Ca fait quatre mois.2011/07/11 20:24:38

今日は11日。震災から4か月経った。4か月は長いか短いか? 長い。とても、長い。当事者でもないのにこんなこというのは不謹慎かもしれないけれど、毎日とても消耗し、疲弊している。震災のことで消耗するなら関連ニュースを見なければいいじゃないか。遠い場所に住んでんだからそれも不可能じゃないだろ? そりゃそうなんだけど、そうはいかない。直後から、地球の裏側での報道のされ方まで検証する羽目に陥ったし、より正確な記述がほしくてあっちもこっちも、昔の文献まで持ち出したりして、そんなことに大きく時間を割けるはずもないから微々たるもんなんだけど、とにかく、以来、ごくわずかなネタを当ブログでもこぼしているのでご想像いただけると思うが、よたよたへろへろ、ご覧のようなありさまで現在に至る、である。
あの日から、私の身の回りでさえ、些細なことばかりが「塵も積もれば」状態になっているだけにせよ、さまざまなことが激変している。その大きな変わりざまに、かよわいオババゴコロはついていけなくて、家や会社や友人の前で虚勢を張るのが精一杯だ。なんでもないさ、どうってことないわよねえ、だってここは無事だもの離れているものね、心配することは何もない、何もない、何もない……。

つきあいのある営業マンに津波で実家を流されてしまった青年がいるが、虚勢を張っているといえば彼のほうが私の何万倍も張っているだろうに、彼は気丈にいつもと同じ調子でお世話になりますっ次号の取材ですが次の日曜日空いてますかっ……なんて人の休みを潰すアポを入れてくれるんだけど、ダメな私は彼の弾んだ声を聴くとにわかに平常心でいられなくなる。後頭部の底のほうが疼く。といってかける言葉なんか見つからないし、その後の経過なんて尋ねられないし。ここで抱えきれないほどの得意先マターを日々捌かなくてはならない彼、被災地に縁のないほかの多数の人々と同じように振る舞うしかない彼の胸中など、私には米粒ほども解れない。ただ電話を切ったあと、ひどく動揺し心をすり減らしている自分を感じるのみである。……というような、そんなことがいくつもいくつもある。

誰ひとり、この私に、ちょっと聞いてよこんなに辛いのよ、とか、今避難所はこんな状況なんだぞどう思う、とか、何が何でも脱原発だよそう思うだろ、なんて話をする人はいない。誰も、何も、話さない。あの3月11日以降の、呑まれてしまった大地と命、崩れてしまった暮らしの礎、撒かれた毒としか形容しようのない放射能について、語らない。口に出して話すということは、それほど違うのである、ただ書くということとは。
書いている人は山のようにいる。私もそのひとりだし、表現の方法は異なれど、たぶん、書ける環境にある誰もが皆、書いてはいる。誰もが今、ぴゅっとひらめいたこと、カチンと頭にきたこと、うおおっと驚いたことを、口に出さずにツイッターとかいうやつに投稿しているようである。それならできるらしいのである。私はコピー屋のくせに短文でちゃちゃっと何も書けやしないので、ツイッターとは無縁であるが。しかし、ツイートはさんざんするけど口に出して語ることもする人は、稀である。
口に出して話すというのは、テレビかなんかの収録とか、不特定多数に呼びかける講演とかでない限り、普通、相手が居る。相手が要る。そして私が発した言葉は相手を射る。
相手をそのような言葉まみれにするのに、3月11日以降のこの国での出来事は、重すぎるのである。辛すぎるのである。私たちですらこんな体たらくなのに、当事者の方々は、その辛さを、悲しみを、寂しさを、虚脱感を、喪失感を、怒りを、どれほど「言う」「話す」ことのないままに耐えていることだろうか。語れない、吐き出せない、言葉が見つからない、励ましてくれる人、元気づけてくれる人、手伝ってくれる人たちの気持ちがありがたいゆえにぶちまけられないでいる、飲み込んでしまう本音の、いちばん重たいところにある気持ち。
とても申し訳ないけれど、あまりの惨事を経てなお、安全な場所に居る私たちは、自分が生きていることの奇跡を喜ばなくてはならない、との意を強くしている。だからこの命を大事にしよう、不条理な死で心ならずも生に終止符を打った人々の分まで生きよう。その気持ちは強くもっている。けれど、口にするとふわふわと重量感なく飛んでいってしまいそうで声に出して話すことができない。そういった肯定的なことですら、実体を伴えなくて、重みがなくて、根拠がなくて、上滑りする。何を口にしようが私たちは所詮第三者である。そのことをただ思い知らされるだけだから。

わが町には、お隣の県と合わせて合計1000人を超える人たちが、被災地から疎開してきているそうだ。それっぽっちか、と思わなくもないけれど、知らない土地で知らない人の世話になると決意するのは容易なことではない。家を失くしたから、危険だ避難しろといわれたからといって、はいはいと、気候も風土も習慣も違う街で暮らすのは簡単ではない。この滞在が一時的なものか半永久的なものになるのか、決めるのは自分たちでないもどかしさ。
地元紙に、そうした家族の暮らしざまが紹介されている。4~5月は新学期だったこともあり転入者がぐっと増えたようで、その当時は連載欄が設けられていた。いったんそれは終了し、今は、移ってきてもう長い人々を中心に、時折レポートされている。
やりきれなさ、あきらめ、寄せては返す悲しみ、悔しさ、憤り。それでも、今いる土地での暮らしになんとか希望を見出そう、手助けしてくれる人々に感謝しよう。たぶん記事は、読み手である私たちが安心するように書かれている。

兄弟で野球チームに所属していたある男の子ら。チームメイトのなかには亡くなった子もいるし、生き延びた友達とも離れ離れになってしまった。知らない土地へ来て、慣れない学校へ通うけど、相変わらずどう振る舞えばよいかもわからず笑わなくなり沈みきっていた。そんな時、兄のほうのクラスに野球少年がいて、一緒にやろうよと誘ってくれた。新しいユニフォームをもらって、一緒にプレーするうちに友達がいっぱいできた……。
福島第一原発が壊れて強制退去を命じられたある家庭の8歳の子は、テレビから「ゲンパツ」の単語が聞こえるたび反応し体が震えて涙があふれる。どうしてここに無理やり来なくてはならなかったのか、いったいいつ帰れるのか自分の家へ、友達のいるあの町へ。説明できない親に向かって言葉にならない叫びを投げては部屋の隅でうずくまって泣き喚き、やがて泣き疲れてようやく眠る。家族にとって、あまりにも辛い修羅場。ここにいたら生命は安全だとしても、こんなことでやっていけるのか。家族の暮らしは原発に狂わされてしまった……。家族それぞれがカウンセリングを受ける日々をいくつも過ごして、同じような境遇の人にも会い、親も子も、少しは心のよりどころをつかみ始めることができている。故郷へ帰りたい気持ちは今も強いけれど、少しずつ、ここでの新たな絆がかけがえのないものになっている。ここを離れるとき、また心を引きちぎられるような辛い思いをしなくてはならないのだろうか。ただ、今はそのときがくるのがちっとも見えないけれど……。

もしも私だったら? とても打開できやしない、平常心ではいられない、精神に異常をきたすか、全部諦めて投げ出してしまうかしかないだろう、そんな過酷な状況で気丈に生き延びる人たちに、かける言葉なんかあろうはずもなければ、その人たちのことを語るなんてできやしないのである。

私は、それがまるで自分に降りかかった厄災ででもあるかのように、打たれて萎えている。
私は、だけど、コピーライターで、編集者で、アートディレクターで、翻訳者で、母親で、世帯主で、少年補導委員だから、虚勢を張って背筋を伸ばしている。
私は、いつまでこんな状態を続けていくのか。