ウチよりいいもの食べてるかも2008/11/06 18:22:42

『TOKYO 0円ハウス 0円生活』
坂口恭平著
大和書房(2008年)


9月になってようやく私に回ってきた本書。誰かが、あまりの面白さに返却しないで止めてたのか、よくわからないがずいぶん時間がかかったものである。この本を待っていることについては5月に書いた。
http://midi.asablo.jp/blog/2008/05/28/3547303

『ホームレス中学生』は小池くんが主演で映画化されて、ウチの娘はそっちも観たくてウズウズしていたが、いっときのことで、ぱたりと言わなくなった。
この本には、主人公の父親がその後どうしているのかの記述がまったくなく、娘にはそれが腑に落ちないのである。娘の友達たち(←こういう表現って変だと思いつつ、「友人たち」と表現するにはやつらはまだ子ども過ぎる)は主人公が母親を想起するところで泣けたと言ってたというし、中学の先生の一人は人の温かさに泣けるだろうと嬉しそうに言ったという。

「泣くような話とちゃうで」
という娘の言に賛成である。

ウチの娘は圧倒的に読書量が足りないので、行間を読むとか背景を推理するとかそんな芸当はできない。書かれたものを額面どおりに受けとめるだけで精一杯だ。とすると、その程度の読解力の人間にとっては『ホームレス中学生』の文章は大変に表現力に欠け、深みが足りない。はしばしに、下手な芸人の笑えないネタそっくりの、話の流れとは関係のない落ちないオチが散見され、目障りである。(泣くような話ではないが、同時に笑える話でもないのが辛い、というのも娘の言)
著者の体験記であって小説ではないのであまり多くを求めてはいけないが、それを差し引いても読み応えがなさすぎる。
ただそれでも編集者の苦労は偲ばれ、工夫のあとは垣間見える。ご苦労さまである。こんなにヒットしたんだからおめでとうございます、である。

「泣くような話」ではない。その理由について私はそれを文章のクオリティに一因ありと思うが、娘がいいたかったのは実はそこではないだろう。
幼くして母を亡くした主人公の欠乏感、心を占めていた愛情が抜けて空いた穴の大きさ。近親者で亡くした人間は祖父のみという娘にとって、母親を亡くした場合の事態は想像できないのだ。可哀想だろうけれど感情移入まではできない。泣くにはもっと経験が要る。
もうひとつ、周囲が家をなくした彼らを支えるという親切な行為については、逆に自分の住む地域なら容易に想像ができるので、べつに失われた美習でもなんでもないだろうと思うから、そこに引っかかって泣くようなことはないわけである。

さて、『ホームレス中学生』の「罪」は、「ホームレス」という言葉に対し、何の問題提起もしなかったことである。「家」とは何なのか。家のない状態とはどういうことなのか。この国にはこの名称で十把一絡げに扱われる人々が山のようにいるはずで、行政はそういう人々を巨大ほうきで一掃することしか能がないが、そうした事実について、一度でも、『ホームレス中学生』をはやしたてるメディアが語ったことがあったのか。
ない。
この本の背景では、育ち盛りの子ども三人を抱えた父親が袋小路に追い詰められて家族を解散しなくてはならなかったのだ。日本の社会が抱える病理を、議論したり、してないだろ。

……そういうことにカリカリしている時に、本書『TOKYO 0円ハウス 0円生活』はバサッと冷水を浴びせてくれる。
前置きが長くなったが、本書は「達人ホームレスの暮らしの知恵」とか「驚きのエコアイデア、驚きの省エネ裏技紹介」、とでもキャッチをつけたくなる内容だ。
著者は、住所を持たない人々すなわちホームレスの「家」を訪ね、観察し、その優れた構造と工夫に舌を巻き、彼らの生活力に喝采を送る。
大半を占めるのは鈴木さんとみーちゃんの「家」の話である。なんと彼らは隅田川沿いに「カップルで」住んでいる。廃棄バッテリで動く廃棄家電の数々。アルミ缶収集で得た収入で、新鮮な食材と良質の調味料を調達する、銭湯にも行く。花火大会前など一斉掃射が行われるときは「家」は解体され、畳まれる。私より稼ぎはずっと少ないけれど可処分所得はずっと多いような気がするし、ずっといい食事をしているような気がする(泣)。やっぱ基本は食である。彼らは元気である。

著者は、ただただその「移動式簡易住宅」への畏敬の念が先にたっているので、取材相手のこれまでの人生や現在の状況を哀れむという視点がまったくない。そのことが、本書を読みやすくしている。この問題には社会的な数多くの懸案がてんこ盛りのはずだけど、そういうことはさておき、「家」のアイデアの素晴しさを称賛する。
建築を学んだ彼は、建てるにも壊すにも膨大な資金と労力を必要とする建築物ばかりを造るのはもういい加減に止めようよ、といっている。本当にそうだなあと思う。家は必要だが、家の在りかたを考え直してもいいんじゃないか。どんなに頑丈に建てても、贅を尽くしても、核爆弾降ってきたらひとたまりもないんだし。

ダンボールとブルーシートと建築現場からもらってきた角材だけで、自分に日常生活を営める住宅を誂えることができるかと問われれば、もちろん答えはノンだ。今、我が家はいよいよ雨漏りがひどくなり、床を踏み込むと、私の体重のせいばかりでなくてズボッとへこむ箇所がある。そんな修理すら私にはできないし、天井や床をいったん開けたら要修理箇所がゴマンと出てくるかと思うと、そしてその修理費用がとてつもないものになるだろうと思うと、なんて私って生活力ないんだろうと自己嫌悪である。
なんてことを書いてると、職場の天井裏でネズミがごそごそがりがりやってるのが聞こえる。どこでも生きていけるって、偉大なことだ。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2008/11/06 22:59:35

 青大将いませんかね。私の生まれた家はそう、ちょうど京長屋的な家で、そこにはいつもネズミがいましたが、家にも自然の調和があるようで、それがたぶん青大将のヘビを頂点とする、生き物の(人間はヘビの格下)平衡を保っていた気がします。
 人間立って半畳、寝て一畳。空間の最小限でしょうけれど、現代の生活の便利・快適追及は、逆に安直な思考を育てているような。
 外国の人が日本の昔の住居(主に藁葺き住居)を見て感心するらしい。それは、これほど部屋の使い道なり、応用の利く家はないと。其々が幾つもの用途をもち、人が住み易い工夫が幾つもあるのに、シンプルであると。
 それがたぶん今ではホームレスの「家」に継承されているのでしょう。
 日本人の生活の知恵は今もなお続いている。それはマジョリティーの世界から逸脱しているマイノリティーの世界で。

_ midi ― 2008/11/07 05:25:09

青大将いるかもしれないです。隣の家にはいましたし(保健所を呼んだ)はす向かいの家にも、いるのを発見したらしいけど「おおきにおおきに」って拝んでるうち姿を消したって(笑)。
うちはネズミが繁栄をきわめてましたが、青大将が棲みつくようになったのかどうか、ここ2年ほど音がしなくなりました。

移動式折畳簡易住宅なら、ネズミもヘビもゴキブリも棲みつく暇はなさそうだし、そういう意味でも優れもの。

_ きのめ ― 2008/11/07 18:44:37

先月から三角寛を読んでます。
うーん、ホームレスかぁ。
だんだんひとごとではなくなってきているかも。
それでもいまの日本は歴史上一番幸せなときかもしれない、
とも思う。

自己中なわたしのほんのささやかな望みは、どんなひどい時代でも自分だけは幸せでいたい、ということです(爆

_ midi ― 2008/11/07 19:14:19

三角寛ですかー。出版物、ありました? 図書館の書庫にならあるかも。私は不明にも、大昔、フランス人留学生からその名を聞きました。

>それでもいまの日本は歴史上一番幸せなときかもしれない

グローバリゼーションの最大の受益者は日本だそうです。
その「益」、私たちに回ってこないでどこに費やされてんのかしらね。
私のささやかな望みは、アマゾンの森林をこれ以上切らずに日本の杉を切ってくれ、ということです(ジコチュー)。

トラックバック