あたしの父さんはお礼を言うとき必ず「アリが十匹」と言った……なんてのに比べてなんと重く切なく深い父の思い出であることよ、とちょっと羨ましいと思ったの巻 ― 2009/03/19 18:42:53
ヒネル・サレーム 著 田久保麻理 訳
白水社(2007年)
ユベール・マンガレリの本で見知った翻訳者さん、田久保さんの名前が見えたので借りた本。
つっかかることなくすすっと読める現代フランス小説は、原書を読みたくなる。古典の場合は反対で、ガチガチで古くさく感じられるほうが、原書への興味が高まるのだが、現代ものでガチガチだと、書籍そのものへの関心を失ってしまう。
田久保さんの訳文は、マンガレリを通してしか触れていないし、そのマンガレリの原書を読んでいないので推測でしかいえないのだが、原書のもつ空気を損なわず醸し出し、でしゃばらない表現で、なおかつ作者の意図を必要十分に読者に伝える役目を果たしている。原作者は作曲家で翻訳者は演奏家、僕が書くのは楽譜、といったのはたしかジャン=フィリップ・トゥサンだったが、演奏の際によけいな即興を入れたり、独自解釈による演出を差し挟んだりしないことも、訳者には求められる。
私のように、まるで呼吸の如く「よけいなひと言」を発し、人様の言うこと書くことの裏の裏の脇腹まで探り入れほじくり出し拡大解釈しないと気が済まないような人間は、性格から変えないとよき翻訳者にはなれないのであろう、と落ち込むことしばし。
ということで手にした『父さんの銃』。
声を大にしていいたい。「日本人よ、これを読め。」
私たちは、よその領土に踏み込みその地にもといた原住民を虐殺して征服して建国を宣言した、という歴史をもたない国であり、民族である。戦時にはたしかにアジア各地でいちいち書くのが恥ずかしいほどの悪行三昧だったが(そしてそれは永遠に許されることのない大きな行為だったのだが)、その果てにその地に建国して現在に至る、ということをしていない。今、日本国内にいる在日をはじめとする他国籍の人々は、日本人に強制的に連行されて、あるいは騙されて連れてこられて、あるいは自らの意志で、入国した人々である。直接接触する当事者でなければ、そこにその人たちがいるということを、私たちは意識することがない。
こういう国の成り立ちや歴史の重ねかたが、私たちに特有の国民性、「弱者への無関心」を形成してきたと思う。
私たちは弱者を見ようとしない。
私たちは弱者が抱える問題を知ろうとしない。
見ていないもの、知らないものについて議論することは、目撃したことやよく知っている事柄についての議論でさえ苦手もしくは遠慮する日本人にとって、至難の業である。
在日のこと、部落のこと、水俣のこと、炭鉱のこと、らい病のことエトセトラを「あ、そうなんですか、知りませんでした」でスルーしてきた私たちが、ましてや枯葉剤の後遺症だとか、ラーゲリ帰還兵のその後だとか、新疆やチベットで起きている迫害や、チェチェン紛争の実態や、ガザの崩壊などについて、報道されていようがいまいが関心をもつはずがない。
『父さんの銃』はクルド人の物語である。
あらすじは白水社のサイトに詳しいのでそちらを検索して読まれたし。
私は中東をよく知らないので、その風景をうまくイメージできない。ただ荒涼とした砂漠が浮かぶばかりだ。読了したのは去年の夏だったが、読んでいてずいぶん暑い思いをしたものだった。
が、物語には、山も川もあり果樹園も広がる豊かな大地が描かれる。主人公・少年アサドは故郷を愛し、クルド人としての誇りをもって生きようとするが、サダム・フセインの圧政のもと西欧へ亡命する……。
それにしても、クルド人って誰のことかを知る日本人が、いったいどれくらいいるだろう。
若い頃ドイツの友達を訪ねたとき、ドイツ在住のトルコ人は差別されているが、そのトルコ人はクルド人への差別意識でアイデンティティを保っている、という話を聴いた。どこの国でも、根拠のない弱い者いじめの環ってあるよねと、力なく情けなくため息をついたことを思い出す。だが、日本に住む日本人である私は、トルコ人やクルド人に対する認識をそれ以上高める必要はないし、よほどの専門書でも読まない限り、彼らについて知る手だてはない。
そういう意味で、本書は、世界中で弱者が虐げられている事実をそれとなく何気なくさりげなく、しかし説得力のあるかたちで告げており、それは一冊の本として実に大きな役割を果たしているといっていい。著者が逃れたサダム・フセイン政権はもう存在しないけれど、昔も今も、クルド人は迫害され続けている。