「和解」? 喜ぶべきことなのか 水俣(1)2010/03/29 18:26:59

報道でご存じの方も多いだろうが、水俣病訴訟における和解が初めて成立した。わたしは裁判ごとに疎いので、「和解」と「妥協」と「譲歩」の違いがわからない。原告の患者会の主張が大きく認められての和解なら喜ぶべきなのだろうが。

藤原書店の『環』という季刊誌を創刊からずっと購読してきたが、この冬号で40号に達した。つまり10年購読してきたことになる。これを機に、更新をやめた。理由は、ちまちまといろいろあるが、大きな理由の一つは、自分の中でひと通り水俣病に関するおさらいが済んだような気になったからである。『環』の購読はいわば、わたしにとっては水俣病との偶然の再会だった。『環』には創刊号から石牟礼道子の句が掲載されていて、忘れてしまっていたこの公害という名の社会犯罪についての再勉強へとわたしを駆り立てたのだ。ウチには石牟礼道子の文庫本『苦海浄土』があった。根気がなくて読まずに放置していたその本を再読し(とはいえ、ちっとも前に進めなかったが)、関連図書を少しずつ渉猟(図書館で、だけど)しながら、わずかずつでも水俣病にかんする知識をもう少し深めようと努めてきた。
わたしにとって水俣病は遠い地で起こった可哀想な出来事だった。自分の住む街は自然には乏しいが、その一方で公害とも無縁だった。幼少の頃は水俣病という言葉が連日ブラウン管や新聞紙上を賑わしてもいたし、小学校の社会科の授業にも用語として出てきたように記憶している。ただ、わたしたちは、事実の重大さは何もわかっていなかった。チッソという会社が毒を海に流したせいで奇形児がたくさん生まれた、という程度のもので、無遠慮で礼儀知らずで口の悪い小学生は、級友と悪口の応酬をする際に「チッソ」などという言葉を使って相手を罵ったりした。しかし、そんな「流行」はすぐに廃れる。報道されなければ、水俣病は、遠方にいる者にとっては、たんなる時事用語、歴史用語でしかなかった。

『環』における石牟礼道子の句はいつも水俣を詠んでいる。毎号、鶴見和子の短歌と石牟礼道子の句が掲載されたが、どちらかというと政治に斬り込むタイプの鶴見和子の歌のほうがわたしは好きであった。というよりも、石牟礼道子の句は、その5・7・5が背負わされているものが大き過ぎるように思えて、正視できなかったといっていい。

『環』を定期購読して五年くらい経った頃、水俣病認定50周年とやらで大特集が組まれた。この年、同様に50年を記念した多くの図書が刊行されたようだ。それらを一望して見えたのは「終わっていない」という事実だった。

水俣病は「問題」や「訴訟」といった熟語とくっつけて呼称される以前に、チッソという一企業が起こした犯罪であり、県や国はその共犯なのである。50年以上経ってしまって、このことを当事者も傍観者もみな、忘れてしまっている。


《水俣病問題への取り組みについて
水俣病問題は、当社が起こしました極めて残念な、不本意な事件であり、これにより認定患者の方々はもとより、地域社会に対しましても大変なご迷惑をおかけしており、衷心よりお詫び申し上げます。》

「お詫び」しているように見えて、実は、「認定患者」以外は患者とは認めないし、補償の対象でもないし、詫びる必要はないとの思惑が見える。

《当社は、これまで認定患者の方々に対しましては、1973年の協定により継続的に補償を実行しており、非認定者の方々(公的機関により水俣病患者ではないとされた方及び審査の結論が出ていない方)に対しましては、1996年の全面解決策による和解にて解決を図りました。しかし、その後2004年10月の関西訴訟最高裁判決の後、新たな訴訟や認定申請者が急増するなど水俣病紛争が再燃し、混迷の度を深めております。》

「水俣病紛争が再燃」だなんて、まるでよそごとみたいな口ぶりだ。誰かさんが責任をいつまで経っても認めてこなかったから水俣と社会が「混迷の度を深めて」いるのに、自分たちばかりが困っているような書きかたである。

《2007年には、この紛争の解決を図るため、与党水俣病問題に関するプロジェクトチームによる新たな救済案(以下PT案と称します)が示され、本年3月に到り、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法案」が衆議院に提出され、7月8日に国会で成立しました。》

「紛争の解決」だなんて、……(以下同文!!!)

《当社といたしましては、これまでも自らその責任を重く受け止め、被害者の方への補償と地域貢献を会社の最重要課題として取組んでまいりました。今後もこの方針は変わりません。》

よくゆーよ。

《水俣病問題をご理解いただくために、これまで当社が、患者補償にいかに真剣に取組んで来たかについてのご説明をさせていただきます。》

だから「水俣病問題」じゃなくて「当社の犯罪」でしょ?

以上はチッソのウエブサイトからのコピペである。
このあと、補償協定の成立とか、融資の開始とか項目が並び、これみよがしな金額が並べられている。
それらは「あたしたちさあ、こんなに身銭切ってんのよ、ちょっとは憐れんでくれたらどうなのよ」みたいな、万引きや喫煙を見咎められ開き直った不良少女の言い訳じみたものを感じる。

《この頃には、認定患者は、出尽くした状勢となり、残された会社の責任は、生存者に対する継続補償と公的融資の返済に絞られる筈でした。しかしながら、当社には、第三次訴訟という大きな問題が残されていました。》

「出尽くした状勢」だなんて、言葉に気をつけなさいよアンタ。
このあと第三次訴訟について、まるで社会科の副読本のような第三者視点の記述が続く。

《水俣病に係わる紛争を将来に向かって全面的に解決しようという潮流が生まれました。》

チッソさん、お宅の犯罪なんだけど?

《当社としましては、因果関係が立証されていない、しかも、どれ程多数に上るかわからない対象者に対する支払いを約束することは、本来できるものではないと考えていましたが、もし、この機会に水俣病補償の問題が本当に全面的に解決するならば、それは何よりも有難いことであり、この機を逸しては再びチャンスが訪れるかどうかわからないと考え、思い切ってこの解決案を受入れる決断をしました。》

ほんとにえらかったね。なでなで。
と、こんなふうに一語一句噛みつくように読むなんてわたしくらいのもんだろうなと思っていたが、ウィキペディアにもこんな注釈が示されていた。

************************
チッソ株式会社は同社ウェブサイトの「水俣病問題への取り組みについて」と題するページにおいて、新救済策受入拒否の理由を説明していた。「1.これまでの経緯について 1)補償協定の成立」の項では、1973年7月に患者各派との間に締結された協定について「その成立過程においては、一部の派との間に極めて苛烈な交渉が行われました。それは、多数の暴力的支援者の座り込みによる会場封鎖の下で、威圧的言動や行動により応諾を迫られ、果ては社長以下の会社代表が88時間にわたり監禁状態に置かれるなど、交渉と言うにはほど遠いものでありました。そればかりか、多くの社員が警備中や出勤途上でしばしば暴行を受け、けが人が絶えない有様でした。」と述べるなど、これまでの補償すら同社にとっては不当あるいは過大なものであったかのような説明となっていた。なお上記の記述は、2010年3月現在「この補償協定の成立過程におきましては、大半の会派とは話し合いでの決着を図りましたが、一部の派との交渉は、多数の過激な支援者の座り込みのもとで、威圧的言動や行動により応諾を迫られ、一時は社長以下の会社代表が88時間にわたり監禁状態に置かれるなど、極めて苛烈なものとなり、さらには従業員が暴行を受けることもありました。」と変更されている。
***********************

ハンナ・アーレントがナチスを「悪の陳腐さ」と形容したが、チッソの企業意識も思考回路も躯体構造にもこの言葉がぴったりだ。ナチスはそのトップに殺意と目的があったが、チッソにはなかった。だから「わざとじゃないもんね、だから悪くないもんね」といっている。相変わらずいっている。シラを切りとおして半世紀。ナチスより劣悪である。

「和解」は喜ぶべきことなのか?

コメント

_ 儚い預言者 ― 2010/03/30 15:31:19

 文明の終焉として、あからさまな夢の開示を直視しないというのは、滅びゆく運命を知らない顔して、利害の世界のシステムに飲み込まれ、ただ自分は罪を犯していないという、影響力がどれだけであるかというものの価値観が、浅墓であると気づかず、真剣に今までに為した事を振り返らず、持続発展という自然の多重性に、何の意義と重要性をもたせず、自分の価値観の完全なる不完全性を省みない。生きていく土台であり、基礎である自然をぞんざいに扱いながら、自分に還って来た時だけに問題とする。

 見渡せば見渡すほど危急性がある問題を、半世紀に亘る問題の終焉に解決を見出すほど、自然に和解はない。

 人よ、いのちを感じれ。

_ おさか ― 2010/03/30 16:22:05

私はチッソになんの関連も義理もありませんし、水俣病に関しても気の毒なことだとは思いますが、身近に感じたことは正直一度もないです。そういう無責任な立場だということを前提におきつつあえて申し上げます。

えーと、まずチッソ側の文面ですが、私にはそれほど不誠実な文章には思えませんでした。逆に、「もっと言いたいことがあるだろうに極力それを抑えている」ような感さえ受けました。
最後の
>もし、この機会に水俣病補償の問題が本当に全面的に解決するならば、それは何よりも有難いことであり、この機を逸しては再びチャンスが訪れるかどうかわからないと考え、思い切ってこの解決案を受入れる決断をしました。》
この下りなんか結構悲痛な感じですよ。よっぽどいろいろあったんでしょうなあ。

でね、ウィキの記述も、ちょっと偏ってる気がするんですよ。だって
>これまでの補償すら同社にとっては不当あるいは過大なものであったかのような説明
これ完全に編集した人の推測でしょ? 私にはそんな説明には思えませんでしたよ。さっきから私の頭の中には「プロ市民」という言葉がちらついて仕方がないんです。沖縄に沢山いるような類の。

繰り返しますが私はチッソにはなんの義理もありません、不作為にしろ、メチル水銀を垂れ流したことは事実であるし、その後の対応が遅いうえに誤ったものであったことも否定しません。時間的にも地域的にも、長いスパンで責任を取るべきだとも思います。

だけどナチスと同等にするのは言い過ぎですよ、いくらなんでも。
「知らなかったから無罪」なんてどっかの首相はそう言ってますが、チッソはそうは言ってないでしょ。企業として、一応できることはやってる気がしますよ。「認定」を誰がしているのか(国ですかね?)にもよりますが、企業として存続していくためにある程度の線引きは仕方ないことではないですか? ゴネれば補償金がいつでも貰える、というふうにしたら一企業なんかすぐ潰れます。

逆に、ここまで大きな社会問題を引き起こした企業であるにも関わらず、今の今まで地元から追い出されもせず、存続していっていることが、ある程度の答えではないですかね。誰にとってもひどい極悪非道な会社であれば、さすがにいろんな人が死力を尽くしてつぶしにかかると思います。

それより私は新聞でみた、今になって患者認定を訴えた80代のお婆ちゃんという人が気になる。このお婆ちゃんは、本当に今の今までずっと、チッソに対して不満をもち、憤懣やるかたない日々を過ごしていたんだろうか? もうゆっくり静かに余生を送るつもりだったお婆ちゃんが、誰かに「あなたの人生はチッソによって悪いものにされていたんだよ」と吹き込まれて、波立てなくていいところをかき回されているんじゃないのか?
今になって、「あなたにはもっと良い人生があったはず=チッソによって悪くされた」とか言われても、どうしようもないじゃありませんか。やり直す時間も体力もない人の、ささやかな余生を憎しみで埋めるようなやり方は、私はまったく賛成できないんです。

_ midi ― 2010/03/30 18:43:38

レギュラーメンバーの皆さん(笑)、毎度ご来訪ありがとうございます。

預言者さま
はい、失われた命は戻りません。失われた海も。

おさかさん
もっといろいろ言いたいことがある、それを極力抑えている、それは感じられたとおりですよ。いっぱい言いたいことあると思う。現在主力社員の人たちは、たとえば私たちが植民地支配のことでアジア諸国からやいやい言われて「なんでよ」と思うのと同じで、「もう、いったいいつまで水俣の人の面倒見なくちゃなんないのよ」と思ってるに違いないです。それを言わずに、ただごめんなさいと言い続けなければいけない。しんどいことだろうと思います。でも、それは日本が中・台・半島とアジアに対してごめんねをいくら言ってるつもりになっても受け容れてもらえないのと同じで、チッソがいくら誠実に振る舞っても不十分なんです。

おさかさんの正直なコメントは日本人大多数の声を代表していると思います。いいんです、あたしはいつも少数派ですから(笑)。でもねえ、騒ぐ奴がいないと風化しちゃうというか関心もたれないと思うもんで。

ナチスと同じだと思うのは、その行為が組織的に行われたとかそういうことではなくて、結果的にジェノサイドだったということです。海の汚染、海の生物を食べていた鳥や猫など他生物の死滅、漁民の中毒死。もちろん、人間が何百万人も殺されたわけではありませんけれど。環境は激変しました。

ナチスよりもある意味ひどいと思うのは、ナチスという組織がヒトラー信仰に支えられて狂気に走ったといえなくもないのに比べて、チッソはごくまともな企業体であったということです。それだけに、「原因はウチの水銀」とわかっていながら(社内実験もしてるんですよ)何年も放置した罪は、「あいつが憎いぞー殺してやるー」といって標的を殺すことに比しても、すごくすごく重いと私は思うのです。

水俣では、主に沿岸の漁民が水銀中毒の被害に遭いましたが、むしろ町はチッソのおかげで繁栄してきたので、水俣市民は当初、明快にチッソの味方をしました。沿岸部住民はどちらかというともともと都市部住民に差別されていたので、「自分らの流行り病をチッソのせいにして」と漁民を白眼視した市民が多かったんです。

チッソは水俣に必要だったし、日本の工業発展にとって必要な工場でした。それに水銀中毒患者の補償をするためにも、工場を存続させて稼がせないといけないし。県や国はチッソを潰すわけにはいかなかった。チッソの普通の社員さんたちは、もうやだって逃げたかったかもしれませんね。

チッソが裁判に負けて補償を始めたのはようやく1973年です。が、56年にはすでに、のちに水俣病と呼ばれる中毒症状での死亡者が続出してます。当時の新日本窒素(現チッソ)附属病院の医師は翌年、港湾汚染による可能性を報告したんです。その時点で、たとえ一時的でも、すぐに垂れ流しを止めて検証していれば被害は拡大せずに済んだと思います。でも、日本の発展を担う工場だったから、時代は稼動停止を拒絶したんでしょうね。ほんとに私たちが失ったものって、大きい。

言及されている80代のおばあちゃんについては、きちんと調べていないのでこの方の心情についてはわかんないんですが、2004年の最高裁判決では患者と認定された人なのに、県や国が補償の対象としてこなかった人、であるようです。
彼女がもしも、50年前から、つまり30代からずっと、よくわからない手足の痺れや視力聴力低下などに少しずつ少しずつ悩まされ続けて、でも他の人のように重症じゃないから何も言えずにいた、という可能性もあるし。この年頃の婦人たちには、わが子を胎児性水俣病で亡くした、または障害者として育て、いまだに介護を続けているうえに、自分も軽度の中毒症状がずっとある、というケースが多いのです。たしかに、「もうええわ」と思い始めた人を叩き起こす必要はなかったでしょうけど、「もうええわ」とは思っていなかったかもしれないでしょ?

_ おさか ― 2010/03/30 22:52:52

真面目な議論は久しぶりなので緊張してます(笑

でもでもね。

>、「もう、いったいいつまで水俣の人の面倒見なくちゃなんないのよ」
いやいやいや、それ違うと思いますよ。おそらく、被害を受けた方々がひとりでもご存命のうちは、粛々と補償していくんですよ、企業の責任において。そこに疑問を挟む余地は、特に社員であればないと思う。記事だけではわかりませんが、「同じ人にいつまでも謝らなければならない」ことではなく、「新たにわれもわれもと出てくる」ことに辟易しているのだと推測します。

>因果関係が立証されていない、しかも、どれ程多数に上るかわからない対象者に対する支払いを約束することは、本来できるものではないと考えていましたが

何でもかんでも補償しろというのを受け入れるわけにはいかない、下手したら会社が潰れてしまう、そうしたら全員救済は不可能になってしまうではないか、そこまでは出来ない……という主張はしごく真っ当です。
気になるのは被害者側に「派」があることですよね。チッソは交渉を拒否していたわけではなく、お互い穏健な話し合いを続けていた「派」もあれば、暴力に訴え、直接の関係がない一般社員に危害を加える「派」もいた。ここに問題の核心がある気がします。

日常生活に支障をきたすかきたさないか、ぎりぎりの線での「症状」であれば、水銀中毒であるという証明は難しいように思います。こういう補償問題が起こると必ず、言葉は悪いですが「たかり」にくる人間はいます。もしくは企業を潰すことを目的とした運動家であったり、団体であったり。

可能な限り科学的な判定に基づいた「線引き」は必要なんです。公平さを保とうとすれば、一定の基準を用いるしかないんですから。
ただ今回のお婆ちゃんは、本当に厳しい生活をしいられた人なのかもしれない。年をとってから異常が出てきたのかもしれないし、裁判で認められたというのはそれなりに理由があったんでしょう。そういう「グレーラインの人」をも補償対象として認めた、という今回の「和解」は、かなりぎりぎりの線引きですよ。年次と地域で区切って、その範囲内は全員、大雑把にいえばこういうことなので。これ以上やりようがないと思います。

>、「原因はウチの水銀」とわかっていながら(社内実験もしてるんですよ)何年も放置した罪は、「あいつが憎いぞー殺してやるー」といって標的を殺すことに比しても、すごくすごく重いと私は思うのです。

いやいやそれは結果論というものでしょう。
当時は公害という言葉もなく、当然公害法なるものもなく、情報も少なかった。因果関係がはっきりとわかるまでかなりの時間がかかったのも、もちろん臭い物に蓋とか経済優先とか、間違いを認めたくないとか、愚かな理由もあったことでしょうが、当時の状況としてはどうにも出来なかった部分もあるのではないでしょうか。現在なら疑いが出たところで即対処するでしょうが、それと比べるのは酷に過ぎます。後出しジャンケンなら誰でも勝てるんですから。

とりあえずチッソは解明されたあとも逃げなかった。移転するなり社名を大きく変えるなり、逃げる方法はいくらもあっただろうに、それをせず地元の一企業であり続けた。私は逆に見直しましたよ、チッソという企業を。まだまだ足りないのかもしれないけど、努力は認めてもいいのでは。

それともう一つ。
私の故郷はご存知の通り和紙工場が多くあるところですが(だいぶ減りましたが)、確か小学生の頃は、工場からの排水で川がかなり汚れていました。ほとんどそのまんま流していましたから、紙の原質がいたるところに引っかかっていました。通学路にある化学工場からは毎日、刺激臭のする色水が流れてました。

今では川は綺麗です。原質が引っかかっていることはなくなりました。化学工場もまだありますが、色水は流れていません。臭いもしません。
日本は工業化の道を選んだことでいろんなことを失った。いろいろ間違った。それは確かですが、一連の公害問題を経験したことで学んだことも多い。日本全国津々浦々、私の故郷のような片田舎ですら、公害対策はしっかりと普及しているという現実。日本の企業は大きくても小さくても、まだまだ捨てたものではないですよ。

だから絶対にナチスより酷い、ということはありえません。過ちを犯したことを認め、償おうとしている。確かにその過ちは取り返しのつかない悲惨な結果をもたらしましたが、すくなくとも無視はしていないし、いっそ被害者を全員抹殺してしまおうと画策した、わけでもない。

日本国にしても「国策として」どこかの民族を殲滅しようとしたことはありません。
アジアの一部の国の謝罪要求、あれは完全に政治的なカードのひとつです。法的な賠償は済んでいます。だいたい「お前がいうな!」ですよ。自分の国のやってること棚に上げすぎ。

_ midi ― 2010/03/31 01:27:24

おさかさん、夜遅くまでありがとう!

チッソさんのサイトの文言の重箱隅つつきは自分自身への挑発のつもりもありました。水俣病にかんするおさらいの過程で、自分が初めてこのページを読んだときにどう感じたかを、書き留めておく必要があると思ったのです。サイトは更新されてすっかり変貌してしまうかもしれないし。 それと、エントリの冒頭に書いたように訴訟のことはよくわかっていません。和解がいいのかどうなのかも。まだ終わってない訴訟もあるみたいだし。

おさかさんが企業としてのチッソの姿勢を評価するのはとても正当なことだと思います。誰よりも地元の住民が評価しているからこそ、今も共存しているんです。凄いことだと思います。現実にチッソは今も先端技術を誇るエコロジー意識も高い模範的な企業として名前が挙がると言います。めちゃくちゃやった後で、並大抵の企業努力では達成できなかったと思います。たいしたもんです。イヤミじゃなくて。(そんなふうに日本企業がエクセレントだから食糧自給率が下がるんですよ)

>「新たにわれもわれもと出てくる」ことに辟易している まさにそうなんです。そのことが言いたかったの。昔水俣に住んでいたと言えばいいと思ってまったくどいつもこいつも……て感じ? 線引きが必要なのはそのとおりで、私はそのことに憤ってはいません。

言葉は難しいなと思いました。
おさかさんは誠意を感じるといい、私は感じられないと思う。
それはたぶん、水俣への関心の違いからも来ていると思うし、おさかさん、私がそれぞれもっている言葉というものへの感度の違いもあると思います。

チッソが「水俣病問題への取り組みについて」と題したページで経緯の詳細を克明に記していること自体は企業姿勢として評価されていいと思います。ただ、私にはやはり決定的に何かが欠けているように感じられてならない。ページの作成者はかつて渦中にあった人たちではないから、冷静な他人事のような体裁になるのもしかたないかもしれない。このページ、私には「このように頑張って事後処理をしています偉いでしょ」としか読めないんです。それでいいじゃないですか、とおっしゃる方もおられるかもしれません。しかし、「われわれは重大な罪を犯しました、これからも償い続けて参ります」という意思表示が必要です。意思表示してるじゃないか、という人もあるかもしれません。でも、私にはどうしても、その意思が読み取れないのです。贖罪の意思が。
だから、もうちょっとだけ、工夫が欲しいと思ったんですよ、書き方に。これじゃダメだと。コピーライターとしてはね。

ナチスを引き合いに出したのは軽率でしたか。ここ2年ほどアーレントと格闘しているんですけど、彼女の分析が、患者発生当時の日窒の幹部の態度にぴったり嵌ったんです。でも文献はいま手許にはない(図書館にある。笑)ので「悪の陳腐さ」しか出してこれなかったのだー。

ナチスのように明確な目的に邁進して大虐殺をしたのなら事はもっとシンプルだったのではないか、断罪の対象も明確だから、と思うんです。そうではなく善意の一企業が、アイタッまずいことになったぞ、と自覚しながら策を講じなかったために犠牲者が増えたという事実は、悪意の有無とは無関係に、重大で深刻で残酷で、より罪深いのです。結果的に、県と国という共犯者を呼び寄せてしまったから、被害者に、抗議する相手は誰なのかわからなくさせてしまいました。おっしゃるとおり結果論です。ただ、当事者がその事実=自分たちが種をまいたことを忘れてはいけない。忘れてないでしょう、とおさかさんはおっしゃるかもしれませんが、忘れてますよ、彼らは。だって目の前の「われもわれも」を捌くのに手一杯ですもん。県も、国も、患者ですらも、忘れている。何度でも時間を遡って見つめ直してほしい。ナチスの非業が歴史上からけっして消えないように、「水俣」も歴史から消してはならないと思うんです。

_ midi ― 2010/03/31 01:34:52

蛇足ですが、チッソさんのサイトを初めて見たのはもうずいぶん前です。そのときになんか書いてたらとてもこの程度(の罵詈雑言)では済まなかった、ですね(笑)。何回も読み直して、現在に至ります。私は、チッソさんに、水俣の海全体に謝る気持ちがあるようには見えないです。

_ おさか ― 2010/03/31 09:25:07

おはようございます♪またもや掲示板風に(笑

私別にチッソさんの回し者ではないので、必要以上に擁護するつもりはないですよ。実際に、若い頃はヒデー企業だとか思ってた。教科書にも載ってましたしね、ブラックジャックも言ってたし(苦笑)。社員の全員が素晴らしい人ばかりでもないでしょう。たぶん世間が忘れるのを待っている部分も
きっとあるでしょう。だけどね、この一見冷たいような、客観的な書き方からは、そういう中でも忘れないよう頑張ってる個々人の姿、が透けて見えるんですよ。

個人レベルなら、もっと気の利いた言葉を選ぶこともできたんでしょうけど、企業ですからね。変な話、あまり下手に出ると(=謝罪の意を強くしすぎると)「われもわれも」の間口を広げてしまうし、もしかしたら社内が分裂することにも繋がるかもしれない。
考え方も立場もさまざまな人たちの集合体である企業ならば、どこかでけじめをつけるというか、「会社として」の考え方・立場をまとめなければならない。そしてそれは客観的な態度で論理的に行わないといけない。他人事のように思える書き方で正解です。

「日本が戦中にやったこと」もしかりじゃないですか。謝罪を繰り返しているうちに、その都市の人口をうわまわる人数が殺されただの、自分の意志で残ったのに強制だっただの、捏造され放題です。まったくこの国ときたら…ああこんな話を始めたら一晩かかる(笑)。

埋もれさせるかどうかは、マスコミの責任も大きいんじゃないですか? 煽るだけ煽っといてあと知らんぷり、フォローなしとか、今までどれだけやってきたか。それこそ他人事ですよ奴らは。個人的には、日本企業より日本マスコミのほうが断然信用ならないですね。

_ midi ― 2010/03/31 14:04:14

おさかさん、根気よくお付き合い、ありがとう!

>忘れないよう頑張ってる個々人の姿、が透けて見えるんですよ。

そうですかー。見えるんですね。
見える人がいるということは、いいことだと素直に思います。それはチッソの努力の成果ではなく、見える人の目には曇り(先入観、偏見)がないからです。
私はたぶん、水俣に入れ込みすぎて目が曇っているのでしょうね。

おさかさんのこと、すごいなと思いました。
真面目にチッソの側からはっきりと正当性を主張する人を初めて見ました。その主張の内容は多くの人が共有することながら、なかなか口に出して言えません。「チッソだって誠意を見せている」とか「努力は認めてあげよう」とか。下手にそんなこと口にしたら誰に後ろから殴られるかわかったもんじゃありませんよ、世が世なら。

でも、報道や一般人の意見としてそういう論調がもっと展開されたら、逆にチッソはもっと贖罪の意思を前面に押し出せるのではないかと思いますね。
今は水俣に関して言えばチッソは100%悪というのが基本・原則で、議論弁明の余地なしって感じですもんね(現にそう思っている人間がここにいるしね。笑)、どんなにまっすぐであってもひねくれるよね。

と、いうわけで、第一弾としては、石投げてよかったーという気分です。第二弾のエントリ時期は未定ですが、水俣再勉強のきっかけになった『環』の記事をネタにします~。

_ おさか ― 2010/03/31 18:32:37

私はまがりなりにも自営業の家に生まれたのでこういう思考になるのかもしれません(汗)ともあれ面白かったです、ありがとうございました♪

仰る通り関係ないから言えることではあるんですよね。当事者はもちろん、実際に被害者の惨状を目の当たりにしていたら、到底「企業の論理」なんか受け入れる気にならないでしょう。
責任のない立場で、なおかつローカルな場(すみません 笑)であるから言える意見かもですね。

次の記事、楽しみにしてまーす♪

_ midi ― 2010/03/31 20:45:55

おさかさん

生まれ育った環境って思考に影響及ぼしますよね。しかもそれは歳をとるごとに顕著になっていきます。
私も職人の子なので、小さな頃から役所と企業は鳥肌が立ちました(笑)。図体の大きい、四角いものが嫌いです。あ、でも祇園祭の山鉾は好きですよ、四角くて大きいけど(笑)

_ 儚い預言者 ― 2010/04/01 23:14:25

「夜桜」

 微風がひとひら毎に挨拶しながら、星を瞬きさせている。満開の桜に宇宙が狂おしくながら寛いでいた。ある夢のなる夜が一身に纏わり、儚さという限りなき慈しみのとわを奏で出す。
 地と天の境にいのちが祈りの形となって、今享受する形見を永劫にしていた。
 息する共感さえ、この淡いながら濃い沈着した色には相応しいか分からなかった。ただそうであることが、どうして幸せでないのだろうか。そして何か目的があればという想いが、豊饒なる夢を削るのだろうか。
 私には判らない。しかし、現前にある微妙であるが、包み隠されていない真実には、いのちの喜びに象られた美がある。

  ときひとつ
  あいのひびきに
  とわゆめの
  ひとときすぎる
  ふたたびみるや

 試しに濃くした世界は、重さを持ち、不離の宇宙を明らかにしようとする。それは逃れられない矛盾を回避しようとする論理を武器とする理性を産んだのだった。皮肉なことに鬼っ子として共感力をも齎していたのだ。
 ここに推進力という善悪を同時に生み出すエネルギーを得たのだった。

 いつまでいたのだろう。花びらの囁きが風の便りに、そっとひとひら頬を撫ぜた。私はここよと言いたげに。

 桜のいのちが無言の慈しみで宇宙を語り、気配の漂いに微かな香りを伴って、真実を花びらに伝えて舞っていた。

_ midi ― 2010/04/02 10:34:12

おはようございます。預言者さま、いつも見守ってくださってありがとう。今年は夜桜見物、行けませんでした。昨夜のどしゃ降りで、開いた花も散ったでしょうね。

>真実を花びらに伝えて舞っていた。

預言者さまの「真実」とは何ですか? 私の「真実」は「マジメタボってきたよどうしよう」です、いまのとこ。

_ 儚い預言者 ― 2010/04/02 21:39:41

 光と愛です。真実は。えっひおもろない。分かりました裸になりましょう。宇宙は広い、でもこの半固定された現実はことのほか、結晶状態にして真実の在り処を探すという摩訶不思議な世界です。見えるもの、見えないこと全てが真実なのです。では逆に嘘であること、虚であることとは何でしょうか。

 宇宙はひとつ。それが真実であるか嘘であるかは分からないが、いまここに愛という心を持っている。それは疑いのない真実であると。誤魔化して「私」という分離された視点の、一つの中で違って見せることの喜びを得て愛の本質を知るということでしょう。えっひおもろない。分かりました。告白します。私はあなたと京町屋に住みたいと熱望するただの男であります。ただじっと夜桜をあなたと過ごしたいと。

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