なりきることが何より重要だと気づいたがそれでもやっぱり手強かったよ死ぬかと思ったよ、の巻2009/12/02 19:10:00

堀川通。気候変動のせいかここ数年、黄金色がしゃきっとしない。それでも毎年晩秋はこの道を走るのが至福である。ふるさとっていいね。


『ダリ・私の50の秘伝 ~画家を志す者よ、ただ絵を描きたまえ!~』
サルヴァドール・ダリ著 音土知花訳
マール社(2009年)


ダリの『記憶の固執』という絵は、ムンクの『叫び』と並んで、「ようわからんけったいな絵」として小中学生の脳裏に刷り込まれるのではないだろうか。ダリもムンクも誰だかわからないけどあの変な絵を描いた画家の名として、テストなどにも出題されたりするのも手伝って、覚えているもんである。私も例外でなく、ダリについてはその程度の知識しかなかった。これでも美術大学卒だが、古今東西、星の数ほどもある絵画作品の大波のなか、すべてに関心をもつほうが難しい。とびきり好きな画家や作品の、数人の数点で、もう満腹である。私にとってサルヴァドール・ダリとは「けったいなヒゲオヤジ」以上でも以下でもなかった。
そのダリの古い著作のほんの一部分を見せてもらい、翻訳しませんかと投げかけられた。けったいなヒゲオヤジの書くものだからけったいなものに違いなかろうが、仏語の文面にはゴッホやピカソ、フェルメールらの名が見える。絵は変態チックだが文章はそうでもないかもしれないと思い込んだ私はぜひ訳したいと願い出たのであった。

ところが、とたんに私は後悔した。読めないのである。初見の単語はもちろんあるが、それら単語の意味がすべて判明しても、何を言っているのかがわからないのである。直前の段落との関連がつかめない。直後の段落とも無関係に見える。
しかも、何行読み進んでも、文が終わらないのである。来るのは読点ばかりで句点にたどり着かない。
そのあいだに話題は変わったようにも見え、変わっていないようにも見える。ようやく話題の区切りに来たようではあるがオチがない。おい、ヒゲオヤジ、この話オチがあらへんで、と突っ込んでみては虚しさに泣く。
幾つもの、そんな波打つような文章をくぐりぬけて(解読できたという意味ではなく)、ようやく、著者の書き癖というものが見えてきた。が、その「癖」はまったくもって難儀きわまりなかった。

ダリはスペイン人だがカタルーニャ人で、フランス国境に近いフィゲラス出身である。12歳くらいまでの初等教育をフランス語で受けたらしい。カタルーニャ語はスペイン語(=カスティーリャ語)よりもフランス語に近い言語だそうである。おそらくカスティーリャ語よりもフランス語のほうが得意であったのだろう。

しかし、彼の文章にはフランス語の辞書にはない言葉がぽんぽん出てくるし、カタルーニャ語だとしたらお手上げだし、ではラテン語かと思いきや、まったくの彼の思いつき(造語!)であったりする。その発想は哲学や宗教はもちろん、自然科学から数学、幾何学、化学におよび、もちろんベーシックな油絵技法は身についている者が読者と想定されているので、とにかく、東洋の果ての一介の訳者など、土俵に上がることすら叶わないのである。
けったいなヒゲオヤジはただ、頂上の見えない分厚い壁となって私の前にそびえ立っていた。その壁の向こう側には、始めも終わりも識別できないほど長い体躯をもった文章という名の幾つものまだら紐が絡み合っていた。それはあたかも蛇の乱交パーティーのようであった。何がそんなにイイのか傍から見ているとテンでわからないけれど、とにかく気持ちよさそうだ。酔いしれている。蛇は、いやまだら紐は、もとい、文章は、そんなふうに見えた。

けったいなヒゲオヤジだと思うから、埒が明かないのである。
私は、サルヴァドールになろうと決めた。今日から私はサルヴァドールよ。そう思い込んだ。生まれてすぐに死んだ兄と同じ名前をつけられた幼いサルヴァドールになった。妹に慕われ、同性の詩人に愛されることの快感と憂鬱にふける若きサルヴァドールになった。小さな港町ポルト・リガトの風景を想像した。ジローナ刑務所の鉄格子を思った。シュルレアリストたちのとの討論、煙草、酒、女を思った。最愛の人との出会いとためらいを思った。
印刷された画集でしか叶わなかったが、ルネサンス期の絵画を眼に穴が空くほど観た。中世フランドル絵画も、20世紀の画家たちの作品も、覚えてしまうほど観た。サルヴァドール自身の絵は、「私はいつ、なぜ、この絵を描いたのか」と考えながら観た。
毎朝洗濯物を干すとき、物干しに置いた幾つかの鉢植えにミツバチやアシナガバチが訪れる。私はサルヴァドールがミツバチと呼んだ妻のガラを思った。サルヴァドールがつかまえたスズメバチを思った。スズメバチの体の縞模様を思った。竿と竿とのあいだに蜘蛛が糸を張っていれば、以前ならとっとと払ったところだが、眼を凝らして見つめその糸を成した蜘蛛の営みに思いを馳せた。

サルヴァドールになってみれば、彼の書きようは、けっして蛇の乱交パーティーではなかったとわかる。ただその大いなる好奇心と探究心の発露であった。尽きぬ思考の泉からほとばしる滝のような情熱が、ただフランス語という形態を纏ってとめどなく流れ出ているのであった。言語は単なる衣装でしかなく、純粋無垢な少年の冒険心と、熟練した技をとうの昔に身につけた老獪な職人の同時代への猜疑心を、いっぺんに包んでくるんで、並べ立ててあるのだ。
最終章のあとのあとがき、さらに参考文献資料までたどり着けば、サルヴァドールがけっして脈絡のない呟きを思いつくままに書き殴ったわけではなかったことがわかる。容易なことではなかったが、サルヴァドールになってみれば、彼がどんなに絵と妻を愛していたかが、理屈ではなく体でわかるのである。


参観にも応援にも行かず、宿題も見てやらず、家事もせず、作業に没頭する私を見守ってくれた家族に感謝する。
遅々として進まぬ訳稿を辛抱強く待ってくださった編集部の皆さんに感謝申し上げる。
そして晴れの日も雨の日も励まし続けてくださったM・Mさんに心から御礼申し上げる。

応援してくれた友達、みんなにありがとう。
もうすぐ本がお目見えします。

(再掲。笑)
http://www.maar.com/books/01/ISBN978-4-8373-0172-1/index.html