就寝前の寝言(ん?)2010/10/21 02:33:47

なんつーか……あのひとたちにとって、日系企業の店舗や製品を破壊するとか火をつけるとか(つけてないか?)、日本を鬼と呼んだり滓と言ったり(ゆってないか)するとかいうのは、たぶん年中行事っつーか、お祭りみたいなもんなんだろうなあ。なんであの国にはこっちの岸和田のだんじりや鞍馬の火祭りとか、それになんだっけ、勇壮なお祭り、日本にはたくさんあるじゃん、そういうのがないんだろうね。あるのかな。誰か知ってる? あればきっと、そういう祭りで憂さ晴らしもストレス解消もできるだろうに。ユーチューブで見る限り、デモやってるとか抗議行動をとっているとかいうよりは、やっぱ単なる鬱憤晴らしにしか見えないよね。そこが痛いなあ、あの国も。もうちょっと真剣味があれば双方もう少し真面目に取り組むだろうけどイマイチなもんだから双方ともに「ちっクソガキらめ」みたいな対応しかしないんだろうね。

それにしても、豊かになったんだね。
私が旅した頃のあの国は、ほぼ全員が薄汚れた人民服を着ていた。身なりのいい子は軍服を着ていた。男女とも。女の子は腰の位置が高くて、すらりとしていて、長い髪を固い三つ編みにし、前に赤い星のついた軍帽をかぶって、軍靴をカツカツいわせて道を横断し、友達に会えば「アイヤーッ」と挨拶し、でなければ必ず数歩に一度はかあああーーーーっぺっと道に痰を吐いた。それがエリートの証であるかのように。
人民服の人が少なかったのは唯一広州だけだった。どの町ででも、老若男女問わず、紺かくすんだ緑、カーキの人民服またはそれに準じた型の服を着ていた。広州の人がお洒落だったわけではない。人民服ではなかったというだけだ。
私は当時流行っていただぶだぶシルエットのトレーナーを着て、膝丈のパンツにバッシュといういでたちだったので、誰がどう見ても、現地人には見えなかっただろう。

広州から桂林へ行くバスに乗り合わせた男性が、ぜひウチへ泊まれと言ってくれて、怖いモノ知らずの私と弟は喜んでお世話になった。奥さんとまだ2、3歳の女の子と、本人か奥さんかどっちかのお母さんと一緒に住んでいた。桂林は一大観光地で、観光客が国内各地、それと外国からも来ていた。彼は私たちのために現地人用の遊覧船の切符をとってくれて、自分や奥さんの上着を貸してくれて、話しかけられてもわかんない振りをしろ、あんまり執拗に何かいわれたら自分らは北京の者だといえ、そしたら相手は黙るから大丈夫、外国人とはバレないよと送り出してくれた。同じ方法で、桂林から次の訪問都市への列車の切符もとってくれた。口元にチョビ髭を生やした、そうだな、誰だろう、ああ、あれだ、似ている俳優がいるんだけど名前が出てこないよ。

昆明から成都へ向かう列車の中ではおばちゃん二人連れと座席を乗り合わせ、よくわからないまま私たちはいろいろ根掘り葉掘り聞かれ、泊めてはあげられないけどご飯一緒に食べようということになり、成都での二日めの昼食をおばちゃんたちの家にお世話になった。水餃子だった。それはもうものすごい量で、御馳走になったのは昼飯という設定だったが、夕方まで食べ続けていて、当然ながら晩ご飯は食べなくてもよかったのだった。おばちゃん二人のうちの年配さんのほうに15歳くらいの娘さんがいて、その子が私たち二人を兄さん姉さんと、わずかな時間の間ずっと慕ってくれて、私も弟もいけ好かない姉や弟でなくこんな可愛い妹がいればどんなにか毎日が楽しかろうと思ったもんだった。
若いほうのおばちゃんの旦那さんという人が鉄道員で、成都から次の訪問地までの切符をこれまた家族価格でとってくれたのだった。この人は、若い頃のフォーリーブスの今は亡き青山孝にそっくりだった。

旅は道連れとやらで、ドイツ人の二人組と途中連れ立って旅をした。彼らと一緒に、4人で割り勘すればたいした金額じゃないよということで比較的よいホテルに宿を取った。そのときのフロントのお兄さんは、松尾貴史みたいだったが流暢な英語を駆使し、お客さんがたそんなムチャを言っちゃあいけませんよ、まったくしかたありませんねえ従業員用の折り畳みベッドを一つ入れて四人で一室ということにしてあげましょう、なんて言って、トリプルの部屋に身長2メートル級のドイツ人二人とちっちゃい日本人二人を一緒に泊めてくれたのであった。

私が旅した中国は貧しくて、町も宿も店も清潔とはほど遠かったが、食べるものは素朴でおいしく、人は親切で温かく、子どもは無邪気で屈託なく、若者は好奇心旺盛で人なつこかった。

たぶん今もそれは同じのはずだ。ただ、おそらくは何か捌け口が必要なんだろう、貧富の差が拡大したり、地方都市が荒廃したり、大都市が過密状態になったり、皆が過剰に上を目指すような社会だと、どこかでガス抜きをしないと、なんだかわからないものがわからないまま破裂して、けっきょく弱者が怪我をする。

遠くに住んでいると島々のもつ意味はちっともわからないから、欲しいならくれてやれよといいたくもなるが、そんなこと言ってはいけないのだろう。もし私が毎日その島々の見える町に住んでいて、私の父や近しい人はその島々の方向へ漁に出かける、そんな日々を過ごしたならば、今のような発言はもちろん、20年以上も前のかの国を思い出して郷愁に耽るなんて、しない人間になっていたのだろう。島々に愛着を感じ、島々を侵犯する者たちを許せないと思うのだろう。

さて、寝るとしよう。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2010/10/22 18:49:41

  愛への条件は、無条件だ。幸せに条件を付けると、条件が幸せになり、儚くも空に浮く雲をいつも掴んでいなければならない。

  世の中の不公平さは、何だろうか。幻 想にしては、生々しく、痛く苦しい。しかしその奥を覗くことを人はしない。ただ逃れるか、ただ戦うかだけで、その感じる本体を詮索しない。

  愛は盲目だとよく云われるが、本当にそうだろうか。誰しも愛のフィーリングを知っているのに、それを使おうとはしない。そう無限の事項はエゴにとっては、死ぬことなのだ。自分という存在が無くなると思うからだ。

  対等ということを実感しなければ、世の中の不公平と不幸は、無くならないだろう。
  そう隠した愛の、本当は透明だけれども、辛苦と嘆きで覆った壁と、恐れという条件のエネルギーが世界をそのまま見せているのだ。
  癒しは、かつても今も現存するのに、誰も見向きもしない。それは、愛という無限が、分からないし、エゴの死に等しく思われることは、出来ないからだ。

  この世界の二元性と限界性は、ただ自分が肉体に存在するという条件の枠組みだけである。
  想像には、限界がない。夢もしかり。実質という感覚を持ちたい為に、人間の人間として生まれて来たのかもしれない。
  そろそろ人類の枠組みの意味を深く査証するべき時が来ているようだ。

  全ての人に癒しと愛がそのまま輝きますように。

  あなたのハートにはいつも愛が輝いている。

_ おさか ― 2010/10/22 20:48:49

大きな国で人が沢山いるし、何かを目標にしてないとまとまらないんでしょうね。
土着の文化も宗教もあの国ではかなり壊れてしまっているようだし、確かに鬱憤晴らしはお人好しな日本に対する抵抗だけしかないのかも。

ところで、今日またまた先生関係の文面で見つけました。

「お祝辞」

「おビール」とかと同じやないかい。

「市長様、教育長様」

「部長さんは今でかけてまーす」と同じやないかい。

溜息。

_ midi ― 2010/10/22 23:49:14

こんばんは。
預言者さま。愛は盲目……どっちかいうと恋は盲目といいませんでしたっけ? 愛でしたっけ? どっちでも、いいや。いずれにしろ、盲目ですよ、恋愛は。

おさかさん。
「お祝辞」。ぷぷぷぷぷぷっっっ
困ったちゃんねー。

さっき、保険会社の印刷物を見ていたんだけど、
「ご契約者」
この「ご」は要るんだろうか? 見慣れた表現だし、違和感もほとんどないのだけど、けったいな「お」や「ご」にやたら遭遇するものだから、従来あった表現でも改めて眺めて考え込んでしまう。

同じ保険屋さんのリーフレットに、今月のプレゼントって欄があってさ。

○○社の「XXX」(製品名)を3名様に、□□として使える「ZZZ」(同)、本誌の「★★特集」にご協力いただいている△△社の、「VVVVV」をそれぞれ5名様にさしあげます。


引っかかったのは「ご協力いただいている△△社」。
だって、「ご協力いただいている」って、誰に対して謙譲してるのかなあ……。

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