忙しい時に限ってどうでもいいことを書きたくなる ― 2008/11/12 17:20:57
シンシア・ライラント作
竹下文子訳 ささめやゆき絵
偕成社 (1999年)
寒くなった。曇って太陽が覗かないからよけいに寒い。でも、まだウチでは暖房を出していない。母が就寝前に寝室のヒーターをタイマーセットしているだけだ。温かいものをいただけば身体は温まり、お風呂に入ってすぐに寝れば冷えずに安眠熟睡、翌朝すっきりである。
でも職場では寒い寒いを連呼する経営陣が暖房器具のセッティングを命じ、ほどなく完了されると待ってましたとばかりにがんがん焚き、おかげでぽかぽかむんむん、ぬくいことはありがたいが、そんなにするほど寒くないだろと思う私は案の定、室温上昇過多のせいで頭痛に見舞われる始末である。
いまならひざ掛けがあればいい。贅沢なひざ掛けでなく古いジャージでよい。しばらく開けなかった衣装箱から古いセーターが幾枚か出てきたので、切ってつないでひざ掛けにしようか。
『人魚の島で』に描かれる島は、寂しい。絵を描いているささめやゆきさんの絵がお洒落で可愛らしいので、少女向けの可愛らしいファンタジックな童話だと思って読んだら、うーん、なんかちょっとちがった。
島は、なかなか住環境としては厳しいのである。風の強い日、おおしけの日。
住民は、それぞれが島のように、互いにつながらず関わりを持たずに暮らしている。
幼い頃両親を亡くしている「ぼく」は祖父と暮らす。
物語に横たわる空気は、どちらかというとマンガレリ作品のもつそれに近いなという印象をもった。主人公は寡黙で、家族は少なく、友人はなく、暮らしは楽でない。
ただ、本書では主人公が成長していき、過ぎゆく歳月の描かれるところが、マンガレリの2作品『おわりの雪』『しずかに流れるみどりの川』とは異なる。
これは、読み終えてみると大きな差異なのである。
本書の読後感には、主人公の現在の充実や未来に待つより大きな幸福、そうしたものを最終的にすくいとれるような、安心感に近い感覚が大きい。一方、マンガレリの作品はどちらも、主人公の行く末に大きな不安を抱かずにはおれない。この子、大丈夫なんかなあ、的な読後感。(とはいうものの、マンガレリ作品の主人公たちのほうが格段に強くたくましく生きていくように思えるのは単に私の好みの問題か。そうであろう、きっと)
『人魚の島で』のダニエル少年は、物語のはじめのほうで人魚に会う。人魚は少女の姿で、彼の名を呼んだあと尾びれを返して海に消えていった。それ以降、少年のなかで何かが変わり、そのことが彼の生きることへの自信の源となっていく。
気難しい祖父しか家族のいない少年が、その祖父の息子だった亡き父や、子どもの頃に亡くなったという祖父の姉といった、目には見えないけれどたしかに生きていた、いくつかの存在を、自分なりのしかたで心に確かなものとしてゆく。島の浜に散らばる貝殻のひとつのようにしか思えなかった自分自身にもルーツがあるということを、そうははっきり書いてはいないけれど、確信することで自信を得て成長していくのである。
物語を大まかに捉えると「やっぱりね」感が大きくてつまらないので、細部にこだわって読むことをおすすめする。人魚の櫛って何でできてるのかなあ、そもそもなんで人魚に櫛が要るのかなあとか、鍵って持つとこ丸いのかな四角いのかな、などなど、揚げ足取りや重箱隅なんかしながら読むとけっこう楽しい。お話はちゃんと辻褄が合い、あ、そうなのね、とすとんと落ちるようにできている。
訳者の竹下文子さんはおびただしい数の絵本や童話を出版されている児童書界のベテランである。幼い子どもたちに向けた優しい語り口のなかにある確かさには信頼が置ける。はずである。しかし、本書に関してのみいえば、もう少し、なんというのか、重厚感のある文章のほうが、物語の背景の寂寥感や、ダニエルを貫く孤独感を出せたと思うのだが……。ファンタジーだからあまりどっしりしちゃうと「なんとかXの魔宮の棺 未知の物体を追え」みたいなわけわからんホラーミステリーまがいのものになってしまうだろうけれど。そうなってはだめだから子どもにも読めるように可愛いめの体裁にしたのだろうけれど。一貫して「おじいちゃん」でなく「祖父」といわせているのは、ダニエルに聡明さや芯の強さをもたせたかったからか、祖父、孫ともに質実なところをにじませたかったのか、どうなのか……。最初から最後までどことなく文体がちぐはぐで、そのせいで、原書から抜け落ちたものがあるんじゃないかという疑いをぬぐいきれないのだ。
ライラントの本は「小石通りのいとこたち」シリーズが知られていると思うが、このシリーズ、とてもつまらなかった(ごめんなさい)。娘がちっちゃな頃に読み聞かせたけど、ヤツは全然興味をもたなかった(同上)。
もしかしたら、訳者がどんなに頑張っても、ちぐはぐなのかも。
「小石通り――」のみならずライラントの訳書は数多いが、とりあえず、同じささめやゆきさんのお洒落なイラストを着せられた『ヴァンゴッホ・カフェ』は読もうと思う。そちらは中村妙子訳なので、ぶれない文体と原書以上の言葉の豊かさを期待できる(かもしれないかなあ)と思う。
コメント
_ 儚い預言者 ― 2008/11/13 13:54:03
_ midi ― 2008/11/13 17:13:44
いつもご来訪ありがとうございます。
本を読むという行為そのものがファンタジーに身をゆだねることなのかもしれません。
空想と現実を行き来するのですからね。
あるいは書くという行為もそうなのかも。
二重生活という人間の仕組み。生きる物質的な変遷と、永遠の心のムーブメント。逃避にはいつも戦う世界がある。それは、慈しみは無意味な意味にいつも補われるように。
伝統と斬新はいつも隣り合わせ。この螺旋運動こそ人のDNAの形でも、内容にもなっている。
そうあなたと踊る。それは宇宙の意志。あなたと踊るチークダンスは・・・・・・。