何歳になったときがいちばん感慨深いですか? ちなみに私は17歳と27歳だった……ところで13歳にして「これ以上歳をとりたくない」とほざく娘よお前は何者なんだ、の巻 ― 2009/04/30 19:51:53
E・L・カニグスバーグ著 小島希里訳
岩波書店(2001年)
少し前の話になるが、2月に娘が13歳になったので、なんとなく「13歳」にちなむ本など読んでみようとタイトルで探してみたけど、これがまあ、なんにもない。何もないことこのうえない。13歳というのは読者を惹きつけるキーワードにはならないというわけか。
幼稚園年少にあたる「3歳」とか小学校就学年齢の「6歳」なら子育て中の親をターゲットにしたものが賑やかだ。14歳、15歳、16歳となるともうその年齢の当事者向けの本が増える。でも13歳って? ひとつ違いの「12歳」は「小学校6年生」と同義なので、これまた意味が濃くなリ、書物のタイトルにも効果的にはたらくと見える。でも13歳って?
13歳のハローワーク
13歳の生き方哲学
13歳の論理
13歳からの人間学
13歳からの自信力
13歳から始めるJAVA
(正確な書籍タイトルとは限りません)
どれもこれも面白くなさそうなことといったら(笑)
たしかに日本では、「13歳」は子どもに何をさせようと思ってもすでに「遅すぎる」感があり(英才教育という意味で、だよ)、そして「13歳」を大人として認めるのは「早すぎる」として社会が受けつけない。親のほうは「アンタもう好きにしなさい」と諦念から放任し、社会は「子どもは黙ってろ」「イマドキの若いもんは」と相手にしない。その始まりが13歳のようである。
私は、自分が13歳になったときに何を感じたか、ということの記憶がない。娘の13歳の誕生日も、だからといって特別な感慨はなかった。どちらかというと彼女の12歳の誕生日のほうが感慨深かった。ああ、もう12歳になっちゃったんだね……。私は子どもに車の助手席に座ることを許さなかった。娘はいつも私の後ろにひとり座り、耳元でお喋りして運転の邪魔をするか、シートに寝そべって寝息をたてるかどちらかであった。12歳になったら助手席に座らせてやるよ、と約束していて、娘もそれをすごく楽しみにしていたが、彼女が12歳になってひと月後に私は経済的な理由から車を手離してしまった。ごめんよ~(泣)
13歳の誕生日に娘は、これ以上歳を取りたくない、などとほざきやがったのだが、たぶん、それはもうここから先は(というよりそのときもうすでに)言い訳ができない、言い逃れができない、行動に責任が問われる歳になったということを自覚したのだな、と、ええように解釈しておいてやることにして、それはともかく、世間的に13歳ってどうなんだろうと思って本などを探してみたわけである。結果は冒頭でぼやいたとおりだが、1冊、小説を見つけた。
カニグスバーグという作家の名前は、仲間に入れてもらっている児童書の翻訳の勉強会ではとてもよく登場する。英語圏の作家はとても遠いので、例によって私は一冊も読んだことはなかったが、今回初めて読んでみようと思い至って図書館へ行った。「カニグスバーグ」の書架はすぐ見つかった。結構借り出されている。本書が残っていたのはタイミングがよかったにすぎないのだろう。
『13歳の沈黙』は、黙りこくってしまった当事者と、彼を見守り彼に語らせるために懸命になるその親友「ぼく」の、二人の少年の物語だ。この二人が喧嘩したり助け合ったりする、という陳腐な話ではない。当事者のほうは重大な嫌疑をかけられ拘留されている。言葉を失い、尋問にも答えられない。「ぼく」は親友に罪はないことを信じて行動する。構成と章立てに工夫が見られるうえ、二人を支える脇役の人物描写にもすぐれていて、物語を説得力あるものにしている。面白い、といっていい。
舞台は架空の大学都市で、二人の少年の親たちはみな大学関係者である。会話表現がなんだか回りくどいと思うのは私だけだろうか。大人たちは研究者くさい。子どもたちは理屈っぽい。読んでいて、なんとなく、癇に障るというか、癪に障るというか(笑)、こいつら可愛くねー(笑)、みたいな。
で、私は、この物語の主人公である二人の少年の、中途半端に大人びたもの言いが「13歳」ということなのだろう、と考えることにした。なんたって13歳はサーティーンだからティーンエイジャーなのである。子どもじゃないのである。「ぼく」もその親友も13歳という設定だ。物語の冒頭で「ぼく」がそう述べている。しかし、物語の中で「13歳」という言葉が出てくるのはそのときだけで(だったと思う)、以後、お話が終わるまで、13歳ということはあまり問題にならない。人物の台詞に「君(ぼく)はもう13歳なんだ」とか「子どもじゃない」とか、そういうことは書いてなくて、話のポイントどころか余分なエピソードにすらなってない。親友は13歳だから沈黙しているわけではない。「ぼく」も13歳だから事件解明に乗り出しているわけではない。たしかに微妙なお年頃の少年たちであるということは物語の流れやキーパーソンの女性たちとの会話ににじみ出ていて、大人と子どもの境目にあることはよく伝わってくる。けれども、大人と子どもの境目なら12歳でも14歳でも構わなかったはずだ。なぜ「13歳」なのか。
本書の原題は「Silent to the Bone」、訳者あとがきによれば「骨の髄まで黙りこくって」という意味だそうだ。……だったらそういう邦題にすればよかったのに、と思ったのは私だけだろうか? 物語の中で、「沈黙」はたいへん大きな位置を占める。その沈黙は「すねて口利かない」なんつうレベルではない。深い、闇の沈黙だ。事件の謎を解く鍵でもある。その沈黙の深刻さをタイトルに表現したほうが、著者の意図を汲んだものになったんじゃないのか?
訳者あとがきによれば(もう、うろ覚えなんだけど)、カニグスバーグの主人公たちはこれまでは(本作以前、という意味)12歳以下だったらしい。つまり、いつも正真正銘の子どもが主人公だったのに、今回は大人への扉を開けた少年たちなのだ、といいたいようだ。いわく、カニグスバーグが13歳を描くのは初めてである、これからもこの作家は13歳の世界も書くのだろうか、どんな13歳を見せてくれるのか楽しみだ、云々。
でも、そんなの、この本で初めてカニグスバーグを読んだ者(あたしがそうだよ!)には全然関係ない話じゃないの? カニグスバーグを読む人はみんなカニグスバーグのファンで、カニグスバーグ作品をすべて読んでいるということを前提にして訳されて編集されちゃうって、どうよ。(いや、そうは書いてないけどね)
そんなふうに勘ぐって読むと、「ぼく」の言葉遣いも「ぼく」の一人称で進む地の文も、なーんだか理屈っぽくて論理的なもの言いを意識しすぎのきらいがある、と感じるわけも、わかるような気がする。「それまでの」カニグスバーグの主人公たちとは違うのよ、ということを強調しようという無意識下の意識がきっと働いたのね。
そんなわけで本書はなかなかに面白かったが、「13歳」をキーワードにしてようやく探し当てたということに関しては、期待は裏切られたのであった。
ま、そういうことだから、けっきょく13歳って、みそっかすなんだよ、世の中的には。はよ大人になれ、娘。
ところで、表題の「何歳になったときがいちばん感慨深いですか? ちなみに私は17歳と27歳だった」について。
17歳というのは南沙織のデビュー曲だったでしょ。桜田淳子も「十七の夏」って歌ってたよね。その歳に追いついたとき、「海行きてえなあ」と思ったよ(笑)。
27歳のほうは、社会人になりたてのときのこと、会社の接遇課の先輩(お客様応対がお仕事なので美人揃い)のひとりがこう言ったのだ。「早く27歳になりたいわ」。どうしてと訊くと、27歳になれば誰の指図も受けずに生きていけると思うのよ、という話だった。上司の指示だけで動く今とは違って。親元にいる今とは違って。たとえまだお嫁にいってなくて親元に居続けたとしても、自分の意志で生活する。管理職に就いているとは思わないけど、まだ上司の下で働いてると思うけど、自分の意志と判断で仕事をする。27歳になればそうやって自分の足で歩いてる自分がいるような気がするのよ。そういうことをその先輩は言ったのだった(大阪弁で)。私は素直に、あたしも早く27歳になろ。と思ったものだった。
17歳、私は高校がつまらなくて、デッサン教室またはどこかで絵ばかり描く日々だった。
27歳、私は南仏で怠惰な学生をやりながら安ワインを飲んだくれていた。
コメント
_ きのめ ― 2009/05/01 06:45:29
_ midi ― 2009/05/01 19:47:16
だれが? 南沙織?桜田淳子?それともウチのさなぎ?
_ コマンタ ― 2009/05/03 01:17:30
_ midi ― 2009/05/03 06:59:09
私も子どもの頃、死なんて考えたことはなかったですね。けれども、死は身近な現実のものとして、存在はしていたように思います。身に迫りくる危険という意味ではなく、いずれ訪れる終焉、でも想像できないほど遠いものとして。今の子どもたちにとって死がどのように意識されているのかは正直わかりません。いっとき、ヴァーチャルな世界と現実とが区別できない、といった傾向を問題視されたりしていましたが(子ども自身が殺人者になったりしたときに)、果たして今は? 親にも殺されるかもしれないし、先生に殺されるかもしれないとなると、ヴァーチャル云々ではなしに、死は身に迫りくる危険のうちの最大のものとして意識されているのかも。
_ 儚い預言者 ― 2009/05/04 17:52:29
他の男が何を言っても私はあなたの真実を知っている。
だから、今夜一緒にお互いを高めようではないか。
あっひー、ごめんなさい、ここは口説きところではなかった。
ええーーっと、コメントコメント。
あっそうですね、成熟とは、裏合わせのような気がする。普通、社会的な責任において、大人度を計りますが、私にとっての成熟度とは、魂の輝きの透明度です。だから社会的かつ魂の輝きを同時に持てる人こそ、真の大人と言えましょうか。
しかしですね、たぶん大方の人は、輝いていないのです。面白いことに、社会的責任で魂にベールを掛けている人がほとんどなのです。
魂には、年齢性別大小がありません。なぜか、それは分岐される前の大元だからなのです。本当は私あなたという人称すらありません。愛そのものみたいなものです。でも現れをしなければ、魂が魂としての想いがわからないので、この物理的現実で、望みを叶えるのです。だからわたし、あなた、かれ、かのじょというのはただの役割なのです。というか、片方を演じて、総体を知るみたいな。
話が込み入ってきたので、元に戻しますが、気づきという世界ではないかと。それは私が私であることの夢の証としての感慨であると言えましょう。
そうなんです。自由というのは、制限がない限り、何の意味もない、何の証もないことです。それはどんなことでも通じる大変意味深いことです。
愛することに意味を与えなくても、ただ愛するということで宇宙の全てを叶えて、喜びという真実を生きることだけです。
話がはちゃめちゃですけれど、あなたを愛しく想っていることに変わりはありません。真実。
_ midi ― 2009/05/05 06:33:41
魂には年齢性別大小がない、それは森絵都の『カラフル』でもそういう設定になっていたような(魂は自身を「おれ」といっていましたが)。
時間の経過や社会的慣習などの縛りを受けない存在である魂が輝かないはずはないという気がしますね。ただその輝きは誰もが誰に対しても感ずるものではないということなのでしょう。でないと世の中まぶしくてしょうがない。
ずずっとお茶をすする。