Il faut bien garder les nœuds d'amour...2011/01/02 19:20:50

『絆つむいで 家族はかけがえがない』
京都新聞社取材班編
京都新聞出版センター(2008年)

「絆を深めよう」ってよくいうでしょ。間違いよ。「絆」はね、深まらないの、強まるもんなの。深まるのは、「溝」よ。間違えないでね。絆は「いとへん」だから、糸とか布とかに類する言葉である。だから、本書が絆を「つむいで」と題しているのは、なかなかイケている。
副題に明らかなように、本書は家族の絆のありようを追ったものである。取材された「家族」の数々は、ほとんどが家族の体をなしていない。「家族の絆」は存在していないのだ。だからその絆をゼロからつくらなければならない。あるいは、建前だけの「太い太い絆」が鉄鎖のように「家」を縛りつけている。それを断ち切らなければ生きていけないと思い込み、家族を捨てる。そんな人もまた絆はゼロからつくらなければならない。糸を紡いで縒るように、絆も「つむいで」つくるのだ。
連載は2006年から2007年にかけて35回にわたって掲載され、新聞読者の大きな反響を呼んだ。私も必ず目を通した。文体があまり、というより全然好きではなかったが、取材されて語られている「家族」の一例一例が凄まじいのと、原則地元住民から取材していたので一部の例を除きほとんど「ご近所さん」に近い人々の話だったので、たいへん身近に感じて毎回読んだものである。
ルポされるのは、虐待、不登校、引きこもり、親への反発、暴力、離婚、再婚、ひとり親、家業の断絶、闘病、介護……など、家族という形態があるばかりに引き起こされる問題ばかりである。ならば家族なんかもって生きるのを止めればいいではないかという議論にはならないのが人間の人間たるゆえんである。人間は弱い生き物であるからして、ひとりでは生きられないのである。血縁家族のない人にも疑似家族が必要なように、みな、家族を必要としているはずである。
たぶんね、「家族」という字面に人はひるむんだな。「家」も「族」も、なんか大げさやもんね。「家族」をうまく維持するには、その字面が意味するほどのタイソーなもんではない、と思うに限る。家族は重いし、ときに鬱陶しいが、なんぼのもんじゃいと思ったっていいもんである。たかが家族である。同じ家に住んでるというだけである。たまたまその腹から出てきたというだけである。家族との関係性に苦悩している人がもしいたら、そんなふうに言ってあげたいね。親のことは選べない。生まれた家も選んだわけじゃない。もうたくさんよ。そんなふうに家を、家族を捨ててしまった人がもしいたら、それでも親がなかったらあなたはいなかったんだよ、と言ってあげたいね。こういうのは理屈じゃないから、ああたしかにそのとおりねと速攻で納得する人はないけれど、理屈じゃないから、血の通った自分の手の体温を確かめるだけで、突然親の存在を思い知ることだってあると思うよ。
私自身は、本書の、取材記事の連載中、こんなにたいへんな思いをしている人がいるんだなあ、ウチなんか恵まれてるほうなんだなあ、と思うこと頻繁であったので、何にせよ、帰る家のあることと親がいることと娘がいることをありがたいと思ったもんである。だって、ひとりは寂しいもんね。若いときは一匹狼を気取ったもんだが、今は、ひとりは嫌なの。親を見送り、娘を独立させたら、誰かと絆、紡がなくっちゃ☆

コメント

_ 儚い預言者 ― 2011/01/03 23:08:20

孤独、淋しさは、錯覚である。誰も皆、愛されている。それを知る為に生きている。魂の故郷で命は永遠であり、皆顔見知りである。
怖れるなかれ。なりようもない事を、唯一創造するのは、怖れであるから。
わたしはあなたをいつも見守っている。心で呼べば、いついかなる時でも、わたしは、あなたを気づき、あなたに愛を送れる。それが心の法則だから。

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