「和解」? 喜ぶべきことなのか 水俣(1)2010/03/29 18:26:59

報道でご存じの方も多いだろうが、水俣病訴訟における和解が初めて成立した。わたしは裁判ごとに疎いので、「和解」と「妥協」と「譲歩」の違いがわからない。原告の患者会の主張が大きく認められての和解なら喜ぶべきなのだろうが。

藤原書店の『環』という季刊誌を創刊からずっと購読してきたが、この冬号で40号に達した。つまり10年購読してきたことになる。これを機に、更新をやめた。理由は、ちまちまといろいろあるが、大きな理由の一つは、自分の中でひと通り水俣病に関するおさらいが済んだような気になったからである。『環』の購読はいわば、わたしにとっては水俣病との偶然の再会だった。『環』には創刊号から石牟礼道子の句が掲載されていて、忘れてしまっていたこの公害という名の社会犯罪についての再勉強へとわたしを駆り立てたのだ。ウチには石牟礼道子の文庫本『苦海浄土』があった。根気がなくて読まずに放置していたその本を再読し(とはいえ、ちっとも前に進めなかったが)、関連図書を少しずつ渉猟(図書館で、だけど)しながら、わずかずつでも水俣病にかんする知識をもう少し深めようと努めてきた。
わたしにとって水俣病は遠い地で起こった可哀想な出来事だった。自分の住む街は自然には乏しいが、その一方で公害とも無縁だった。幼少の頃は水俣病という言葉が連日ブラウン管や新聞紙上を賑わしてもいたし、小学校の社会科の授業にも用語として出てきたように記憶している。ただ、わたしたちは、事実の重大さは何もわかっていなかった。チッソという会社が毒を海に流したせいで奇形児がたくさん生まれた、という程度のもので、無遠慮で礼儀知らずで口の悪い小学生は、級友と悪口の応酬をする際に「チッソ」などという言葉を使って相手を罵ったりした。しかし、そんな「流行」はすぐに廃れる。報道されなければ、水俣病は、遠方にいる者にとっては、たんなる時事用語、歴史用語でしかなかった。

『環』における石牟礼道子の句はいつも水俣を詠んでいる。毎号、鶴見和子の短歌と石牟礼道子の句が掲載されたが、どちらかというと政治に斬り込むタイプの鶴見和子の歌のほうがわたしは好きであった。というよりも、石牟礼道子の句は、その5・7・5が背負わされているものが大き過ぎるように思えて、正視できなかったといっていい。

『環』を定期購読して五年くらい経った頃、水俣病認定50周年とやらで大特集が組まれた。この年、同様に50年を記念した多くの図書が刊行されたようだ。それらを一望して見えたのは「終わっていない」という事実だった。

水俣病は「問題」や「訴訟」といった熟語とくっつけて呼称される以前に、チッソという一企業が起こした犯罪であり、県や国はその共犯なのである。50年以上経ってしまって、このことを当事者も傍観者もみな、忘れてしまっている。


《水俣病問題への取り組みについて
水俣病問題は、当社が起こしました極めて残念な、不本意な事件であり、これにより認定患者の方々はもとより、地域社会に対しましても大変なご迷惑をおかけしており、衷心よりお詫び申し上げます。》

「お詫び」しているように見えて、実は、「認定患者」以外は患者とは認めないし、補償の対象でもないし、詫びる必要はないとの思惑が見える。

《当社は、これまで認定患者の方々に対しましては、1973年の協定により継続的に補償を実行しており、非認定者の方々(公的機関により水俣病患者ではないとされた方及び審査の結論が出ていない方)に対しましては、1996年の全面解決策による和解にて解決を図りました。しかし、その後2004年10月の関西訴訟最高裁判決の後、新たな訴訟や認定申請者が急増するなど水俣病紛争が再燃し、混迷の度を深めております。》

「水俣病紛争が再燃」だなんて、まるでよそごとみたいな口ぶりだ。誰かさんが責任をいつまで経っても認めてこなかったから水俣と社会が「混迷の度を深めて」いるのに、自分たちばかりが困っているような書きかたである。

《2007年には、この紛争の解決を図るため、与党水俣病問題に関するプロジェクトチームによる新たな救済案(以下PT案と称します)が示され、本年3月に到り、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法案」が衆議院に提出され、7月8日に国会で成立しました。》

「紛争の解決」だなんて、……(以下同文!!!)

《当社といたしましては、これまでも自らその責任を重く受け止め、被害者の方への補償と地域貢献を会社の最重要課題として取組んでまいりました。今後もこの方針は変わりません。》

よくゆーよ。

《水俣病問題をご理解いただくために、これまで当社が、患者補償にいかに真剣に取組んで来たかについてのご説明をさせていただきます。》

だから「水俣病問題」じゃなくて「当社の犯罪」でしょ?

以上はチッソのウエブサイトからのコピペである。
このあと、補償協定の成立とか、融資の開始とか項目が並び、これみよがしな金額が並べられている。
それらは「あたしたちさあ、こんなに身銭切ってんのよ、ちょっとは憐れんでくれたらどうなのよ」みたいな、万引きや喫煙を見咎められ開き直った不良少女の言い訳じみたものを感じる。

《この頃には、認定患者は、出尽くした状勢となり、残された会社の責任は、生存者に対する継続補償と公的融資の返済に絞られる筈でした。しかしながら、当社には、第三次訴訟という大きな問題が残されていました。》

「出尽くした状勢」だなんて、言葉に気をつけなさいよアンタ。
このあと第三次訴訟について、まるで社会科の副読本のような第三者視点の記述が続く。

《水俣病に係わる紛争を将来に向かって全面的に解決しようという潮流が生まれました。》

チッソさん、お宅の犯罪なんだけど?

《当社としましては、因果関係が立証されていない、しかも、どれ程多数に上るかわからない対象者に対する支払いを約束することは、本来できるものではないと考えていましたが、もし、この機会に水俣病補償の問題が本当に全面的に解決するならば、それは何よりも有難いことであり、この機を逸しては再びチャンスが訪れるかどうかわからないと考え、思い切ってこの解決案を受入れる決断をしました。》

ほんとにえらかったね。なでなで。
と、こんなふうに一語一句噛みつくように読むなんてわたしくらいのもんだろうなと思っていたが、ウィキペディアにもこんな注釈が示されていた。

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チッソ株式会社は同社ウェブサイトの「水俣病問題への取り組みについて」と題するページにおいて、新救済策受入拒否の理由を説明していた。「1.これまでの経緯について 1)補償協定の成立」の項では、1973年7月に患者各派との間に締結された協定について「その成立過程においては、一部の派との間に極めて苛烈な交渉が行われました。それは、多数の暴力的支援者の座り込みによる会場封鎖の下で、威圧的言動や行動により応諾を迫られ、果ては社長以下の会社代表が88時間にわたり監禁状態に置かれるなど、交渉と言うにはほど遠いものでありました。そればかりか、多くの社員が警備中や出勤途上でしばしば暴行を受け、けが人が絶えない有様でした。」と述べるなど、これまでの補償すら同社にとっては不当あるいは過大なものであったかのような説明となっていた。なお上記の記述は、2010年3月現在「この補償協定の成立過程におきましては、大半の会派とは話し合いでの決着を図りましたが、一部の派との交渉は、多数の過激な支援者の座り込みのもとで、威圧的言動や行動により応諾を迫られ、一時は社長以下の会社代表が88時間にわたり監禁状態に置かれるなど、極めて苛烈なものとなり、さらには従業員が暴行を受けることもありました。」と変更されている。
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ハンナ・アーレントがナチスを「悪の陳腐さ」と形容したが、チッソの企業意識も思考回路も躯体構造にもこの言葉がぴったりだ。ナチスはそのトップに殺意と目的があったが、チッソにはなかった。だから「わざとじゃないもんね、だから悪くないもんね」といっている。相変わらずいっている。シラを切りとおして半世紀。ナチスより劣悪である。

「和解」は喜ぶべきことなのか?