手紙の誤字も詩になる ― 2008/07/12 20:03:08
川滝かおり 詩
林静一 絵
サンリオ(1982年)
そのむかし、林静一さんというイラストレーターが大好きであった。例の投稿詩の雑誌『詩とメルヘン』には、彼の絵がよく出ていた。投稿詩のなかには苦悩を鋭利な言葉でうたったものも、哀しみや絶望を叫ぶかすれた声が聞こえるかのようなリアルなものもあったが、多くは恋する乙女のはにかみや幸せをかみしめるカップルのつぶやき、あるいは若い失恋であった。そういう詩に林さんの絵はとてもよく合っていた。可愛い絵なのだが少女趣味ではなく、少女マンガチックでもない。描かれた少女や静物は黙して語らずけっして詩の前には出てこない。なのに詩の核心、あるいは落としどころをぶれることなく絵にしている。
挿画家たるもの絶対こうでないといけないのだが、画家のみなさんはちょっと売れ始めると、添えものであることを忘れて自分を前に出そうとなさる。画家が頑張っても絵に負けない文章や詩はあるものなんだが、絵に負けてしまう文章や詩に画家がはりきって絵をつけてしまうとなんじゃコラ、みたいな話になってしまうので要注意だ。それをきっかけに仕事を失う画家もいる。
といって、添えものという身分をわきまえ過ぎてあまりに謙虚であり続けた結果、技量はすごいのに陽の目が当たらずじまいということもある。商業イラストの世界で生きる人はけっこう難しい綱渡りをしている。みんな、それなりに偉いのである。
林さんの絵は、絶妙だった。
出しゃばらないけど、すでに詩と一体化していて、その詩はもう、林さんの絵なしには、じつは成立しないのである。だが、その詩は林さんの絵ある限り、林さんの絵「なしでも十分鑑賞に値する」と読み手に思わせることができる。
林さんの絵はすごいのである、そういう意味で。
川滝さんの詩は、いわゆる普通の人がノートに書き綴ったような、おとなしい可愛らしい詩である。等身大で、同世代の女性の心にまっすぐに届く。『詩とメルヘン』に投稿詩が載り、はじめての詩集を出したとき、この人は普通の専業主婦だったらしい。
本詩集が成功しているとしたらその理由は、主婦っぽさ、家庭の匂いを排除していながら、全体に、燃えるような大恋愛期はもう過ぎた、平穏な日常にいる女性の、記憶や気づき、ふと心に訪れる迷いを、難しい言葉を使わずに連ねていることにあるのだろう。
林静一の絵でなければ買わなかったこの詩集のなかに、めっちゃ共感できる数行に出会ったのは確かである。私も若かったし、感じやすかったんだな。
《赤く咲く花よ
教えてくださいわたしに
季節がくればふたたび
同じ赤さで咲くことのできる力のわけを
枯れた心のよみがえるすべを》(25ページ『教えてください』より)
《覚えておいて
あとで思い出そう
あなたを好きなわたしの気持ち》(41ページ『覚えておいて』より)
《かさを捨て
雨にぬれたいときがある
雨にうたれて歩いてみなくては
心がわからないときがある》(65ページ『風景』より)
《彼の顔も家も
思い出すことはない
けれどあの花のいろだけが
とつぜんあざやかに
胸によみがえってくる
そんな夕暮れがある》(69ページ『初恋のいろ』より)
《すぐに忘れてしまえるよう
消えてなくなりそうな
たよりないのがいちばんだ》(73ページ『別れの場面』より)
とりわけ好きだったのが、次の2編だ。
《サンダルのまま
玄関で封を切ったりはしない
手紙をにぎりしめ
ポケットのお金をまさぐって
駅への道を走ったりしない》(15ページ『手紙』より)
《「手紙が送れてごめんなさい」
ああ妹はきっと幸福
こんな誤字を平気で書いて
せんたくばかりしていれば》(21ページ『誤字』より)
四半世紀前のこの詩集には、黒電話もダイヤルも出てくる。
誤字に気づかぬ相手のさまを、微笑ましく思えた時代だった。
恋も仕事も暮らしも、変わったなあと思ういっぽう、上に挙げたような言葉で、恋心は今も表現されるじゃないか、とも思う。
だけど私は歳をくっちまったので、いま川滝さんの詩を読むと、別にこれ詩でなくてもいいんでないかい、改行しないで文にして普通の文章に紛れ込ませてもさ、といじわるばあさんのようにつぶやくのである。