帰ってくるけれど、もう卒業した学校の人事とはいえ、担任のほかにも馴染みの先生方が多数よそへ行ってしまうことに、寂しさを覚えずにはいられないだろう。泣くだろうな。泣け泣け。

卒業生は「見送られる」側だから、どちらかというと、「見送る」側の在校生や先生方のほうが、「さよならのこちら側」にいるように、絵的には見てしまうけれど、じつは「こちら側」は卒業生だよな、と今回もそう思った。
今回「も」というのは、自分がどこかから卒業するときには、見送られるのは私じゃなくてむしろ私が先生たちを見送ってるよな、という感覚をもったからだ。

私たちにとって先生は唯一無二の存在だけど、先生方にとってひとりひとりの生徒は山のようにいる教え子たちの何十分、何百分の一に過ぎない。先生方にとって、総体として教え子たちは重く大切でかけがえのないものだろうけれど、ひとりひとりはどうなんだろう、と考えるとき、「見送る寂しさ」をもつのはむしろ先生ではなく生徒のほうだよな、と思えるのである。

学校を背にして歩みゆく私たち。でも、私たちの記憶から遠ざかっていくのは先生方のほう。在校生たちのほう。卒業したらめったなことでは足を向けない母校。卒業したとたんに、引っ越した後にもう次の住人が住み着いてしまっている元我が家・現他人の家、のように見える母校。その姿はだんだん遠ざかりフェードアウトしていく。それをなす術もなく見送るのは、「さよならのこちら側」にいる私たち。

先生、お疲れさまでした。
行政の気まぐれと、他校との軋轢と、保護者からの苦情に翻弄された二年間でしたね。
真面目に向き合ってくださったり、気にすんなと笑い飛ばしてくださったり、一緒に悔し涙を流してくださったり、緩急の効いた子どもたちへの接しかたは、ときどき息切れして見えたけど(笑)好感が持てました。とりあえず私の場合。
離任式で、ウチの子が泣いて言っても、笑って言っても、しっかり受けとめてやってくださいね。
「さよなら!」

こんにちはの向こう側2008/03/27 17:03:52

あさって。
3月29日(土)、東京へ行きます。
10時から17時まで、とある場所に缶詰め状態です。が! 12時から13時は休憩時間とやらで檻から出してもらえます。
17時の終了後も、少しなら、帰途につくまでの間、時間あります。
いかが?

詳しくは個別連絡で。

オサムのメグミ(3)2008/03/31 17:11:55

娘の発表会にR子さんからいただいた花束。

オサムにメグんでもらったもうひとつのことは、いうまでもなく小林秀雄を再読しようという気にさせられたことである。
中原中也から小林秀雄に行き着いた思春期の私は、当然ながら小林秀雄の書くものをなんら理解はできなかった。だけど、彼の書きっぷりに惹かれたのはたしかである。
http://midi.asablo.jp/blog/2008/02/28/2671306

小林秀雄は何につけてもずばっすぱっしゅたっと言い切るので読んでいて爽快感がある。しかしながらその内容について読んだほうは理解できるかというとなかなかそうはいかない。それは読み手の力量もあるかもしれないが、どちらかというと小林秀雄自身が、明快に言い切っているように見せながら、じつはどっちつかずなまま結論を出さず読者を煙(けむ)に捲くということに長けているせいである。読み手は爽快だけれども理解できない。つまりそれは小林秀雄に「してやられて」いるわけである。小林秀雄はけっして読者をイテコマソウとは思っていなくて、小林秀雄はただ自分の思いかた、感じかたにしたがって、そのときはそうだと思ったことを「そうだ」という断定の形で書いているだけで、書いているうちに「なんだか違うような気がする」と思ったら、「違うかもしれない」と書くだけである。そうした彼の姿勢が、そんな彼の文章をたまたま読んだ読み手のそのときの気持ちにフィットする。

橋本治の『小林秀雄の恵み』には、そこのところが実に丁寧に書いてあるので、「全然わからないから小林秀雄を投げ出した」というキズを過去に持つ私は救われたのである。

●オサムのメグミ その2 『当麻』小林秀雄著(『無常という事』角川文庫所収)

小林秀雄がこの文章を書いた頃、世の中では能の鑑賞が流行っていたらしい。
『当麻』は昭和17年に書かれている。『当麻』だけでなく、『無常という事』所収の全編がこの時期、つまり真珠湾攻撃の翌年の、戦争のさなかに書かれている(戦争のさなかだが、人々は能を鑑賞していたのである。なかなか立派である)。しかし、『無常という事』が出版されるのは戦後なのだ。
橋本治は、戦中に書かれたこれらいくつかの小林秀雄の文章が、戦後日本人の心中を襲った虚脱感、敗北感に、あまりにすっぽりとはまってしまったことに触れている。

《戦争中、日本人は生きることに必死だった。厭戦と好戦と反戦とを問わず、米軍機の空襲にさらされる日本人は、ただ「生と死」を考えるぎりぎりの緊張感の中にいて、戦争報道に一喜一憂していた。(……)平和が訪れて、それが実感されるにつれて、日本人は、「あれはなんだったんだ?」と、戦争中の自分を振り返る。『無常といふ事』の一文は、実にこの敗戦後の日本人の心性とよく重なるのである。》(『小林秀雄の恵み』228ページ)

《僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。》(『無常という事』/『無常という事』61ページ)

小林秀雄は戦争に関わる文章をいくつか残しているが、橋本治の言を借りればそれは「のらりくらり」と「知らん顔して」好戦でも反戦でもない態度で「投げ出し方をし」ている。戦争協力の集会で講演しながら、《進んで協力して、嘘もつかず、しかしその実、一向に協力なんかしていないのである。(……)聞く人にとっては、「この困難な戦いを勝ち抜こう!」という戦争遂行へ向けての前向きな言葉ともなるからである。なんて食えないオヤジなんだと、私は小林秀雄のイケシャーシャーぶりに感嘆してしまうのである。》(『小林秀雄の恵み』206ページ)

そんなんだから、『無常という事』の「ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ」なんていう感傷的な一文は、まさしく個人的に感傷に浸っているだけであって、在りし日のニッポンや我が愛する郷土を思い出しての一文ではない。小林秀雄は、能狂言『当麻』を観て天地がひっくり返るほどの衝撃を受け、感動した。感動のあまり、それまでの自分はなんだったのかという、虚脱感に襲われた。それを引きずったまま、『無常という事』を書いているのである。

   美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。

有名な小林秀雄の言葉である。この一文がでてくるのは『当麻』の後半で、私はこの『当麻』が所収された文庫本『無常という事』を持っているにもかかわらず、この一文が有名であることは知っていたがその出どころを知らなかった。知らなかったが、ここでいう「花」がいわゆる植物の花ではなくて、「あの人には華があるね」などと役者さんらの垢抜けぶりを評していうときに使う「はな」のことだと思っていた。橋本治が『小林秀雄の恵み』のなかで、自身の花(これは植物の花)に関する考え方から、小林秀雄のこの言葉における「花」の意味、世阿弥の『花伝書』の内容に至るまで、懇切丁寧に解説してくれているところを読めば、私がこの言葉について思っていたことはドンピシャではなかったが、そう外してもいなかったんじゃないかなと思われる。
橋本治は、『当麻』において最も重要な箇所は「美しい『花』が……」の一文ではなく、最初の段落の末尾にあるとしている。
《してみると、自分は信じているのかな、世阿弥という人物を、世阿弥という詩魂を。突然浮かんだこの考えは、僕を驚かした。》(『当麻』/『無常という事』56ページ)
そして、こう述べている。
《これを言う小林秀雄は、「当麻」を見る直前まで、世阿弥の言うことも、能のことも、どうでもいいと思っていたのである。重要なのは、この転回ではないのか――。(……)〈美しい「花」がある〉云々は、初めて能を見たシロートの感想――衝撃を受けた一言でしかなくて、そうそう意味のあるものだとも思えないのである。》(『小林秀雄の恵み』198ページ)

小林秀雄という人間を知る手がかりとしては、「美しい花云々」はおそらく意味がないだろう。だが、ではなぜ、この『当麻』という小文の中からこの:

   美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。

一文が、当時の――戦後の虚脱の中にいる――日本人たちに抽出され、ひとり歩きして記憶にとどめられるようになったのか。
この一文を記した小林秀雄の真意や感動の度合いは、橋本治言うとおり、たぶん読み手には伝わっていない。なんだか知らないけどこんなふうにシュパッとかっちょよく言い切ってくれている、その潔さみたいなものが、敗戦のショックと混乱ともやもやの中にいた日本人に、爽快に感じられたのである。
重要なのはこのことである。
小林秀雄はキャッチコピーづくりの名人だったのである。

小林秀雄は自身をさして「売文業者」といったという。文芸批評家として新聞に連載コラムを持っていた彼は誇張でもなんでもなく自分の仕事をそう表現したのだが、これを耳にした編集者だか同業者は、ずいぶんと謙遜したことを、とか、そんなに卑下しなくても、とか感じたそうだ。
しかし、まさに小林秀雄は「売文業者」であった。発見や驚愕、感動や哀悼を、万人の胸に、しかし万人のそれぞれの感じ方ですっと浸透していくようなしかたで、響くような文章で書き表したのである。読み手がどう解釈しようと構わない、その一文に惹かれてくれればいい。
それはまさにコピーライターの仕事である。
私たちコピーライターは、くだらないことをさもよさげに、つまらないものをさぞかし面白そうに書くのが商売だが、かる~いおちゃらけなことを書いているように見えても、それには結構労力が要るのだよ。よさげに書くのはいいが、嘘や誇張はいけない。否定はもちろんしないけど、全面肯定もよろしくない。裏付けのあるものを書くにはどこをどう突っ込まれても証拠を出せるだけの下調べが必要なのである。
小林秀雄には知識教養というすでに調査済みの蓄積事項がたくさんあったので、私のように400字の広告書くのに四苦八苦しなくてもよかったはずだが、結果として、成果物として生産するもの(文章)の価値の問われかたは、同じだ。
心に残るか、残らないか。

『当麻』は能狂言の公演広告コピーに使える、と私は今読んで思う。懐古趣味でなく。

   美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。

華のある文章を書きたいものである。私も売文業者のはしくれとして。


あ、ところで、「したがき」も読んでくださいね。来てくれたのおさかさんだけなんです、いまのとこ。
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