Les jours heureux2012/09/04 19:12:25


『ハッピーデイズ』
ロラン・グラフ著 工藤妙子訳
角川書店(2008年)


原題の「Les jours heureux」は「幸せな日々」という意味で、したがって「ハッピーデイズ」というのはそのまんま英訳カタカナにしたものである。
「Les jours heureux」は、この小説の舞台となっている老人ホームの名称でもある。
翻訳作業なんぞをしていると、外国語をわが母語に置き換える困難さに辟易すると同時に、日本語という言語の便利さと融通無碍さに救われる。この小説において、主要な舞台である施設名は小説の題名であり、テーマであり、キーワードでもある。「幸せな日々」では明瞭すぎて何も語らなさすぎる。では原題の発音をカタカナに置き換えたら? 「レジュールゾロー」。意味不明(笑)。

で、「ハッピーデイズ」だなんて。なんと。「ハッピー」も「デイズ」もその意味を知らん日本人が存在するだろうか? なんと行き届いたこの国の英語教育。文部科学省万歳。このように、わが母語には普通名詞の顔をした英カタカナ単語が実に生き生きと存在し使用されておるゆえ、原書が仏語だからといって「それ」を利用せずにすます手はないのだ。シャワーだってキッチンだってスパークリングワインだってオレンジジュースだって、いちいち仏語カタカナになんかしないのだ。(ドゥーシュ、キュイジーヌ、ヴァンムース、ジュドロンジュ。意味不明)

というわけで、ハッピーデイズ。ハッピーデイズと書かれた表紙の下にきれいにペイントされたこぢんまりした建物と老人二人の写真。これだけだが、余生の幸福がテーマの話だとわからない日本人がいないわけがなかろう?

だけど、もし私がこの本にタイトルをつけたなら、ハッピーデイズとはせずに、主人公のアントワーヌを前に出しただろう。「僕は十八で墓を買った」とか「老人ホームで暮らすわけ」とか。あるいは「ミレイユ」。ミレイユは入居者の一人で末期がん患者、アントワーヌと心を通わせる老女だ。
出版に至るまでに、こうした案も含め、小説のタイトルにはきっと相当な議論がなされたに違いない。どんな小説でも映画でも、タイトルは生命線だ。その本を書架から、あるいは平積みワゴンから手に取る理由は、申し訳ないが店員の手書きポップではなく、「タイトルに惹かれたから」に尽きる。購買行動を喚起する第一のアイキャッチ。

そういうことから考えると、ハッピーデイズという語は、シンプルすぎて、優しすぎて、目に留めた人の心をわしづかみにするほどのパワーを持たない。持たないからこそ惹かれる人もあるだろうが、一般的にいえばやはりちょっと弱いように思われる。
ただ、何だろ?と思って読みさえすれば、「ハッピーデイズ」の語が幾重にも意味を含み、読者にとってのハッピーデイズの何たるかを問いかけすらしていることがわかって、読後は「ハッピーデイズ」の語が単に優しいだけの小説の題名を超え、心にどすんとのしかかるのを感じる。
ということを考えると、「僕は十八で墓を買った」じゃなくて「ハッピーデイズ」でよかったな、小説よ、と言いたくなる(笑)。

ただし、以上は、かなり好意的にこの小説を読んだ場合である。

正直いうと、違和感を拭えないまま読み進んで読み終えてしまった。奥歯になんか挟まったまんまよ、てところか。

主人公のアントワーヌは18歳にして人生のすべてをもう経験し終えたと悟りこの上は死ぬ準備をするだけだという境地に至る。で、親が貯めてくれた貯金をすべてはたいて墓を買う。
私のような醒めたオバハンは、こういう人物設定に共感したりしないのである。アホかクソ餓鬼と吐き捨てるのである。で、このクソ餓鬼、あとは死ぬのを待つばかりと覚悟を決めたんなら可愛いが、やっぱし恋のひとつも情事のひとつも結婚のひとつも味わってみたくて、素直そうな少女をナンパして恋仲になり結婚し子どもをもうける。全然、人生終わってへんやないのアンタ。子ども産ませたんなら育てなさいよ。と、たしかにアントワーヌは育児に興味を示し、一生懸命になろうとするのだが、要は、このクソ餓鬼、単に飽きっぽいのだ。子どもはけっして親の鏡でも縮小コピーでもなく自分で生きる力があり人生をデザインし切り拓く力のある生き物だとわかると途端に興味を失うのである。おめでたいクソ餓鬼である。そんな折、アントワーヌの名付け親が彼に巨額の遺産を残して死ぬ。一生遊んで暮らせる財産を手にしたアントワーヌは、妻子に別れを宣言し、老人ホーム入居を決める。このとき35歳。老人ホームの名は「ハッピーデイズ」。
小説は、この施設におけるアントワーヌと老人たちの生活を切り取って描写したものである。


ませたクソ餓鬼は、老人ホームの変なオッサンとなって、入居者の老人老女はもちろん、所長はじめ職員、出入り業者、近隣の住民ともうまく折り合いながら、長すぎる余生を幸せに生きている。このように、いっさい生産活動を行わず、社会に何も寄与しないで、ただもらったもんを食いつぶしていくだけで一生を終える輩が欧米にはいまだ少なからずいる。長らく続いた貴族制度やその時代に対する偏愛とノスタルジーは健在だ。そしてそんな人間を主人公にした人間ドラマが成立するのも洋の西ならではだ。

私は、労働こそ崇高なものだなんてこれっぽっちも思っていない。物はすべて配給制で平等に分配されるべきなんて気持ち悪い思想をもったこともない。私は働くことの大嫌いな怠け者だし、熱しやすく冷めやすいし惚れっぽくて飽きっぽいし、つまり、アントワーヌと一緒やん、である。ただ、アントワーヌのこの物語は彼の勤勉な両親が築いたひとまとまりのお金と、たまたま子孫のない紳士が名づけた子に残した莫大な遺産とがなかったら「無い話」だ。彼の「飽食」も、誰かの「勤勉」や「蓄財」や「敏腕」のたまものだ。私とアントワーヌの差は、「ひとまとまりのお金」と「莫大な遺産」の有無だけだ。なのに彼は「生かされている」とはけっして思わず自分独りで生きているつもりでいる。

老人ホームという共同生活の場所を舞台にしてはいるが、ここでは、人は独りで生き、独りで死にゆくものであるということが前提にされている。まったく面白くもなんともない小説だ、とは言わないが、この大前提、というか発想の中核になっているものが私の中にあるものと決定的に異なるせいで、永遠なる相容れなさを感じ、読んでいる間も気持ち悪さがつきまとう。

私が、あなたが、独りで生きてゆけるのは、誰かの努力、誰かの制度設計、誰かの書類手続き、誰かが造った道、誰かが造った橋、誰かが実らせた果実、そして誰かの命があってのものだという視点が、ない。独りで生きてゆけているように見えて、けっして独りはあり得ないという視点が、ない。それは私などの感覚からすれば人生観の違いというよりは欠落だ。ミレイユの死に際してアントワーヌはたしかに生命のありさまを感じ取ったようだけれど、でも、ミレイユの息子に会って、命の連鎖を感じただろうか? そうは描かれていない。

皮肉と風刺が売りもののフランス小説に、もはや手垢にまみれて中途半端な流行語と化してしまった「絆」だとか「つながり」だとか、そんな日本語の意味を求める気はさらさらない。本書はこれでいいのである。ただ、フランスのひとというのはどこまでも「個」であり「弧」であるのだ、それを再認識させられた。ほどほどのところで妥協の手を打たないと、知れば知るほど互いが居心地悪い場所になるのだ。ああ。


私は本書を図書館で借りて読んだ。「フランス文学」の書架に「ハッピーデイズ」という英語カタカナのタイトルは、非常に異質に見えた。「英米文学」の書架にはどんなカタカナが並んでいてもピシッと決まる。『ホテル・ニューハンプシャー』『サイダーハウス・ルール』『ダヴィンチ・コード』『トラベリング・パンツ』……でも、仏、独、西、露などの書架にはカタカナのタイトルはほとんどない。ましてや英カタカナ語を冠した小説本なんて皆無だ。だから『ハッピーデイズ』は異彩を放って見えた。これが大型書店の新刊書コーナーにあっても、ひっそり目立つことなく、そしてやがては片づけられてしまったであろう。たまたま、私のような者が書架を眺めた日にそこにあったおかげで、また、たまたま私が分厚い長編小説を読む体力がまったくない時期だったから、薄っぺらい『ハッピーデイズ』は晴れて私に読まれることになったのである。
いつだったか『かげろう』というタイトルの、これも薄っぺらい短編を取り上げたが、タイトルだけを問題にするなら『ハッピーデイズ』のほうが『かげろう』の数倍気が利いているように思う。だってあれ、全然「かげろう」じゃなかったもん。でも物語の中身は『かげろう』のほうが面白かったけど。

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