光っているのは夜空の星のことだったんだということがなかなかわからなかったの巻2009/07/21 05:38:40

『きらきらひかる』
江國香織著
新潮社(1991年)


自分が心の拠りどころにできる小説を書く作家。そういう存在がほしくて、今いろいろ読んでいる。

愛するウチダは村上春樹を非常に買っている。その理由はさまざまあって、ウチダに語らせるとどれもがフンフンなるほどねと思えてしまうのが実は厄介なんだが、それでも私は村上春樹を読む気が起こらない(その理由は最後に書く)のでとりあえず今のところ一作も読んでいない。けれど、ウチダや加藤典洋とかが村上春樹を好きなのは、とゆーか高く評価するのは、まずは自分たちの心の代弁者であるということが大きいのではないか。彼の書く小説の登場人物が、というよりは、それを描く村上自身が、読む側にとって自分の一部のようにあるいは分身のように感じさせる何かをもっているということではないかと。
そんなふうに思える作家がいるというのは、幸せだろなあ、と思うのである。

少し前、愛するウチダが自身のブログで、村上春樹は掃除とご飯を作ることを小説世界に描いてみせた初めての作家だというようなことをいっていた。それがどのような描写なのか読んでいないのでわからないけれど、小説という、虚構を描くモノはいわば夢物語を描くモノであって、すなわち非日常世界を展開しなければならないのに掃除やご飯ごしらえをこと細かく書いていたのでは話が進まないのでふつうの小説家はそんな描写に行は割かないのだ、しかし村上はそれをやった、それが素晴しいというのがウチダの論だったように覚えている。
ふうん。
それは、まずは、ウチダがそういう感想をもったのは彼が男手ひとつで子育てしていたことと密接に関わっていると思う。いっぽう読者が家事にまったく縁がない生活をしていたとしても、女性の場合はなんとなく自身に引き寄せて家事の描写を感じることができるであろうけれど、男(とくに今50〜60代ね)の場合はまったく家事のありようを想像することすらできないと思われる。村上に相対的に女性ファンが最初多かった(と誰かが言っていた)のもそういうことなのかもしれない。

もうひとつは村上に戦争経験をもつ父親がいたということだ。しかも戦死せず帰還した。そのように、戦争に出て死ねずに帰った男を父(あるいは伯父とか叔父とか近所のおいちゃんとか)にもつ世代は確かにあり、彼らは、私などがとてもイメージできないほどに、その父の背中から父の重荷の中身を見よう、知ろうとしたであろう。そしてたいていそれは果たせなかったであろう。そうしたことにシンパシーを感じることの、読書嗜好に与える影響は大きいと思う。
だから、村上の場合、彼と年齢の近い読者をとくに惹きつけていると思われるが、違うだろうか。

昔つきあっていた慎吾(仮名ですよん)も村上に年齢が近かった。『ノルウェイの森』で彼はノックアウトされていた。読め読めと耳にタコができるほどいわれたが、たしか、赤か緑か忘れたが、表紙を開けて最初の数ページでなんとなく拒絶反応を起した記憶がある(笑)。

前置きがあまりに長くなって本題を忘れかけていたが、今回何をまず言いたかったかというと、いいなと思える作家になかなか出会えない私も、もしかして同世代の作家の中にその作品に共感できるものがあるかもしれないと思ったのであった。ウチダにとっての村上のような。

であるからして1960年代前半生まれの作家探しをしながら、いろいろ読んでいる。もうすでにいろいろ読んだけど、もしかして、不作かなのか?この世代!なんて思ったりもしている(笑)

(同世代の作家のイチオシってったらそりゃmukaさんろくおーいんさんおさっちぃだろーがって私の中の私が叫ぶんだけどさ、インディーズじゃなくて(インディーズって。笑)、いちおうメジャーデビューしてる人の中から探そうとしてるのだよ)

はい、とゆーことで江國香織さん登場。
きれいな透明感のある文章を書くということで大変評価の高い人である。本書『きらきらひかる』を評して本当にきらきらした文章だといった人が昔近くにいたような気がする。本書が発売されたのはもう20年近く前なんだ。若いときからきらめく宝石のような文章を書き、そしてちゃんと人に見出されて、次々と書き続けることができて文壇を駆け登った彼女には、ある意味天賦の才があるのだろう。

『きらきらひかる』の単行本を借りてきた。好みの装幀がなされていて、印象は悪くない。というか、さすが人気者の江國さん、書架にほとんど本がないのである、ほとんど借り出されていて。これのほかには『号泣する準備はできていた』というやつしかその日は残っていなかった。

去年、娘が国語の授業で『竹取物語』を習っていたときに、お子様向けの絵本の『かぐや姫』ではない、『竹取物語』全編のダイジェスト版みたいなのってないのかなあというので図書館に出かけたら偶然古典フェアをやっていて、そこに『竹取物語』江國香織文/立原位貫画、という一冊を見つけた。画家の名は「たちはらいぬき」といい、著名な木版画家だそうである。たっぷりと大きな面積で美しい版画がいくつも掲載されている。たいへんよい。
ところが江國さんの文章は、私にはなんだか「カツカツしている」ように感じた。わかりやすい文章ではあったが、私は理屈でなく本能で「これは竹取物語ではない」と感じたのだった。私たち日本人にとって「かぐやひめ」は日本の物語に登場する正真正銘のおひめさまである。「しらゆきひめ」や「いばらひめ」「しんでれら」に匹敵する姫君である。幼少の頃から紙芝居や絵本で、あるいは物語本で、十二単に長い黒髪をなびかせ月へ帰る姫の姿を幾度思い描いたことだろう。その延長線上に、中学や高校で習う古典『竹取物語』があった。私たちはかぐや姫を熟知しているので、『竹取物語』を現代語に訳す作業でもつい絵本のような文体になりがちなところを、もう少し高尚に、平安の香りが醸し出されるようになどと教師がいったかどうか、ちょっと気取った文体を目指した記憶がある。
しかし、この『竹取物語』の江國さんの文章は、ちょっと気取った、というのとは違う。「カツカツしている」というのは、柔らかく流れるはずの物語の文章の中に、プラスチックの破片が混ざったような異質な単語が混じる様子をいったつもりである。着物の裾を安物のサンダルに引っかけてほつれさせるような、場違いで品のない振る舞いを見たときの違和感。つまり、情緒的な和語の連なりの中に突然現れる無機質かつ事務的な企業社会的日常語が現れるのだ。(だからこのサンダルはお洒落なハイヒールなどではない)
この表現はないだろうに。と、ページをめくりながら何度思ったことやら。文章が下手なわけではないのに、やたら小骨がひっかかり、しかもその小骨は化学物質でできてる……という感じ。(一年以上前の記憶なので具体例を挙げられませんが、すみません)

だから、前から興味なかったけど、この『竹取物語』があったのでなおさら江國さんには近づくまいとしていたわけだ。しかしこの方が1964年生まれであることにいきなり気づいたのである。そういうわけで私は食わず嫌いをしないで代表作をまず読まにゃあいかんと自分に言い聞かせた。だって古典文学の現代語訳だけで人気のある現代小説家にダメ出ししたって誰も聞く耳持たないよね。

同性愛の男と情緒不安定もしくは統合失調症の女が結婚する。世間体のためである。とはいえ、互いにたいへん好意はもっている。二人で夜空の星を見るときが幸せなのである。

小説家なら誰でも思いつきそうな設定だし、現実によくあるケースじゃないかと思われるが、そこはきらきら光る透明で清新な文章を誇る江國さんなので、どろどろした人間模様をまんま描くのではなく、精神というあやういガラスの上を割らないように、時々亀裂を入れてしまいつつも歩く二人……という感じできれいに描いている。なるほど、ファンが多いのはうなずけないことはない。でもそれだけに、人物の心の底が見えない。わかりあっていて、たがいを大事に思う二人であることは描かれているのに、実際、ほんとのところこいつら何考えてんだというところが、残念ながら私には読めない。夫婦生活のない二人だから仮面夫婦なのだろうが、読者に対しても仮面をかぶり通している。その仮面を引っぱがした気分にさせてくれないと、面白くないのに、と思う。単に私が読めてないだけかもしれないが。

また、女と男の、それぞれ一人称の語りが章ごとに交互に現れる構成だ。こういうの、最近の小説によくあるという気がするが、誰が始めたんだろう。あるいは1991年当時は斬新な手法だったのか? こういうふうに章ごとに視点を変えるのって、確かに人物を理解する助けにはなる、読者にとって。
でも、本書の場合、この構成がとくに効果を発揮しているとは言いがたい。ずっと女の視点で通したほうがよかったような気がする。江國さんは女なのだから、そのほうが味のある小説世界に仕上がったと思う。なんといっても、同性愛の男の考えていることなんて異性愛の女には一生理解できない(江國さんが異性愛かどうか知らないけど)。いや、そうではなくて、たぶん「考えそうなこと」ならわかるけど、そのエクスタシーのありようが想像できないのだ。異性愛のありかたと同じといわれるかもしれないが、ほんとにそうか? 違うと思う。ぜったい。
だからどんなに描いても、この、夫である睦月(むつき)くんの深層心理を描き切るなんて、よほど綿密な取材をするか、自身も同じ嗜好であるかどちらかでないと、達成できない。
『きらきらひかる』を書いたときの江國さんはまだ若かった。だから感性だけで書いちゃった。しゃあない、のだろう。でも、肝腎なところが描かれずに終わった、という感想をもちましたよ。きっと今の江國さんならもっと厚みのある深いものを書いたであろう、同じ題材でも。それがいいかどうかわからないけど。

ただし、許し難いことがひとつ。物語終盤に近いところで、睦月が妻の親友にある企てを依頼する。が、親友は自分でやればいいじゃないか、という。その親友に対する睦月の台詞に、
「だめなんです。僕じゃ役不足なんです。僕じゃだめなんです(……)」
みたいなのがあった。

江國先生、「役不足」の使い方が違います(笑)。
文庫では改訂されてるのかな?
あるいは睦月が言葉知らずという設定なのかな?(※睦月は医者なんですけど。爆)

これ、紫式部文学賞とかとってんですけど? ……勘弁してよ。
どうなってんのよ。こういうの、お勧め図書とかに入れないでよね、中学校!

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さて、なぜ村上春樹を読む気が起こらないか。
このブログをたびたび覗いてくださる方ならお察しいただけるはず。
顔が嫌いなのである。

以上。