「書くということ」の崩壊(1)2010/06/12 20:13:33

所感は改めてアップすることにして、まずはほぼ全文を読んでいただく。長くなるけど最後までヨロシク。



『加速する日本語の崩壊
  ——「書く」教育で表現水準の再現を』
書家 石川九楊
京都新聞2010年6月11日(金)刊 11面

(冒頭一段落省略)
 「書」という名詞は「書く」という動詞で裏打ちされている。作者が言葉を書くことと、その言葉の書きぶりを再現的に鑑賞すること—この関係に書の美学は成立する。文字の書きぶり(=スタイル)である書体は、文の書きぶりである文体と密接な関係にある。つまり書は、世で漠然と考えられているような美術、ましてや舞踊ではなく、文学に属するのである。
 日本語では「キカイ」と発音しただけでは、言葉は伝わらない。「奇怪」か「機械」か「機会」か「鬼界」か、文字を思い浮かべて会話する。「文字を話し、文字を聞く」言語だからである。このような文字(=書字)中心言語においては、習字(「文字=語〈ことば〉」とその書法〈かきかた〉を習う)教育が重要かつ必須である。
 英文は語を構成するアルファベットを横につづるが、漢字文では点画や部首を一個所にまといつけるように組み合わせて「文字=語」とする。語の構成法こそ異なるものの、このように漢字の点画は、アルファベットの一文字に相当する。アルファベットを知らずに英文はつづれない。同様に、漢字の点画とその数や長短、構成位置等の規範書法を知らなければ満足な漢字文は書けはしない。そして、活字体は印字用の俗体。書字の規範は、唐代初めの楷書〈かいしょ〉体を基盤とする筆記体にある。
 たとえば、明朝体では、「口」と「日」の第二画は同じように直角にデザインされているが、「口」字では折釘〈せってい〉といって、横筆から転じた縦筆は左下へ進み、「日」では曲尺〈きょくしゃく〉とよんで垂直に下方に進むように書くのが歴史的な綴字〈ていじ〉規範である。
 パソコンとそのネットワークの普及により、やがて書くことは終焉〈しゅうえん〉し、子供たちも画面上で漢字を学習するようになると空想する人もある。だが、筆記具の尖端〈せんたん〉が紙と接触・摩擦・離脱する筆触〈ひっしょく〉—その「手ざわり」「手ごたえ」「手順」—を伴って、意識が言葉へと変わる日常不断の行為なくして、漢字や漢語を身につけ、使いこなすことはできない。書くことが稀薄〈きはく〉になれば、政治、経済、思想、宗教等の表現を担う漢語から日本語は急速に崩壊する。
 一九七〇年代半ばまで「書くことは大切」という社会的な暗黙の合意が広く存在し、家庭でも学校でも社会でも文字に対して口うるさかった。それが壊れた今、日本語の崩壊は加速している。
 (一段落分 中略)
 信じがたいという人は、子供の鉛筆の持ち方をのぞいてみるといい。そこに、書くことを忘れた世界最悪のぞっとするような光景を目撃することになるだろう。今必要なのは、のんきな「ダンス書道」や「漢字遊び」ではなく、鉛筆の持ち方、基本点画の書法に始まる抜本的な書字教育の再建なのだ。



信じがたいという人は、ウチのさなぎの鉛筆の持ち方も見てやっておくれ(泣)世紀末生まれの子どもたちの、文字どおり世も末の恐るべき「書きかたの崩壊ぶり」。それでもヤツは鉛筆、しかも2Bのしか、使わないので許してやってくれ。手紙書きまくり、交換日記回しまくりの古風な中学生なので許してやってくれ。筆記用具を用いて字を書くということのほとんどできない子どもを私は知っている。

キーを叩いているだけにすぎないのに偉そうに「書く」ことを云々する傲慢を自戒する。するけど、続く(笑)。