週の真ん中、真昼間だというのに(3)2010/04/14 20:35:10

【杖の老紳士と優先座席で、の巻】

湿気を含んだ生温かい空気のせいで、天候のよさが少しも快適に感じられない。花粉症の身には空気は乾いているより湿っているほうがいいけれど、中途半端にジメッとして不快指数を上げてくれるよりは、どしゃ降りの雨のほうがありがたい。そんなことを考えながら、私は疲れきった足を引きずって、駅の改札を這い出るように抜け、バスターミナルへ向かった。

始発駅からだとたいてい車内で座れる。バスに乗るのは15分程度だけど、この間何も思考せず見慣れた車窓の風景に視線を投げるだけでいることがどれほど疲労を回復してくれることだろう。私は乗車ドアが開くと、重い足を、何とかステップまで引き上げて、倒れるように座席に体を沈めた。

夕刻だった。仕事帰りふうの乗客はまだ少ない。これから観光地に向かうような時刻でもない。なのになんだか人が多い。次から次に乗ってきた。あっというまに席は埋まり、吊り革をもつ人が通路にぎっしり。

落とした視線に杖の先が入ってきた。見ていない振りをしてみたが、杖は私のすぐそばで止まった。私は音にならないため息をひとつついて、決死の覚悟で立ち上がった。

「どうぞ」
「お、いや、これは、申し訳ない」

杖をついた老紳士は、英国紳士風の洒落た身なりで、ダークカラーチェックのジャケットに茶系のパンツを合わせ、ワイン色が基調のスカーフを胸元にあしらい、履きこなしているが汚れてはいない革靴を、擦るように前へ進め、ゆっくりだがけっして野暮ったくない動作で空けた席へ座った。

「お疲れなのに、申し訳ないことですね」
「いえ、そんなことないです」

そんなことあるけど、正直私はこの老紳士に見とれていた。かっこいい。歳はこうとりたいもんだね。杖はついているけれど、頭髪は真っ白だけれど、最近の高齢者の皆さんは元気な方はとても若々しいので年齢が読めない。この老紳士も、まるでわからない。70代後半じゃないかと思うんだけど……。そう思いながら、通勤途上でよくすれ違ったある老紳士に思いを馳せていた。朝の散歩なのだろう、杖一本ではとても覚束ないほど弱々しい足取りで、しかし少しずつ、表通りの歩道を歩いていたその人は、いつもダークカラーのチェックの背広に同系色のパンツを合わせ、胸元にスカーフをあしらっていた。中のワイシャツはチラとしか見えないが、細かいストライプだったり、薄いイエローやピンクだったり、ボタンダウンだったり。会うたび、ちょっぴりだけど組み合わせが違っていて、なんてお洒落なおじいさまだろうと感心していた。白髪は肩まで伸びていて、けれどきちんと梳かしつけられていて、眼鏡をかけた顔立ちを美しく縁取っていた。背中は曲がっていたけれど、彼はあの朝の散歩を確かに楽しんでいたと思う。しかし、その老紳士の散歩に出会わなくなってからもう何か月も経つ。おはようございますと声をかけたくてうずうずしていたのに、いつも遅刻ギリギリなもんだからチャリで疾走しているもんだから、知らない人に挨拶する心の余裕なんてないのだ。ただ、あ、今朝も会えたわ素敵なおじいさまと心にビタミンもらったような気持ちになるだけで、ということは一方的に私のほうが得をしていたのだった。なのに、あのおじいさまをもう見ていない。内心穏やかでなかったが、そうは言っても手がかりがないので知る術もない。と、久し振りに散歩のおじいさまを思い出しながら、目の前の座席に座った老紳士を見つめていた。

紳士は両手を杖に置き、車窓を眺めていた。幾度かの停車ののち、降車するバス停が近づいたので私は前へ進んだ。料金箱に小銭を投げ入れて、今度は本当に大きくため息をつきながらステップを降りた。ふと、気配を感じて振り向くと、杖の老紳士がいた。敬老乗車証を運転手に見せて、杖をこつこつさせながら、ステップを降りようとしている。

「危ないですよ、ゆっくり」
私は手を差し伸べた。老紳士は乗車証をポケットに滑り込ませた手を私の右手に預け、
「いや、これはまた、お手数をおかけします」
と、しっかり私の手を掴んで降車した。

「気をつけてお帰りくださいね」
と言い残して立ち去ろうとする私の右手を、杖の老紳士は離そうとしない。
「申し訳なかったですよ、本当に」
「いえいえ、そんなことありませんから」
「お時間、ありませんか。お茶をご馳走します。どうです、一緒に来てください」

不覚にも、私はかなり、ときめいてしまったのだった。

ドキドキドキ……

い、いかんっ

「せっかくですが、まだ仕事中なんです。得意先との約束がありますので、行かないと」
「そうですか、それは失礼をしましたね。残念です」

老紳士は私の手を二、三度握り直したあと、何度も頭を下げてありがとうを言い、立ち去った。私も交差点の信号が変わったので、彼とは反対方向へ歩き出した。得意先とのアポなんて嘘だった。コーヒーご馳走してもらったらよかったかなー。だけどだからって、どうなるもんでもないしなー。どうなるって、どうなんだつーのよ。そんな阿呆な独り言を心の中でつぶやきながら、会社へ向かった。

***

外出の多かった一週間のうち、なんと三度も、70代のおじいちゃまに手を握られるという幸運に見舞われたので、ちょっと珍しいと思い、書き留めました。ご静読(?)ありがとうございました。

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